反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

1980年、光州抗争以前、と以後。日本の研究者の弛緩した見方と現地の緊迫感ある評論。

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5·18民主化運動記録館

全斗煥 - Wikipedia

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死者への追悼と社会変革――韓国民主化闘争を振り返る

                       真鍋祐子

                               2018年6月2日

真鍋祐子私は韓国の民主化運動についてずっと研究をして参りました。それで1987年から88年にかけて、一年間ソウルに留学をして、1991年から93年にかけて2年間、大邸(テグ)にある大学で日本語教員をやっておりまして、その間、民主化運動はまだまだ激しい時期でした。ちょうど大邱にいた時分に民主化運動の現場で抗議の焼身自殺というのが一ヶ月で11件も続いた、そういう時期を過ごしました。それは1991年のことです。4月にソウルにある明知大学の一年生がデモのさなかに機動隊に殴り殺された事件をきっかけに、抗議の焼身自殺が全国に広がったのです。

在職していた大学のエントランスホールには、どこかで抗議の焼身自殺者が出る度に焼香台が設置されて、その台の上に亡くなった学生なり労働者なりの遺影と、ときには黒焦げの遺体の写真、あるいは燃えているさなかの写真が飾られていて、お焼香ができるように線香が立ててある。これが4月から5月にかけて約ひと月、10人以上も亡くなっているので、非常に私にとってもハードな経験でした。

その時に、なぜ自分自身が信ずる正義を主張するために死ねるのだろうかと疑問に思いました。しかも、そこで亡くなっていく学生というのは、韓国は兵役制がありますので、男子学生だと復学生といって、自分とほぼ同年代なんですね。その同年代の韓国の学生・労働者たちの感覚というものに、どうしても共感できなかった。なぜなのかということを、知りたいと思いました。

あと、焼香台が設けられているところにいて、これは社会運動ではあるんだけど、宗教ではないかとも思いました。以前、韓国の漁村でシャーマニズムの調査をやってきましたので、伝統的な死生観という観点で、韓国の民主化運動の問題をやってみようかなと思いました。

この遺族会はもともと「民主化運動遺家族協議会」という名目で1986年に発足するんですが、90年代の半ばあたりに「全国民族民主遺家族協議会」と改称されます。それはなぜかというと、学生運動の争点が民主化を求める運動から民族統一を求める運動へじょじょにシフトしていくからなんです。

この遺家協という団体の元祖というか、烈士の始祖にあたる人というのが、1970年11月に労働者の生存権を主張して焼身自殺をした東大門(トンデムン)市場の裁縫工だった全泰壹(チョン・テイル)という人物です。その死をきっかけにして、全泰壹のお母さんと東大門市場の衣料工場で一緒に働いていた労働者たちが、なんとか彼の遺志をついで労働者のために闘おうと運動を始めるわけです。

この人たちのやり方というのは、労働災害が起きて誰かが亡くなったりとか、どこかで機動隊に殴り殺された学生がいるとか、抗議の自殺をした学生がいるとかすると、相手の遺族のもとを遺家協のお母さんたちが訪ねていくんですね。そこでその悲しみを同じ立場の者として共有しながら、半分カウンセリングのようなことをしながら、あなたの子どもの死は無駄ではないことを証すために私たちとともに頑張りましょう、というような、いわゆるグリーフワークをともにするという、悲哀の作業といいますけれども、そういう働きかけのなかで、働きかけていく自分自身もその途上にあるわけですから、自分自身も癒やされ、相手も運動することによって悲しみというものを力に変えていくというような、そういう取り組みが世代を超えて今に至るまで続いてきた、これが遺家協という団体になります。

 W??

「恨(ハン)という言葉を言っていただいたんですが、韓国では結婚前に亡くなったとか、横死・客死など正常な死に方ではない、そういった死者に対しては、伝統的な儒教的な葬儀を行うこともできないし、法事を行うこともできない、お墓も作れない、死体は裏山にそのまま犬とか猫の死骸を埋めるみたいに埋めて墓標も作らずそのまま放っておくとか、あと火葬にして全部骨粉にして山や川に投げちゃうとか、それで終わりなんです。また親よりも先に死んだとか、ましてや運動の最中で死んだとかいうと、親不孝者という儒教的な価値観でも負のレッテルを貼られ、なおかつ政治的には「アカ」というレッテルを貼られ、学生運動のなかで亡くなったなら「暴徒」というレッテルを貼られと、何重ものレッテルを貼られて、親自身も鬱々としたやりきれない思い、そしてどこにそれを吐き出せばいいのかわからない、そういう自分たちのなんともモヤモヤとした、そういう思いをなんとか力に変えていくというのが、韓国の恨。恨みつらみを抱きつつ復讐するという意味の日本語的な「恨み」とは全然違う概念になります。」

