反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

黄 晳暎(ファン・ソギョン)自伝。朴正煕暗殺事件1979年10月26日前後。~緊迫した攻防が短期間に集中し、独裁体制を転換させる一連の歴史的事件が立て続けに起こる~

「W。緊迫した情勢が続き、韓国史を転換させる一連の歴史的事件が立て続けに起こる。朴正煕暗殺事件1979年10月26日。

 

globe.asahi.com

引用

金載圭(1926年3月6日 - 1980年5月24日は、朴正煕暗殺のその日も移動の車中で日本の詩吟のテープを聴いていたほど、青少年期から日本文化に浸っていた。日本の武士道精神の崇拝者でもあった。満州軍出身の朴正煕も、日本の軍歌「麦と兵隊」を愛唱した。」⇒W。明智光秀織田信長を討った謀反のようなもの鎌倉幕府内の御家人同士の暗闘とも似ている

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W。資料

元KCIA部長を追って | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)

W.

1973年8月8日金大中訪日中、東京ホテルから拉致、秘密船で渡韓、軟禁事件⇒なぜ殺されなかったのか?

アメリカと日本が圧力をかけたことと(W。日本とアメリカの当該機関の監視下にあり、拉致すればすぐ察知は承知の上で実行した。最初から殺すつもりはなかった。金大中氏は米国東アジア戦略の手駒、キーパーソン、日本の飛行機が彼を運ぶ船の上を旋回して牽制したからだ。奴らがなぜこんな馬鹿なことをしたのか僕には分からん(W。上記の意味があって馬鹿な事と元CIA長官は言った)想像に任せる」という答えを引き出した。」

 

②金元部長の贅沢な暮らしのもとは在任中に隠した2千万ドルの秘密資金だという噂。ニューヨークでの豪華な暮らしを目の当たりに見てびっくり。

金元部長がヨーロッパからニューヨークの空港に着いたところで逮捕されたというのだ。 何でもドルの札束を大量に身体に巻き付けて、 よちよち歩きで税関を通り抜けようとしたため御用になってしまったらしい。」

もう一度金元部長に会って、いつか必ず話すと言っていた日韓間の秘密政治資金の流れを聞きたかった。」⇒W。カネとヒトの流れ。日本、韓国、米国、台湾。

 

④「金元部長がヨーロッパに金を取りに出かけたまま行方不明になり、殺されたかもしれないというものであった」「2005年5月KCIAの生まれ変わりである韓国国家情報院の「過去事件の真相究明委員会」が「金炯旭氏は79年9月頃パリにおびき出され銃殺された。これを指示したのは当時の金戴圭中央情報部長であった」という調査結果を公表した。」⇒実行の指示者は大統領に評価されなかった。明智光秀の心境も暗殺の動機にあった。

 作者は言う

「18年に及ぶ長期独裁によって窒息しそうな状態だったが、風船が割れたよが解消された気持ちになった⇒W。ファンソギョンの自伝によれば民主活動家は暗殺によって活気ずく。

>一方、多くの国民は心底悲しんで涙を流した。18年間熱心に国家を建設してきたCEOが亡くなったように感じた人が大半だった。

 

W。原作本は翻訳され図書館に所蔵されている。原作者は当時、東亜日報の記者、時系列はドキュメンタリータッチで臨場感があり、暗殺前後の様子(取材)もリアルに描かれている。

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 「1979年の4月。世の中がひっくり返る事件が起こった。運動資金強奪失敗事件(金南柱たち。

私はそのころ、ひどく動揺していた。おそらく長期新聞連載小説と設立したばかりの現代文化研究所がなければ、自分の金南柱と同じ道をたどっていたかもしれない。

金大中、金泳三(W.釜山、馬山出身政治家、議員職はく奪によって地元で暴動。そのご1987年6月民主化化抗争による初の大統領選挙で民間大統領に選出)ら野党政治家も次第に急進的な政治闘争へ踏み出し、学生は拘束や逮捕を恐れず中心街に飛び出すようになった。知識人や宗教家からも拘束者が増えてきて、現場では労働者の闘争が激しくなった。(W。大衆の自然発生的な闘争であり、結果的に大衆実力闘争の大きなうねりが朴正煕独裁体制にぶち当たっていたさらに独裁は国際的にも孤立気味であったベトナム戦争終結1975年。天安門事件(第1次)1976年4月。ジェームズ・アール・カーター1977年~1981年米国大統領。) 

