反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

『アメリカの歴史、テーマで読む多文化社会の夢と現実』有賀夏樹、有斐閣~第4章 文化復権を求めて-先住アメリカ人のあゆみ

W参考資料。詳しいが純粋な人類学的資料に偏った情報であり、あぁ~そうだったのですか、という程度のインパクトしか与えない。直近の氷河期、現在のアメリカ大陸の原住民の祖先が凍結したベーリング海を渡った時期が紀元前1万2000年前と推定されている。現生人類の出アフリカしユーラシア大陸オーストラリア大陸方面に広がった時期に比べると、最も遅れた移動であった。

 この人類の移動について、イメージ的に、ゲルマン民族の西方移動のような誤解があるが、実態はその場所の食物を採取し狩猟し自然の食物が欠乏すれば次の土地に移動したもので道中は決して<グレイトジャーニー>(現代にそのルートを辿っていったい何の意味がるかということだ!その土地土地で働いて次に移動するのが正解?)ではなかった。平均4km/月今の徒歩移動だった。

北アメリカ先住民|人類歴史年表

natgeo.nikkeibp.co.jp

引用

これがホモ・サピエンスユーラシア大陸への最初の進出なのか、彼らはどこまで東に行ったのか、初期の小規模な移動(W.出アフリカは現生人類以前の人類<ネアンデルタール人など)にも共通する。イスラエルの洞くつで発見された18万年前の人類の下顎と歯はアフリカから小規模移動した現生人類であるが5万年前まで大きな流れにならなかった(大規模移動は5万~10万年まえ)のはなぜかなど、はっきりしないことはまだあるとユブラン氏は言う。」⇒W。小規模移動、大規模移動という分類の仕方も誤解を与える。専門分野の研究(ゲノム解析)では出アフリカした際の人数さえ割り出している。168人。

 数十万年にわたり、「アフリカの人口が西アジアの入り口に間欠的に押し寄せる動きがありました」とユブラン氏。W.小規模移動、大規模移動の違いは間欠的に西アジアの入り口に押し寄せる間合いの大小かな>

この動きは、いわゆる「グリーン・サハラ」と関係があるのかもしれない。グリーン・サハラとは、間欠的に気候が湿潤になり、現在のサハラ砂漠のある一帯に植物が繁茂して、人々が自由に移動できた時代のことだ。」

ユブラン氏によると、さらに早い時期にアフリカを出て、近縁種の中に入って行った集団があったことを示唆する最新の遺伝学研究もあるという。研究では、ドイツで発見された12万4000年前のネアンデルタール人の骨をDNA解析したところ、今から22万年以上前にネアンデルタール人と現生人類が交雑していた可能性があるとしている。(参考記事:「ネアンデルタール人と人類の出会いに新説」)」⇒W。欧米白人ネアンデルタール人のDNAを引き継いでいるのでコロナに感染しやすい、という説もあった。

https://www.artsbrains.co.jp/company/future/007.php

コピーしました。

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W。読み進めていくうちに非常に面白い、とおもった北米に白人入植以降の原住民史(破棄人の原住民対策、政策)が、適切にまとめられている。いろいろ検索してみたが、おそらく日本語ネット上ではこれが一番。

著書の一部を提供者がWORDに打ち換えている。

 

従来、アメリカ合衆国の歴史はヨーロッパ移民の歴史と捉えられ、「コロンブス以前」は先史時代として扱われてきた。アメリカ先住民の歴史がアメリカ史の研究に取りこまれたのは、つい最近であり、1960年代の黒人公民権運動に代表される社会的マイノリティ(女性・労働者・移民など)が注目されたことによって、先住民の研究も盛んになっていった。1970年代に入ると、アメリカ先住民研究は歴史学文化人類学を融合させた形で独自な発展を遂げ、今に至る