 

その期間にビラでまかれた作者不詳の詩「光州市民葬送曲」というのがあります

こういう詩が1980年5月にビラでまかれ、この詩は5年後に地下で、非合法に学生運動家たちがつくった「光州よ、五月よ」というカセットテープのなかにメロディつきで歌になるんです。W。ファンソギョン自伝「テープの制作にかかわっている)

「光州市民葬送曲」のなかの2番目の2行目に「民主魂が生きている」というくだりがあるんですが、1985年版では「民族魂」に書き換えられる

3番目の「三千万同胞よ」以下のフレーズがそっくり切り落とされるんですね。

これが何を意味するかというと、1980年から80年代なかばの間にイデオロギー闘争というか、光州事件をどのように理念化するかということが地下で進んでいくんですね。光州事件の渦中にある市民たちは最後はアメリカが助けてくれるだろうと待ち続けるんです。ところが実際は、アメリカは、韓国を分断地帯というか冷戦構造の緩衝地帯にするという国益のために全斗煥政権を支える立場に立って、空挺部隊の投入を韓国軍に認可するんですね。当時の韓国軍というのは、アメリカ軍の許可なしには動けなかったんです。蓋を開けてみれば、自分たちを虐殺するために韓国軍をアメリカ軍が影で操っていたわけです。空挺部隊が来て、27日に壊滅状態に陥れられることになります。

この光州事件の経験を通して、ようやく民主化ということにもまして、反米的な民族志向的な理念が生まれてきます。

これは光州事件の市民軍を率いた尹祥源(ユン・サンウォン)という人が、韓国ではというか、光州を中心にした南西部では若くして亡くなった男女を死後結婚させるという風習がありまして、この尹祥源も事故死した同志の女性と死後結婚をした、その婚礼に寄せて作られた詩です。

もうひとつ挙げておきましたのは、「朴寛賢(パク・クァンヒョン)鎮魂祭-海東人が書き、ノレ・クッを行なう」です。

これも光州事件で有名な、光州事件の導火線となる14日の「民主大聖会」で名演説をした全南大の総学生会長が、1982年に獄死するんですが、この人の葬儀のときに作られた詩です。

最初に死者の来歴を語り、あの世に行く道はどれだけ険しいかということを延々と語っていくやり方というのは、シャーマンが死者儀礼を行うときに歌う歌というか、その形式に沿ったものであるし、自然の森羅万象のなかに彷徨って行き場のない死者の魂があらゆるところにさまよっているという状況が、この「復活の歌」にも朴寛賢の鎮魂祭の歌にも表れています。

こういったシャーマニスティックな下地のうえで、死者の死を悼む詩というのがたくさん光州を起点として作られてきたということがあります。

W。言っていることが解らない。現時点で。ファンソギョンの活動家としての文化面での仕事は自伝でよく出てくるがおそらくこういうものだったのではないか。

W。三島由紀夫の「愛国」小説で神道神主が出席者を前に祝詞をあげて2,26事件に決起した皇道派青年将校昭和天皇を霊感で呼び出し「呪う」シーンも、この一種。朝鮮半島シャーマニズムとか、この女性東大教授をわかったように言っているが、半島を最初に統一した新羅の初期の各氏族の寄り合いで祭政一致する儀式や共同体貴族のヒエラルキーの象徴~最高位紫だったか?~が古代日本列島の古代貴族の下に持ち込まれ、同じようなシャーマニズムをやっている。日本の神道と朝鮮の土俗習俗(両班の身分が大衆化するとともにその儀式も大衆化したものだろうか?)は似ている。抵抗運動に土俗を取り入れたのはファンソギョン等の文化人の功績である。

  しかし、下記の記事からはその種の気配が感じられない。

民主化闘争の活動家は自分たちの戦いを肯定的にとらえる物語性を共有し、ある意味、楽観的なところがある。運動基盤から沸き起こる自然発生が常にあり、活動家は動けば答えが返ってくるという暗黙の信頼がある。近代化の途に就いた矢先に日本帝国主義の植民地支配を受けて、分断下の国民国家形成が始まったのは朝鮮戦争が終わってからだった。国家と国民、文化政治が若く自分たちが短期間に成し遂げてきたことを肯定的にとらえている人が多い。民主化を戦った知識人がその目を通した国の歴史を解りやすく書ける、ことには感心する。      

