反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

闘争の詩学 金明仁、目次。韓国民主化」関連年表。外国の動きも併記されているので重宝~注目点を独断でピックアップ~

  闘争の詩学 金明仁

師範大学教授、文藝評論家、コラムニスト、季刊「黄海文化」主幹。

1958年生まれ。1979年大統領緊急措置9号違反、1980年反共法及び戒厳令布告違反、投獄。1983年光復節仮釈放で出所。著書多数。

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第1章 1987年(W。6月抗争)、そしてその後~革命と反動、共同体と個人の間、6月抗争20周年を語る。  

 

第2章 光州民衆抗争とは何だったのか~韓国民主化の敵としてのアメリそして韓国の現在~

 

第5章 リアリズムと民族文学 危機意識の復元と新たなパラダイム構成のための試論

 

第7章 黄 晳暎(ファン・ソギョン)論~恥辱の感覚~

 1、黄 晳暎と1980年代

 2,「武器の影」

 3,「日記抄」連作

 4,あの80年代からの帰還

 <補>獄中の作家黄 晳暎へ

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     韓国民主化」関連年表 

W、注目点を独断でピックアップした。

 韓国の高校歴史教科書は<歴史教科書>と<近現代史>の教科書が分かれている。<歴史教科書>は日本の教科書と比べて微に入り細に入りの事実を網羅し分厚く非常に難しい。

ただし檀君神話>や朝鮮の数千年にわたる古代史は中国史との兼ね合いがあって(中国の唐代以降の「国家的」統治形態は北京以北から来た)、一国の歴史として前面に出すのは、どうかと感じた。日本の歴史教科書と同じ位相である。ただし、客観的事実には乏しいと説明されている。

 著者は教員養成大学の学生を教える立場からくるのか、この年表を丹念に作成してくれている。たぶん、日本語訳の出版に合わせてそういう苦労をしてくれたのだと思う。

>今の日本にとって、韓国民主化の長い歴史を知るために韓国現代史の年表が大切なことだと思う。

リアルな韓国現代史の時系列と国際関係の繋がりを年表で明らかにすれば、韓国の民主化の評価もできる。その時々の国際関係と日本の立場も明らかになる。

>私にとって韓国民主化の長い闘いは、韓国現代史観の基準である。

 なぜそういうことが韓国側から発信されるのか、韓国の民主化の実情を知れば、感情を抜きに解るような気がする。

韓国現代史全般を見渡した評価基準ではなく自分の得意分野を基準とした史観である。しかも韓国では日本と違って一応、政権交代が何度も行われ「革新」政権に時期もトータルで長い(日本も経済長期停滞の政治制度的な意味を考え直すべきだ)。

 戦って得た韓国型民主主義だった。

しかし金明仁はそれ以上の事実を突き出す視点にある。

 金大中盧泰愚民主化政権は1990年代末のアジア金融危機後のIMF指示下の新自由主義経済政策と重なる。

ココはバブル崩壊後の90年代と小泉政権云々の日本資本主義に拘る分析よりも鋭く普遍的な要素がある。

 普遍的にいえば、ヨーロッパの特定の国々以外にとってグローバル資本制下の政治的民主主義と国民的経済民主主義とは何か?と本質的に問い詰めている。

経済的不平等が拡大している趨勢にあって小さな平等は結局、資本に対する市場の総動員体制を作ることにならないか、と

米国流クレオール「民主主義」の行きつくところが、小さな民主主義、と大きな経済的不平等であり続けた。

この構図を解消するために米国は知ってか知らずか、様々な手口を用いてきた。

 第二次世界大戦以降、世界中で戦前と戦後の繋がりのない国が米国だった。従って米国は世界戦争構造を継続する国家であり、世界の戦争発火源である。

戦争と掛け目儲けが直結してきた世界で稀有な気にである。

 著者は韓国で民主政権があっても反体制の視点を維持してきた人である

戦いに傷を負った当事者であるにかかわらず、離れた立場から長い民主化の戦いの成果の到達点と世界の将来像に想いいたせる立場を獲得しているとみる。

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1945年 

 8,15。光復節(日本の植民地からの解放。

W、台湾の光復節は10月25日~43年のカイロ宣言ポツダム宣言を受けて国民党、重慶で台湾統治の根幹を決定。台湾入りは10月25日になった)

朝鮮建国準備委員会を結成。

 9月米軍上陸、軍政布告

 10月李承晩 - Wikipedi 米国から帰国

 11月金九 - Wikipediaなど臨時政府一行帰国 

1919年以来、上海で臨時政府に参加し、大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。

1924年満州朴喜光朝鮮語版と通じ親日派暗殺、主要公館破壊などを指揮し、韓人愛国団を組織して李奉昌桜田門事件尹奉吉上海天長節爆弾事件を指示した。

1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、南朝鮮単独選挙実施を巡って李承晩と対立し(W.単独選挙反対、南北統一選挙=北朝鮮も拒否(多分、選挙をすれば北は統一朝鮮の少数派)。以降の南北分断を踏まえた理屈としては正しい。)1949年6月26日に暗殺された。