  • ヨーロッパ人の到来と先住民の運命

現在、最古のアメリカ人は古インディアンという狩猟民であったと考えられている。約1万4000年以前北米大陸とアジア大陸を結んでいた陸橋を渡って東北シベリアからアラスカに進出したグループを先祖とし、約1万2000年前の気候の温暖化とともに南下し、ばらばらの地域に散らばり、それぞれの地域の地理・気候に適した特有の生活様式を築き、多様な部族を形成していった。しかし、ヨーロッパ人の到来によって、天然痘や麻疹といった伝染病が広がり、以前は少なく見積もっても200~700万人いたとされる北米先住民の人口は激減した。同じ病原菌がニューイングランド南部の住民の90%を死に追いやった。コロンブス航海以降400年にわたり、北米先住民の人口は激減の一途を辿り、病原菌以外の理由としては、ヨーロッパからの開拓民の先住民の土地に対する暴力的侵入が頻発したことがあり、これがインディアン戦争を引き起こし、先住民の殺戮へとつながった。

    

  • インディアン戦争としての独立戦

 イギリス人による植民地建設以来、19世紀のアメリカの歴史はインディアン戦争の歴史だといっても過言ではない。そして、その戦争の過程で、ヨーロッパ系アメリカ人にとって先住民は野蛮人であるというイメージが強くなっていった。1775年に勃発したアメリカ独立戦争でさえ、裏には五大湖周辺の先住民の征服という目的があった。実際に1979年イギリス側についたイコロイ族に対する制裁として、45000人ほどのアメリカ軍勢が彼らの住居・果樹園・畑・家畜など全てを焼き払い、彼らの生活の糧をたつ事件があった。常識としては、アメリカ独立戦争は83年のパリ講和条約をもって終結したとされているが、実際は北米内陸部でのインディアンとアメリカ軍の戦いは94年まで続いていたのであった。

  • 白いインディアン

インディアン戦争は多くの戦争捕虜を生み出した。植民地時代から19世紀半ばまで先住民の多くは戦争で失った家族の代わりとして、白人の子供や女性の捕虜を部族に迎え入れた。ホワイトインディアンとは先住民と共に暮らすうちに彼らの生活に溶け込んでしまい、白人社会に戻る機会があってもインディアン社会に残ることを選んだ人のことである。とりわけ、子ども時代に捕虜になるとインディアンの子供として大切に育てられるため、ホワイトインディアンになる確立が高い。これまでイギリス人がインディアンを「文明」化する努力をしてきたがことごとく失敗に終わっている。しかし、征服の対象として見てきたインディアン社会を選んだ白いインディアンの生き方がアメリカ史の表舞台に登場することはまずなかった。⇒W。アメリカンニューシネマにその手のストーリーがあった。

1830年連邦議会は、インディアンの「文明」化を促進するという名目の下、インディアン強制移住法を一方的に可決した。ミシシッピ川以東に居住していた5部族・約6万人をミシシッピ以西の現オクラホマ州強制移住させた。この命令が東南部の肥沃な農耕地を白人のものにするためであることは明らかだった。部族の中には法廷闘争にまで訴えて抵抗したが、最後まで抵抗した1万4千人も連邦軍隊の監視の下、強制的に立ち退かされた。その道中では、疲労・飢え・寒さや食糧不足などから4分の1が命を落とした。また、移住先での慣れない生活が先住民の人口の減少にさらなる拍車をかけた

 

    インディアン寄宿学校

インディアンを「文明」化するには、子ども達を家族や共同体から切り離し、教育することが効果的であるとの考えから、インディアン学校という寄宿学校制度が生まれた。植民地時代にはインディアンの経済的自立を支援するという名目だったが、実際は白人のための家事手伝いなどの労働力を確保しようとするものだった。この学校で子ども達は英語以外の言語を使うと厳しく罰され、半日は教室で学科の勉強、残りの半日は労働、家族との面会も厳しく制限された。反抗的な生徒は独房のような部屋に閉じ込められた。無理やり寄宿学校に押し込まれた子ども達は、慣れない環境や白人教師の偏見・体罰、ホームシックなどに苦しみ、これに伝染病が追い討ちをかけ、その多くが命を落とした。しかし、皮肉なことに、不況の時代は逆に寄宿学校への入学希望者増加という現象をもたらした。