「僕の韓国現代史」ユ、シミン著下の評論ではない

 この評論も戦いと<死>というテーマにかぎっての物語である。この手の物語性がどうしてできるのだろうか?という疑問への抽象的な考えは上に示したが、リアルに解っていない。

韓国は<文>の国柄である、ことは間違いない。

東大女性教授の話の内容はいかにも日本的曖昧さがある。間違ってもいる。

<死>に絞った物語はかなり強引だが論旨が一貫している。

徴兵制での入隊経験生と死のハードルを低くする要因になっているともう。

韓国社会は同質性が高い、との指摘はよく聞く。<死>という衝撃的な事実は同質社会では伝播性が強い。一種の政治死は解ってもらえる、伝播性がある、という気持ちがどこかになければ実行しない。言い換えると絶望しきっての死ではない。自爆テロに次元は似ている。

      ↓

光州民衆抗争と死の自覚 | 季刊 『創作と批評』

「光州民衆抗争と死の自覚 韓洪九

 1.はじめに 
5・18光州民衆抗争は、韓国の民主化運動史において、最も重要な位置を示す事件である。

>光州以前の運動と以後の運動とでは、様々な面で明確が違いがある

@1970年代の運動は、少数の知識人・宗教人・大学生エリートを中心に展開されたが、

Wファンソギョンが1987年の6月抗争以降の運動の波に乗れなかった要因は結局、ココに尽きる。かれは光州事態以前の活動家だった。

光州の虐殺と抵抗を経験した後の80年代の民主化運動には、

@それ以前と比較できない程、多くの人々が参加した。参加者の数とその幅のみならず、闘争に参加する人々の態度も大きく変化した

虐殺者の全斗煥が大統領という座についていたこと自体が、若い人々の魂には、耐えられない屈辱であった。光州の殺人魔を処刑するためなら、相手がどのような人であっても手をつなぐことができたし、どんな急進的な理論でも受け入れることができた

光州が、その後の民族民主運動に与えた影響力は、絶大であった。

80年代の民族民主運動の源泉は、他ならぬ光州であった。

惨めに敗北した戦いであった光州が、なぜ、韓国の民主化運動史において、独歩的な規範力を持っているのだろうか。

その答えは、「死」にある。

光州を通して、死が、われわれの周りに来たのである

光州での死が80年代を生きてきた人々の中に、入ってきたからであった
しかし、光州だけで、人が死んだわけではない。

ところが、なせ、光州の死は、特別に思われてきているのか。

なぜ、光州の記憶が、韓国の民族民主運動に、広い範囲で、持続的に、また、根本的な影響を与えたのであろうか。

何が、光州を特別な事件としたのだろうか。

光州の死を記憶した人々の人生は、また、彼らの理念と闘争の態度は、どのように変化したのか。光州以前と光州以後の運動は、どのように異なっていたのか。

 

   2.死を殺した韓国現代史
    ~補導連盟虐殺事件~
光州以前の韓国現代史は、

いくら身近な仲であっても共産主義というイデオロギーと関わった政治的死に関しては、追悼することも記憶することもできなかった。

数多くの人々が、死んだことに関しては、遺族すらも話すことができなかったし、よく見る追悼碑も建てることができなかった。

>数多くの人の死を言及することすらできなかった韓国現代史は、「死ぬことすら殺してしまった」残酷な歴史であったと言える。

   W.補導連盟事件のことをいっている。
 大韓民国の軍警や右翼団体が実行した虐殺を直接見たことも聞いたこともない彼等は、持続的に左翼や人民軍が行った虐殺と残酷な行為に関する教育を受けた。こうした注入式教育の結果、朝鮮戦争前後の民間人虐殺に関することは、すべて左翼と人民軍の仕業として描かれた。

極右反共体制のイデオロギーが大衆に内面化されるのには時間が必要であった。長期間の軍事独裁を経て、韓国の初等・中等・高等学校の学生らの反共意識は、1950年代の青少年に比べ、「もっと反理性的で、非人間的な」 ソ・ジュンソク、前掲、726頁。   ものに変わっていく。