 8月にはYH貿易の女性労働者187名が、親民党の講堂で座り込みを開始した。警察は2000名の警察官を動員し若い女工らの座り込みを排除した。その過程で一女性労働者が死亡したが屋上からの投身自殺死であると発表した。

~~金総新民党裁は「私たちが女性労働者の保護と支援をします」と約束した。

すると政権は女性労働者幹部を拘束し、総裁に議員職まではく奪した。この事件が維新政権没落のきっかけとなった。

 カトリックプロテスタントなどの宗教界と在野の人々は対策員会を構成し枢機卿を先頭にデモ行進を行い、「国家保衛に関する特別措置法」の即時撤廃を主張した。

>光州でもYMCA講堂で宗教界と在野の人々の抗議集会が開かれ、私は声明文の作成を依頼された(W。ファンソギョンは活動拠点をソウルから光州に移している。結果的に翌年1980年の光州事態の当事者になるが当日、偶々ソウルに用事があって出張中で、潜伏することに決めた)

この声明文の朗読はほかの牧師がすることになっていたが本人が参加できなくなったので私が代わって読み上げることになった。コレは明白に特別措置法に違反する行為だったが、逃げるわけにはいかないとおもった

 行事が終わって帰宅すると、警察が訪ねてきて「上部から別途指示があるまで自宅から動かないように」と警告された。事実上の自宅軟禁である。

**からきいたところでは私の作成した声明文が他のものより最も過激だったので、ソウルでは私が拘束されると予測していたらしい。

~~

 私は鬱屈した気分になり、金南柱のいう韓国民主化闘争国民委員会の「作戦」に参加したい気持ちが高まった。

そして悩んだ末に**牧師を訪ね謄写版の借用を申し出た

かれはそれを一体何に使うつもりかと尋ねたので、若者たちの文集を出すつもりと答えた。私は妻に自分の考えを示して原稿を作成した。

内容は「朴独裁と戦おう!」と主張する一種の決起文だった。

妻と夜通し刷ったビラを押し入れに隠して寝ていると、朝方になって**が訪ねてきた。

「先輩!昨日牧師にあいましたが、心配していましたよ」と告げるのだった。

**牧師は光州の聖職者のうち最も親しい間柄だった。その言葉に私がこらえられずにいると、彼は問い詰めてきた。

謄写版を借りたそうですね。何をするつもりですか。」

私はやむなく最近の心境を話し、情けなくてこれ以上耐えられそうにないと打ち明けた。いっそ懲役でも食らって監獄入りした方が自分の小説の読者にもいさぎよく映るのではないかと告白した。

彼はビラをジックリ確かめると深いため息をついた。

「先輩はそれで気が晴れるのですか?ここに韓国民主闘争国民委員会と書いてますが、金南柱にあったのですか?」私が会ったというと

「今その辺りがうわさになっています。僕らの直ぐ近くで、よくご存じの華夏型の名前が挙がっています。」

わたしがホ、スル方聴いた話をするとうなづいて(W。合同出版会には近づくな、当局が大掛かりなでっちがげ事件を目論んでいる~人民革命党事件~)

「みんなも警戒しているでしょう」というのだった。

彼はこうして闇が深いことを見て取ると、夜明けも近いだろうから、そういうときこそ沈着冷静に行動しなければならないと重ねていった。

さらにビラの束をつかみ振りかざしながらいった。

「先輩!すぐこれを焼却します。なかったことにしましょう!」

妻は黙って座っていたが、すぐ牧師からビラの束を奪い取り立ち上がった。

「私が燃やします」

彼女はブドウの枝が垣根に伸びている花壇ですぐビラを焼却し、土の中に埋めて上がってきた。

 そのころ、現代文化研究所のドアは固く閉ざされていた。私服警官が我が家の周辺を徘徊し近くの路地の入口にも見知らぬ男たちが歩き回っているのだった。

 

 1979年10月9日内務省南朝鮮民族解放戦線関係者の検挙を発表した。

もともと、「韓国民主闘争国民委員会」だったものが「南朝鮮民族解放戦線準備委員会」となっていることからも「お前たちの最終目標はこれではないか、この準備委員会だな」と判断したのだろう。