  • ドーズ法

「文明」化政策は先住民のアメリカ社会への同化政策を意味した。1887年に制定されたドーズ法と呼ばれる「インディアン一般土地割当法」は19世紀の同化政策の総仕上げの役割を果たした。この法は先住民社会の伝統であった土地の部族共有性を解体しインディアンは個々の土地保有者、一市民として合衆国社会に同化することが求められた。割当地の売買は25年間無効とされていたが、土地の賃貸制度がなし崩し的に認められていき、その結果インディアンの土地を奪うことになった。87年には1億3800万エーカーあったインディアン保留地が、1934年には4800万エーカーにまで減少した⇒W。1平方キロメートルは247エーカー。広いアメリカ国の大地のうち、分散した土地を合わせると5万キロ平方メートル。人口分に割り当てると、さらにその土地の位置。いわゆるインデアン居留地が共有地ではなく私有地になり、なし崩しで売られていった。20世紀初頭のロシア農奴解放も同じ手口。土地の私有を認めると売買の対象になり、農民は土地を手放し農奴と変らない身分になる。

    都市のインディアン

 1934年制定の「インディアン再組織法」にはインディアン社会の経済的発展、伝統文化の復活、職業教育のための連邦主導型プログラムなどが含まれており、これまでの部族文化を無視した従来のインディアン政策とは異なるものだった。しかし、第2次世界大戦後連邦政府は部族との協力・援助を打ち切ることで、インディアンの社会への同化を促す「ターミネーション」(連邦管理終結)という新たな政策を打ち出した。「ターミネーション」は1953年に議会で可決され、1950・60年代に多くのインディアンが都市へと移住し同化は進んだように見えたが、援助プロジェクトまでが途中で打ち切られたことで、都市におけるインディアンの貧困、ホームレス、職に就けないといった問題が噴出した。こうした結末を受け、この政策に対する批判によってインディアン側の反対運動は高まり、この政策は1970年代に廃止されるに至った。

 

   9・インディアンの復権運動とコミュニティ意識

 1960年代、70年代はインディアン・ルネッサンスと呼ばれ、インディアンの否定的なイメージを回復するための復権運動が盛んだった。各地で大規模な集会が開催され、こうした活動を通してインディアン達はレッド・パワーを世間に強く訴えた。レッド・パワーとは、北アメリカ先住民の権利回復運動およびそのスローガンであり、これは各部族間の垣根を越え、アメリカ・インディアンとしての歴史的体験をアイデンティティの拠り所としている。このような集団的自己意識は植民地時代の戦争、インディアン学校での諸部族の子ども達の交流、「ターミネーション」による都市移住がもたらした他部族民との出会い・違いの認識の獲得などの歴史の中から新しいネットワーク形成の土壌を作ってきたことの結果といえる。現在ではインディアンの約70%がシカゴ・ロサンゼルス・シアトルをはじめとする都市部に居住し、非インディアンとの結婚率も高くなっている。しかし、こうした新しいコミュニティに同化しながらも、インディアンとしての根本となるアイデンティティは自然との結びつきを重んじる文化、伝統文化を土台に存続していくものと考えられる。

 

 W。ここから先は読んでいないが、このような方面からの情報に接するのは初めて。新鮮である。

 W.著書を抜粋している。

 W。貼り付け作業をしながら、解ったこと。

 エマニュエルトッド「帝国以後」アメリカ国民には各民族集団の移民、移住の順序によってWASPを頂点とする差別化の構造が埋め込まれているという論拠と同じだった。トッドは黒人差別が差別化の底辺として亡くならない理由を挙げていた。付随してアメリカのユダヤ人のヨーロッパのユダヤ人とは違う立ち位置も明らかにしている。

ここではアメリカのユダヤ人は出てこない。総人口に占める割合は小さいが、文化、政治、金融、外国とのネットワークなどでその存在の比重は大きく、その立ち位置は独特のものがある。

   第5章 アメリカ白人の創造

 1.ある移民家族の肖像

  南仏のラングドックに住む新教徒であるジトー家はカトリックの新教徒排撃に耐えかね、またサウスカロライナという新しい広告の素晴らしさに魅せられ、アメリカへの逃亡を企てた。しかし、希望に満ちた移住の途中、アメリカ行きの船内で母が亡くなり、ようやく辿りついたアメリカは疫病・飢餓・貧困・血と汗の労働でひどいものだった。また、ヨーロッパ人の移植民と移民は、先住民にとっては剥奪と殺戮を伴い、アフリカ人にとっては強制移動・人身売買・奴隷制度をもたらす災禍の源だった

 