ベトナム派兵で、約5000名の軍人が死亡したが、メディアは、死亡者が300名を超えていくと、死に関する話を取りやめ、「越南から帰った金上士」と始まる歌だけを楽しく放送した。1960、70年代には、ベトナム戦の死亡者を除いても、韓国軍で、1400~1500名の死亡者が発生する時代であった。戦争を行っていなくても、韓国軍では、2年ごとに1連隊以上の兵力を失っていった。しかし、人々は、ただ軍隊だから仕方がないと無関心であった。

朝鮮戦争以後、死に対する記憶が極端に抑圧された韓国社会においては、死に対する「感受性」は発達しなかった。

玄基栄(ヒョン・ギヨン)の『スニおじさん』が象徴しているように、死に対する恨みと悲しみは、他人とは分かち合えないものであったために、内部の方へ染み渡っていった。⇒W.女性教授の意見とはちがって、独裁に抵抗する戦いによる死は独裁によってあってはならないものとされてきた。補導連盟事件による死者は100万人ともいわれている。運動側が犠牲者追悼と鎮魂、たたかいの共有のために創意工夫した。


      3. 実感できない死と近づいてくる死の影
朴正熙政権は、分断という時代状況や民間人虐殺という行為により、すでに、滅菌室レベルに近い程の反共(意識・運動)が行われた土台の上で出発した
>言い換えると、独裁権力が処理すべきと思う人々はすでに処理され、ともかく、多い人々が除去された状況の中、その権力を取ったことである」。
韓国の独裁権力がコントロールすべき大衆は、相当、飼い慣らされた人々であった

国家権力は、監視網で、大衆を統制した。武装闘争が日常化された他国と比べた時、韓国の抵抗勢力が動員する暴力とは、空手か、小石と火炎瓶であった。

それも、過激行動という批判を受ける状況において、抵抗運動が、銃や爆弾を持つことなど、想像し難いことであった

衆が一定の線を守り、抵抗暴力をほとんど動員しない状態で民主化運動を展開したのにもかかわらず

朴正熙の執権期間の戒厳令は、すべて3回実施され、総31ヶ月間継続され、「衛戍令」も3回実施され、総5ヶ月間持続された緊急措置は、すべて9回にわたって発動され、69ヶ月間持続された。

朴正熙が執権した220ヶ月中、105ヶ月間は、戒厳令、衛戍令、緊急措置など、非常手段が常時化していたことになる。 

学生や労働者に向けて発砲・集団虐殺は敢行しなかった。これは、この軍事政権では、先に発砲を敢行するほど、状況が緊急に展開しなかったという側面もあるが、朴正熙政権が、大規模の流血事態を避けるために、それなりのコントロール力を発揮したことを意味する。


しかし、1970年代になると、また、死の影が現れる。
1970年11月13日、ジョン・テイル(全泰壹)は、「我々は機械ではない」と叫びながら焚身した。
1973年10月19日、ソウル大学法大教授の (チェ・ジョンギル)は、中央情報部の中で、変死体で発見された。
中央情報部は、 崔鍾吉教授がスパイ行為を自白し、自ら投身したと発表したが、この発表を信じる人はいなかった。このように、死の影が徐々に現れるようになったが、光州以後と比較すると、民主化運動勢力が、まだ死を実感しているとは見られない。

人民革命党事件関連者7名と民青学連事件関連者7名に、死刑を求刑した(『朝鮮日報』、1974年7月9日、11日)。
@「光栄です」。この言葉は、民青学連事件で拘束されたソウル大学商学大3年生の金炳坤(キム・ビョンゴン)が、死刑を求刑された後に残した最後の陳述での冒頭にある。

金芝河(キム・ジハ)は、「栄光です」という言葉が、「死に勝ったこと」 金芝河「苦行:1974」『東亜日報』1975年2月26日。 と高く評価した。
@維新の法廷に響いた「光栄です」という言葉には、そのような側面もある。

@しかし、22歳のキム・ビョンゴンが、堂々と「光栄です」と言えたのは、ある一方では、死を実感していなかったことを意味する

死刑を宣告された民青学連関係者の皆が控訴を諦めた。

1審の死刑判決から10日後の7月20日、非常軍法会の管轄担当であった国防部長官のソ・ジョンチョルは、民青学連と人革党の繋ぎとされたヨ・ジョンナムを除いた6名の刑を死刑から無期懲役減刑した(朝鮮日報』、1974年7月21日)。もし、キム・ビョンゴンなどが朴正熙政権が自分たちを本当に殺すと思っていたら、そして、その死の影が近づいていることを実感していたら、「光栄です」と言えなかったのかもしれない