政府はこれによって北朝鮮共産集団の対南戦略に従って国家転覆を画策した事件」と大々的に発表した。

 

 >この事件が発表されても、YH貿易事件で、金泳三が国会議員職から除名されたので釜山の民心は混乱していた。

1979年10月16日(W。朴正煕暗殺事件1979年10月26日)

釜山大学の学生5千名が維新撤廃を叫んで街頭に繰り出し、釜山大学、東亜大学の学生と市民らがともに派出所など公共施設を破壊すると政府は

1979年10月18日釜山一帯に非常戒厳令を布告した。

戒厳令を恐れなくなっていた釜山市民は深夜まで闘争をつづけた

馬山大学と慶南大学

の学生たちは馬山市内に集まり、これに輸出自由加工地域の労働者も加わり、さらに多くの市民も加わったこの事件は釜馬民主抗争 - Wikipediaと呼ばれた。

引用

釜山馬山でデモが発生した背景には、経済的、政治的な原因がある。

経済面では、韓国では1978年から付加価値税が導入され、一般市民の日常における納税負担が高まった。また、当時の釜山一帯は食品繊維産業といった軽工業が発達した地域だったが、第二次オイルショックの発生で原油価格が高騰したため、輸入原料加工貿易に依存していた地域経済は大打撃を受けた。この二重苦によって釜山一帯は韓国内でも特に景気が悪化した地域となっており、1979年不渡り発生率はソウル特別市の3倍に達していた[1]。そのため、当時の釜山一帯は広範囲な社会階層から政府に対する不満が集まりやすい環境にあった。⇒W.ナルホド!地元選出の大物議員の資格はく奪という政治的な理由だけでは唐突感があった!馬山は自由貿易地域に指定されていた。のちに台湾や中国がまねをする。

1979年10月20日

政府は昌山戒厳令を布告し、

24日には大邱にまで範囲は広がり啓明大学の学生もデモに参加した。

 しばらくすると**が連行され厳しい拷問を受け現代文化研究所と南朝鮮解放戦線の関係を追い詰められたとの知らせが入り、大きな組織的事件になるとの見方が広まった。活動家の**をはじめ農民会の人々も解放戦線の名簿を根拠に拘束され、南道全域に大きな検挙のあらしが吹き荒れた。

 私は妻と話し合い、簡単に荷物をまとめて家を出て身を潜めた。

>ある日、夢うつつの耳に何やら差し迫った声と操縦な音楽が切れ目なく流れ、ニュースが反復されている。もうこれ以上耐えられないと歯ブラシを加えて中庭に出てみると

家主の少年が上ずった声で、話しかけてきた。

「韓国で戦争が起こったらどうなるのでしょう?」

私は彼がなぜ突拍子もないことを言うのかと、寝ぼけ眼でみかえすと、彼は

「朴大統領が銃に撃たれて亡くなったそうです」とおしえてくれた。

私は聞き違いではないか、ラジオのそばに座って耳を傾けた。

文化広報部長官の泣き出しそうな声は、確かに大統領の事故死を伝えていた。

私は茫然と突っ立っていたが、やがて身震いするとすぐに部屋に戻り、カバンに荷物を詰め込み光州に向かった。

 朴正煕の死で世の中は完全に変わっていた。

テレビは終日、事件の報道と追悼番組を流し、

>それまで身を隠していた人々が一人歩たちと研究所に集まり、緊急事態措置法違反組も時期に姿を現す妥当と期待が高まった

@維新政局の暗雲が晴れたその日、**、**と青年数人らとともに、無等山でビール4箱ほどを空けたことが思い出される。

 現代文化研究所のメンバーになった学生は、その後、光州周辺の農村や工場現場へと講演活動の場を拡大し

ソウルの在野の人々と野党政治家は、新軍部が大統領代行を大統領に選出しようとする動きにたいして、

大統領直接選挙制度の実施、維新憲法撤廃、拘束者の釈放と一日も早い民間への政権移譲に向けた政治日程の繰り上げを要求した。

そして戒厳令の下では集会及びデモが認められないと知ると、YMCA講堂で結婚式を挙行すると発表した。

長老、野党政治家、宗教者、大学教授、免職記者、文化関係者、青年活動家らが集まり、新郎新婦の入場とどうじに声明文を読み上げると、警察機動隊が突入し、無差別に参加者を殴打し逮捕していった。