  2.17世紀の移民

  17世紀には約16万5000人がヨーロッパからイギリス領北米植民地に移住し、その94%がイギリス人だった。彼らは植民地に入り、主にタバコ栽培の安価な労働力として従事した。この当時イギリスでは急激な人口増加が原因で、中・下層民の生活が圧迫された

こうした人々をアメリカに労働力として移送することでイギリスは本国の失業者を有益な労働力に変えるだけでなく、本国製品の輸出市場を拡大することにもなった。

この様な経済的理由と共に信仰の自由をアメリカに求めた移民もいた。植民地に移住した人の大半がイギリス人であり、彼らは英語を話し、故郷の生活習慣を維持したため、植民地社会の基盤はイギリス方式で形成され、こうしてアメリカとイギリスは密接な絆を築いていった。

 

  3.18世紀の移民

 18世紀に入ると、イギリスの法律で重罪受刑者のアメリカ移送定められた結果、イギリスからの移民の4分の1を受刑者が占めるようになった⇒W.イギリス本国は産業革命を達成し、労働力商品は足りなくなっていた。また資本の蓄積は他方における都市底辺の貧困と犯罪を生んだ。アメリカ資本の原始的蓄積期の準備であり、犯罪大国の原点でもある。何をしても儲かればよい、勝てば良い。神に告白すれば許されまた同じことを繰り返す。

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また、スコットランドアイルランドからの移民も増加した。

1740年から独立戦争の間に約6万人が移住し、彼らは福音主義、節制と厳格な生活習慣などの独特の文化を維持し、スコッチ・アイリシュと呼ばれるようになる。1730年以降にはドイツ系移民が増加し、こうした人口流動によって、それぞれの場所によって特色があらわれ、イギリスが形成した植民社会は変化していった。段々と植民地が成熟していくにつれ、本国イギリスの伝統的なスタイルを模倣する人が出てきた一方で、固定的な秩序に縛られない心性も育まれた。このような考えが生まれた背景には、植民地での生活がヨーロッパと比べて、経済的にも日常的にも自由だったということがある。

 

  4.アメリカ人とは何か

 独立に際して、彼らはアメリカ人がどういったものなのかという事を強調し、そのイメージをヨーロッパからの移民をモデルにして描いた。それによるとアメリカ人とは「古くからの偏見も慣習もすべて棄てて、自分が受け入れた新しい生活様式、政府、地位から、新しいものを受け取る人」と定義されており、つまり移住によって旧世界と決別し、向上意識を持ってアメリカの新しい環境に溶け込もうとするヨーロッパ人こそアメリカの象徴であるといっている。そして、ヨーロッパ人は最初の帰化法(1790年)帰化資格がある外国人を「自由身分の白人」のみと定め、こうして白人社会の土台が築かれていったのである。

⇒W。南北戦争1861年1864年

 
 南部の奴隷解放は、北部西部の奴隷的労働力商品の使用の自由に変わったともいえる。同時に、南部にプアーホワイト労働層を生み出した。 
5.移民の世紀

  

 

 

1815年以降から今日に至るまでアメリカへの移民の数は増加の一途を辿り、

アメリカの人口にも世界の人口にも大きな変動を与えている。実に世界各地の人々がアメリカに移住しており、そうした多様な人種がアメリカの労働力として、ブレインとしてアメリカを築いているのである。

 

  6.東・南欧系移民の特徴

 東・南欧系の移民は故郷で土地を購入するために、およそ5倍の賃金が得られるアメリカへ出稼ぎに出かけた彼らはいったん故郷に戻るが、家族を連れてまた渡米する者が多かった。

南部を除いてアメリカの労働者階級は、こうした移民とその家族、子ども達で占められていた。故郷で得る賃金の数倍ではあるが、アメリカにおいては格段に低い所得しか得られない彼らは、同様の境遇の者同士で共同生活することを余儀なくされた。この共同生活の中で、彼らは多文化に触れることによって、自身のアイデンティティをより明確にしていった

しかし、大戦と1920年代の移民制限法制定によって移民の流入が抑制されると、帰化する者が増え、こうした祖国への帰属意識は変化していったそれでも同じ祖国の者から結婚相手や政治家を選ぼうとする傾向は残り、民族的なコミュニティはこうして滅亡の危機を逃れたのであった

 