ホーチミン陥落が秒読みに入った1975年4月9日、維新政権は、人革党再建委事件の関連者8名の死刑を電撃的に執行した。

朴正熙経験が、「司法殺人」という非難を受けながらも、死刑を執行したことは、政権に対する恐れを失った学生たちに、何か脅かすものを見せる必要があったからである。

しかし、朴正熙の脅かし戦略は、あまり効果を見せなかった。死刑者の中に、人革党再建委所属ではない慶北大生のヨ・ジョンナム(呂正男)がいたにも関わらず、学生たちは、処刑された人々は、自分たちとは無関係である「赤」という考えた。

スパイや「赤」の死は、反共規律社会であった韓国では追悼してはいけない死、殺しても殺したことにはならない非人道的な死であった。統革党事件のような組織事件や工作員事件と関連した死を、わが社会は悲しむことなく、そのまま受け入れていた。

1970年代の学生たちは、1980年代の急進的な学生活動家たちとは異なり、自身の実践が理念的な面において「純粋な民主化運動」という線引きをしたことが多かった。

ソウル大学生の金相鎭(キム・サンジン)が、人革党事件関連者処刑直後である4月11日に割腹自殺したが、当時の学生たちは、金相鎭の死には、衝撃を受けたが、人革党関係者の処刑には、直接的な反応を見せなかったのである。


1979年8月9日YH労働組合の女性労働者187名は、会社の偽装閉業に対する抗議として新民党社に入りデモを始めた。政府は、デモ開始2日目の8月11日、大統領の裁可を受けて、電撃的に強制解散を断行するが、この過程において、YH労組大委員の金景淑(キム・ギョンスク)が死亡したまま発見された。

この事件が、導火線になって、政局は、金泳三新民党総裁の除名、釜馬抗争の勃発、10・26事件勃発へと急速に展開していった。

急措置期間には、学生たちを学内から出られないようにしていたが、学生たちと一般市民の「合勢」は現実となってしまった。

>しかも、中央情報部長の金載圭(キム・ゼギュ)は、釜山の現場を直接見てから

このデモは、「文字通り、民乱」であるとし、ソウルを始め、5大都市へ拡散されるかもしれないと予想した。

朴正熙は、この報告を聞いて、急に怒り出し「

これから、釜山のような事態になったら、僕が直接発砲命令を下す」とした

また、同席した警護室長の車智澈(チャ・ジチョル)は、「カンボジアでは、300万名を殺しても問題なかったから、私たちも、デモ隊員を100万名~200万名くらい殺しても問題ありますか」と言ったという。

金載圭は、誰よりも朴正熙については、よく知っている人物だったが、「このような朴大統領の反応は、ただ口にしただけには済まない」ことであると加えた。

  金載圭 「控訴理由補充書国民の皆様!民主主義を満喫してください10・26再評価のための資料集』10・26の再評価と金載圭名誉回復推進委員会、

@控訴理由補充書」は、 金載圭自身が書いたもので、弁護人団が作成した「控訴理由書」に比べ、彼の考えがより生々しく書かれている。
@ 金載圭は、4・19のような流血事態を防止するためには、朴正熙を銃撃する以外、「他の方法は、全くなかった」と裁判中に何度も強調したのである。

 

@金載圭の朴正熙射殺は、維新政権の終焉をもたらしたが、軍事独裁の終焉をもたらしはしなかった。
@彼が投身して防ごうとした大規模な流血事態も、発生時点が半年ほどの遅れて、他の場所になっただけで、結局は現実となってしまった。

@1980年5月、全斗煥をトップとした新軍部勢力は、自分たちの不法的政権奪取に合わせ、民主主義を訴える光州市民相手に、虐殺を敢行したのである

     4. 光州、そして、死との出会い
軍事独裁時代の韓国政治史は、基本的に過大成長した国家機構対過小成長した市民社会の対決であったと言える。
@国家機構の中においても、最強だったのは軍部であり、@市民社会内で国家権力と対決できた集団は、学生たちであった。
軍と学生の対決は、5・16軍事反乱以後、20年間の現代史において基本軸を成している対立関係であったが、
>その対立が直接的な流血事態へ発展したことはなかった