 人々は国家保安司令部に連行され、厳しい拷問を受けた

**は髪を抜かれ::はこの時受けた拷問で、以来ずっと健康を回復しないまま80年代を過ごした。

小説家の**は在韓アメリカ軍司令部の軍事統治下で起こった

済州島四・三事件 - Wikipedia

を題材にし小説を執筆した作家であると解ると逮捕され、軍の捜査官から酷い拷問を受けしばらくその後遺症に悩まされた。

  光州でも宣言文の作成に着手した。

声明文は私が作成したが解職教授協議会の**教授が読み上げた。

宣言文発表を終えて無事家に帰ると夕刻警察が私を逮捕しにやってきた。そして私はしっかり着込んで連行された。宣言文に署名した人々の多くも連行された。

警察の留置所で一夜を過ごし、翌日身柄を保安司令光州支部に移された。ソウルとは方針が異なっていたのかかなり侮辱されたが拷問は加えられなかった。

 私たちは戒厳令違反などの嫌疑で起訴された。

私は監獄においては若い憲兵から注目された。

彼らの多くが入隊するまで小説「張吉山」の読者だった。

義賊「張吉山」を書いた、作家黄晢暎の思いとは… | 嶋村初吉のブログ

W。1974年-1984年にかけて日刊紙「韓国日報」に連載。

編集長は若い作家(31歳)ファンソギョンの力量を高く評価し執筆を要請し原稿料や資料の収集の援助した。この作品によって作家として自立できた。韓国で有名な義賊を描いた大衆歴史小説である。執筆当初の事情は自伝に詳しく載っている。

ファンソギョンには日本の文学的作家にありがちな観念の先行は全くない。

 現実状況にリアル密着して物語を創作するタイプの作家である

その意味で大江健三郎万延元年のフットボール - Wikipediaとは対照的な作家である。⇒書き出しの部分からこの小説は読めない、投げだした。

ファンソギョンの出獄後1998年(アジア金融危機IMF管理下の民主大統領時代に対する態度がそれまでの経歴からすれば毀誉褒貶しているようにいわれているが、

国家保安法違反の獄中1993年~1998年にヒントがあるように思える。

その箇所は自伝で明らかになっている。

金芝河の晩年とは目線の方向が違うが、韓国の土俗性に還ったという点では同じである。よくあるパターンだが仕方がない。それに金日成以降の北朝鮮の王朝継承的変貌に民族統一の夢絶たれ失望したのではないか。北と南は日本人の想像以上に歴史的地理的民族的接近性と相互反発性がある。

 作家はいつまでも前線に立つことはできない

大江健三郎が反原発10万人集会で魯迅がどうとかこうとか壇上で言っているのを動画で見て見苦しい説教をしているな、と実感した。

文藝者としては本来あり得ないエリートの砦に閉じこもったままの大江と自分は阿Qなのだ、とするWの魯迅の読み方に決定的な違いがあるようだ

阿Qは、あんなおりこうさんの集会はうんざりする。10万人集められるのだったらもっと早くやれと。事故発生直後、沈黙していて様子を見て出ていく。この手法が間違い。

最初、やれば大衆運動は力を持つ。後からやれば何人集めようがカンパニアだけになる。

大集会の壇上からの有名人の説教は見苦しい。聞き苦しい。しかも自分は大したことが言える訳ではない,とわかっていない。自己過大評価だ。これを知らないのは自分にとって他者にとって大衆行動の威力を知らない、いということ。啓蒙の同心円的拡大で世の中がかわったためしがない。

大衆運動の参加者はある意味、阿Q的存在なのだ。ファンソギョンの自伝で描かれている人士はある意味阿Qだった。阿Qに説教はイラナイ。山口二郎とかいう政治学者も己を知らなすぎる。自分は運動の中に入ると無能なのだということがいい年をして知らなすぎる。学窓の政治学なんて通用しない。

 ファンソギョンは作家であると同時に民主活動家であった過去において、活動家の部分を捨てた、ということである。戦ってきた「成果」が目の前に出現したときにそれは違うと情熱が冷めていった。サークル主義的な人脈優先の運動段階の作家兼活動家の限界だったかもしれないし、彼にとって政治活動は政治的論理の問題ではなく感情文化の問題であった。作家ってそういう存在なのでは?