   7.劣等人種の烙印

 「新移民」と呼ばれた東・南欧系移民やアイルランドは、文化的・政治的にも未熟であり、アメリカの伝統や価値観に適応することが難しいとされ、不当な扱いを受けていた。

 その理由として、彼らの異質で多様な言語・生活習慣・宗教などがあった。

 ユダヤ人移民は、反ユダヤ主義の潮流に乗る移民排斥運動の標的となった。

この様に、19世紀のアイルランドは黒人と同様の扱いを受けていたのであった。

こうした人種区分を反映した1924年の移民法は、アジアからの移民を全面禁止すると共に、東・南欧系移民をも事実上の禁止ともいえるほど差別的に制限した。

 

   8.アメリカ白人として生きる

 前の段落で述べたような排斥のまなざしにさらされる中で

アイルランド人や東・南欧系移民は、黒人やアジア人に対する人種的・文化的優越性を示すことで、自分たちの権利を主張した。

こうした風潮から、とりわけ黒人に対する風当たりは強くなり

公営住宅への黒人の入居反対元来黒人労働者が主だった仕事にアイルランド人が進出したことによる労働現場における黒人の排除・黒人労働者の排除を目的としたストライキなどが頻繁に行われた。

一方で、アイルランド系移民は「白人の特権的資格」の恩恵を様々な場面で教授していた。

例えば、大恐慌期には政府による労働者保護の恩恵をヨーロッパ系移民の一部として存分に享受したし、白人として子どもを学校に進ませ、いい職に就かせることも黒人には出来ないことだった。そして何よりも、帰化したヨーロッパ人とその子どもは公民権を獲得でき、政治に参加できた。この様にアイルランド系移民は排斥される一方で、白人としての恩恵を受けてもいたのである。

 

  9.ホワイト・バックラッシュ

 東・南欧系に対する差別的な制限を設け民法も1965年に廃止され、アイルランド系や東・南欧系の移民も、中流白人の支配社会に融合する条件が整えられた様に思えた。

>しかし、1960年代の黒人公民権運動と人種差別是正問題が進展するにつれ黒人は権利を認められ、優遇されているにもかかわらず、一部では彼らと同じく不当な扱いを受けてきた東・南欧系移民達には、まるでもとから白人としての全ての権利を認められていたかのように扱われ、自分たちの存在を無視して、黒人のみに対して優遇を行おうとしているかのように感じられた。彼らがやっとの思い出獲得した居心地の良い住宅や、職場を黒人に譲るよう求められていると感じた人の中から、黒人運動家を襲い、連邦政府の黒人向け福祉・住宅政策に実力で抵抗す「ホワイト・バックラッシュと呼ばれる動きが生じた。

 

  10.エスニック・リバイバルアイデンティティ

 1970年代にアイルランド系や東・南欧系を中心にした白人民族集団(ホワイト・エスニック)がエスニック・リバイバルと呼ばれる運動を展開した。

1972年には連邦議会は「民族遺産学習計画法」を可決、民族集団に関する事柄を学べる学校や白人民族集団に関する研究に助成金を支出することとした。この法律は結果的に試験的なもので終わってしまったが、これによって連邦政府が白人民族集団の存在を正式に認めたことは明らかだった

この様な、白人民族集団の活発な動向と世間の動きに対して、1970年代後半には様々な批判の声があがった。エスニック・リバイバルの唱道者達は、支配的白人文化を強烈に非難したが、彼らが共有する白人の特権や恩恵そのものを否定しているわけではなかった。

現在では、1世紀半前に入国した東・南欧系移民でさえも教育・職業・所得などにおいてほかのアメリカ白人との差異はない。

現在の多くの移民系の白人は、文化としても居住区としても共同体を喪失したにもかかわらず、人口動態調査において「ドイツ系」や「イタリア系」と自分のアイデンティティを表明する者が多い。

これは自己の個性を表すためか白人というカテゴリーを用いないことで「脱人種」的な異議申し立てをしているのか、

それとも、同じ移民だがアフリカ・アジアなどの移民と自分たちを人種的に区別するためか、様々な理由が想像できるが、

結局のところ、ヨーロッパ系の人々に宿る民族的アイデンティティの意味は、白人という特権集団歴史的に造られてきた過程の中で捉えられるべきである。