   しかし、光州では違った。
全南大に進駐した空輸部隊は、学生たちを残虐に鎮圧した。街でも空輸部隊は、学校や劇場などまで行って、若い学生たちを手当たりしだいに殴ったり連行したりした。
  

   当時、高校生の市民軍として参加したカン・ヨンジュ
その時、すでに何人かが死んだという噂が出回っていたが、カン・ヨンジュも友人と集まり、デモに行く前に、髪と指の爪を切っておいたデモ現場では、自分たちが死ぬかもしれないことを気づいていたからであった。

    ガン・ヨンジュのインタビュー

>空輸部隊の酷い目にあった光州市民が、死に直面することになったのは、5月21日、道庁の前で、空輸部隊が市民に向けて発砲してからである。
隣にいた人が銃に打たれ、倒れていく光景を、市民は見守っていた。
@カン・ヨンジュによると、銃に打たれていく人をみて、怖いというよりは、怒りの感覚が沸いてきたという。
カン・ヨンジュは、倒れた人を、他の青年と一緒に車に乗せて病院へ向かったが、病院に到着して看護師さんに聞いたら、その人は、すでに死亡していた。その看護師は、カン・ヨンジュの手を見て治療すると言ったが、
@その時に、カン・ヨンジュは、自分の両手が全部破れて血だらけになっていることに気付いたという。生と死が分けられるその瞬間は、皆、気が動転していた。

 光州の人々が、こうしたカオス状態において、死と対面しながらも、その死を実感できないでいた時に、新軍部側は、光州の死を再び殺そうとした。

当時、光州は、徹底的に孤立状態であった。光州の外側では、光州が暴徒たちに掌握され、暴徒たちはスパイに操られていると噂を立てた。実際に、5月23日には、光州事態を扇動するために、南派された北朝鮮工作員のイ・チャンリョンをソウル駅で検挙したという根拠のない警察の捏造工作員事件の発表があった。   「デモ扇動南派工作員1名検挙」『朝鮮日報』1980年5月25日。 このような新軍部の試みは、光州においての抗争と死が持つ意味に、「赤」を色づけることであった。しかし、光州市民は、それに惑わされず死と真正面から向き合おうとしていた。

   最終日が近づいてきたその日も、道庁を守ろうとした人々は、明らかに存在していた。

全南大の復学生であったチェ・ヨンシク(仮名)は、25日、道庁に向かった。
>銃を使ったことがある人がおらず、戦警として軍の服務を終えた彼が、小隊長になり警備責任が任せられた。
>小隊員は、全部で18名であったが、26日になったら16名はどこかに行ってしまって、朝鮮大の医学科に通っていた学生と彼の2人だけで残ったという
@チェ・ヨンシクは、26日の朝から、1人2人いなくなることをみて、死が恐ろしいものであることを実感した。
彼は、死ぬ覚悟をしたつもりではなかったが、死ぬかもしれないという状況におかれていたこと、
@隣の人が死んでいくことを見ても、逃げなかったことが、これから我々が考えるべき課題であると回顧した。

   チェ・ヨンシクは、なぜ、その場を去っていかなかったのか?という質問に対しては、
>恥ずかしさのためであったとし、そのような状況で、この国に残り、誰かが死ななければ、(我々の現実が)どうなるのかと問い返した。
>しかしながら、彼は、もしも、戒厳軍が27日の明け方ではなく、28日の明け方に来ると思っていたら、自分も家に帰ったかもしれないと言い加えた。
@人間としての品位を失わないために、銃を持って、その場に残っていたが、正直、とても恐ろしくて、帰りたかったという。
特に、マスクをしている彼を、息子であると気付かない母が、彼を探している姿を見た時には、本当に心が揺れたと語った(チェ・ヨンシク、2009年1月22日、財団)。

   

高校生のカン・ヨンジュは、26日の夜、夕食をした後に、「教錬服」(訳注:教錬の時間に着る制服)を着た。
母に「クンジョル」(お辞儀)をした後、道庁を守りにいくと言った。当然、母は、びっくりして息子を止めようとしたが、息子は母に「だったら、この国の民主主義は、誰が守るのですか?」と食ってかかったという。

母は、泣いた後に、「お前がやりたいようにやりなさい」と言った。

また、しばらく待ってと言って、煙草2箱を買ってきた。

カン・ヨンジュが、クンジョルをして「じゃ、行きます」と言うと、母はずっと泣いたという。

その時、カン・ヨンジュと母は、生きて再会することはないと思ったという(カン・ヨンジュ、前掲のインタビュー)。

その日、光州は、死ぬことと生きること、勝つことと負けることを考える余裕などない状況であった。
>どうしたら、良く戦えるのか?それだけが、人々の頭の中を支配していた

 

当時、高校3年生であったキム・サンホは、以下のように回顧している。

今、考えるみると、人々が、どうして、あんなに献身的に動くことができたのか不思議です。皆、自分の命がかかっている状況だったのにも関わらずですよ。不思議にも、頭の中が空っぽで、何にも考えることができませんでした。まるで、現実ではないような気がしたのです。
>死ぬかもしれないということよりも、前に進んで戦うしかない、ということしか考えてなかったと思います。   イ・ジョンファン「市民軍の尹祥源と光州民衆抗争が我々に残したもの」

歴史は時々、最も平凡な人の中から、最も意志の強い闘士を作り出せるのだ

その日、彼らがいなければ、我々の歴史にも、光州というのは存在しない。

収拾対策委では、武器を返納し、軍当局と妥協すべきであるという主張が強まっていた。軍隊と最後まで戦っても、勝算がないということは、誰もが判っていることであった。対策委は対策委なりに、市民は市民なりに武器を返納し、「事態を収拾」すべきか、最後まで戦うか、について激論した。

生きている人々を一番に考える者は、銃を降ろそうとし死んだ人々を考える者は、銃を降ろそうとはしなかった結局、対策委から去っていく人は去っていき、残る人は残った。

@このまま、降伏できないとした人々、空っぽになった道庁を戒厳軍に渡すわけにはいかないとした人々、「死ぬことで、彼らの声を伝える」べきだと考えた人々だけが残った。
戒厳軍が道庁に攻めてきた時に、皆が逃げて、誰もいないと考えてみてください。歴史が1980年の光州をどのように記録したのでしょうか

サンウォンさんを始め、道庁に残っていた人々のお陰で、5・18が、暴動ではなく、民衆抗争として記録されることができたのです。

きちんと戦えず、死んでいくことを知っていながらも、最後まで、道庁を守った人々なのです。    ハ・ジョンガンのHP「ハ・ジョンガンの労働の夢」(www.hadream.com)から再引用。

   勝算が見えてこない戦いで、人々を支えた力は、どこから出てきたものであったのか。
光州の最後の夜と、明け方には、勝利を確信する遊撃隊の力強い進軍ラッパの音は、鳴らなかった。

そこには、歴史において、負ける戦いから逃げなかった人々の凄然さと寂しさが存在した

光州はこうして、我々の傍に、いや、我々の心の中に入ってきた

光州の話を聞きながら、同時代を生きていた人々は、死と対面しなければならなかった。これ以上、死というものは、遠い所の話ではなかった。光州を経験して、すべてが変わってしまった。「生きることと死ぬことの境界が無くなり、もちろん、死ぬ覚悟をした人々だけが、闘争に参加することはないが、人々は、自分が戦う政権が殺人政権で、自分も死ぬかもしれないという事実を平然と受け入れていた」。    韓洪九、

      5.死を抱きしめて
 

光州が鎮圧されてから1年後である1981年5月27日、ソウル大の学生らが、校内で、光州抗争犠牲者の慰霊祭を行おうとすると、警察が阻止、これに1千名余りが、沈黙デモを行った。この時、図書館の6階で勉強していたキム・テフンは、「全斗煥は、下野しろ」と3回叫んで、自ら投身した。キム・テフンはこの日、慰霊祭を準備した側でもなく、事前に投身を準備したこともなかった。彼は、光州出身ではあったが、いわゆる「運動圏学生」ではなかった。

1981年3月19日と4月14日の2回にわたって、ソウル大の学内デモを主導したユ・ギホン(柳基洪)は、学生運動を主導した運動圏学生たちは、光州抗争の便りで隠れてしまったのに対し、むしろ一般の学生たちが、もっと抵抗的になったと証言した。彼は、キム・テフンのような大人しい学生が身を投げるほどの雰囲気を作らせたこと、まさに、それが光州の底力であったと回顧した(ユ・ギホン、2009年1月19日、平和博物館)。


     6. 死の文化
 人々は、なぜ、警察の阻止を破ってまで、望月洞を訪ねたのか。

必ずしも5月18日ではなくても良かった。光州の人々は、時々、望月洞を訪ねた。

ある人は、生きる事が大変で、欲が出てきた時は、望月洞を訪ねると、少しでも気持ちが良くなったとし(ジョ・ゲソン、2009年1月22日、財団)、

また、ある人は、1980年6月に、初めて望月洞を訪ね、先輩の身元を確認したりして、心では、「2度と来ない、仕事をせねば。戦わねば。2度と来ない」と決心しながらも、辛い時は、ここに来て涙を流した。

毎回、望月洞を訪ね、もっと仕事を頑張らないと、と決心することが、強迫観念のように自分を支配していたということであった(イム・ナクピョン、2009年1月22日、財団)

1980年5月、当時、朴寬賢の護衛隊員だったチェ・ジョンギは、抗争勃発以後、田舎の親戚のところに身を隠し、この抗争期間を「安全」に過ごすことができた。そのために、彼には、生き残った者としての負債という感覚を持っていた。
@彼は、光州で死んでいた人々の中で、家族の保護を受けた大学生はほとんどいなかったとし、
>「仲の良い友だちの中には、死んだ人がいない。だから、結局、僕の友だちとは、皆、親から保護される連中だからね。
>親が保護する人々は死なない。僕みたいに、田舎に身を隠させられたり、家から出させなかったりするから」と言った。
>彼は、大学院に進学した後、修士論文を準備している最中、カトリック教会から、5・18を主題としたアンケート調査に参加することを依頼された。この作業に参加すると、準備している修士論文を書けなくなるという状況であったが、結局、修士論文を諦めて、そのアンケート調査作業に参加した。彼は、勉強をしている人には、色んな誘惑があるが、光州の体験が、「最低、こういうことは、してはならない」のような、良心的な基準になったという。2000年、彼は、韓国では初めて、「非転向長期囚」の問題で、博士学位を取得したが、1992年、論文の準備をスタートした頃の状況では、このようなテーマで論文を書けば、将来、大学に就職する可能性が全くなかったと語った。にもかかわらず、彼は、このテーマを選択した。「打算的になりたくなかった。やるべきことだったから。正しいと思ったことだから、やった」。

その日、道庁に入った人々、そして、彼らを記憶する人々は、皆、頭の中の「計算機」が止まった(打算しない)時代を生きたのである。」

 

 運命の5月18日の午前10時、抗争が始まった全南大の校門の前では、デモ隊を率いてきた総学生会長のパク・グァンヒョンの姿は見えなかったパク・グァンヒョンは、新軍部の行動があるかもしれないという雰囲気に気づき、麗水まで身を避けていた

それから、ほぼ2年が経って、逮捕された。

後輩のイム・ナクピョンは、パク・グァンヒョンが逮捕される直前に彼に会ったことがあるが、彼の中では、その日、市民・学生たちと共に行動しなかったが、大きい罪悪感として残っていたという。

朴寬賢は、獄中で、断食を繰り返した。光州の死に対する抗議として、「看守たちの暴力が乱舞し、不正腐敗が横行する刑務所の中で、すべての在監者たちが、非人間的な状態で生きて」いく現実に対する抗議として、何回も断食を繰り返した。2週間の断食で、彼は、骨だけが残ったようなその身体で、法廷に出てきて、最後の陳述を行った。

そして間もなく、朴寬賢は、光州刑務所で、命を絶った。光州の息子と呼ばれたパク・グァンヒョンが死んでから、光州では、80年以後最大のデモが行われた。しかし、市民たちは、彼の葬儀をすることができなかった。当局が、遺体を奪取し、故郷であるヨングァン(霊光)に送り、家族で葬儀を行わせたのである

全南大の社会学科教授であるチェ・ジョンギは、80年5月当時は全南大の1年生で、朴寬賢を護衛したが、彼は、軍隊にいる時に、従弟の手紙を通じて、朴寬賢の死を知った。「朴寬賢が死んで、大騒になった」と。手紙を読む瞬間、「だけど、この人は、最後まで、守り抜いた」と思った。涙が止まらなかったが、同期たちと「朴寬賢が死んだよ。だから、今日は、一杯しよう。弔意を表さなければ」と言いながら、お酒を飲んだという。同期たちのお陰で、朴寬賢の死を哀悼することができた。チェ・ジョンギは、そうした殺伐とした5共和国の時代の軍隊で、朴寬賢を逝かせてあげた

     続きは冒頭にあげた<批評と創作>の記事に載っている。長い!