1940年 - 重慶に脱出し、大韓民国臨時政府主席に就任、韓国光復軍を組織して蔣介石中国国民党政府の元で抗日活動を行う。

韓国光復軍 - Wikipedia

 

1946年 

 3月北緯38度線以北で土地改革⇒ 西北青年会 - Wikipedia

 10月 大邱民衆蜂起

 「解放以後の歴史を調べれば、権力に抵抗する抗争はたいていソウル首都圏では ないところで起きた。済州4.3がそうだったし、大邱10月抗争、釜馬抗争、 5月光州がそうだった。しかしこれらの抗争は敗北と痛みとして残っている。」

 

1947年

 38度線以北からの越境者急増

1948年

 済州島四・三事件 - Wikipedia

W.在日コリアンの歴史 | key-jW.貴重な情報が掲載されている。知るということだ大事!時間不足で読み切れない。

朝鮮人大量移住に大きな役割を果たしたのが、釜山と下関を結んでいた関釜連絡船と、済州島と大阪を結んでいた定期航路船君が代丸である。」

 

引用

下関にやってきた朝鮮人労働者は主には、全国各地に散らばっていったが、大阪にやってきた朝鮮人労働者はそのまま大阪にとどまる者が多かったようである(※4)。当時の大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほどのアジア最大の工業都市であり、そこには大規模な労働力市場があった。こうした労働力市場が、生活の糧を求める朝鮮人労働者の最大の受け皿となった。」

1920年代後半から1930年代前半にかけて釜山から下関に渡ってきた朝鮮人労働者は年間10~16万人、済州島から大阪へは年間1万5千人~2万人に及んでいる。」

 5,10

38度線以南で単独選挙

 8,15

大韓民国成立 李承晩大統領

 9,9

朝鮮民主主義人民共和国成立

 9,29

反民族行為特別調査委員会組織

反民族行為処罰法に基づき日本統治時代日本に協力したものを反民族行為者として処罰するために制憲国会内に設置された特別委員会のこと


1949年

李承晩 反民族行為特別調査委員会を批判

 6,29

金九暗殺

 4,4

NATO発足⇒ワルシャワ条約機構軍結成 1955年W??

W。朝鮮38度線北朝鮮軍突破、南進は1950年6月25日。

1949年10月1日中華人民共和国成立。

上記の1955年ワルシャワ同盟軍結成の遅れと国共内戦勝利1949年を勘案すると、既達応戦軍の南進は、金日成の南部朝鮮の労働党系や人民を守ることが優先された計画性の乏しい戦争行為だった、といえる。<革命>は戦車の進軍と占領では達成できない、その地域の人々は自発的に行うものである、コレが大原則!ウクライナのロシア系住民を助けるために進軍するのはブレスト=リトフスク条約の譲歩のリアリズムを否定しロシアの人々に災難を背負わせる反動政治である。一国主義(対独単独講和。戦場と後方で疲弊している自国民保護)と国際主義(労働者兵士同士は争うべきでない、敵は戦争に駆り立てた内部にいる。)の両面を使い分けるのはリアルな現実認識を基礎とする状況判断である。

 10,1

中華人民共和国発足

 

1950年   

 6,25 朝鮮戦争勃発

 9,15  国連軍仁川上陸 

W。意外に早かった。米軍+韓国軍と北朝鮮軍+中国 軍との戦闘は半島規模で3年間続いた。一般民の死者は双方が人民を盾にした戦術を避けていたようなので国民同士の反目や制空権を確保していた(米軍空爆)によるもの違うかな。ウクライナロシア戦争も市民の死者は少ない。

 10,25 中国軍、朝鮮戦争に参戦

 

1952年 

kotobank.jp

1953年

 7月27日 休戦

 

1955年 ワルシャワ条約機構軍結成

 

1956年 フルスチョフによるスターリン批判

1958年 中国、大躍進人民公社運動開始

 

1959年 キューバ革命

     中ソ対立表面化

     在日朝鮮人北朝鮮への帰還運動始まる

 

1960年 

3,15

大統領選挙

4,19

学生革命大統領選挙の不正に対する反対運動、<血の日曜日

4,26

李承晩下野 ハワイに逃亡

5,19

日米新安保条約強行採決 安保闘争激化

 

1961年

5,16

朴正煕少将による軍事クーデター

8,13

東西ベルリンの境界を封鎖

 

1962年

 1,11

毛沢東大躍進政策の失敗を認める W。4年間もやっていたことになる。

 10,22

キューバ危機 キューバ海上封鎖。 W。その後、非公然キューバ上陸作戦はあったがグアンタナモ基地を維持したまま膠着状態を続けた。大陸の陸続きなど条件の違いはあるが、ロシアウクライナ戦争を分析する上での参考になる。反俗日記の最近の記事で1979年から1980年まで続いたアフガニスタン派兵やウクライナ原発事故はソ連邦の負担になったことは間違いない。何よりもソ連や中国に世界を取り仕切る経済要因がない。大きく覇権を広げると必ず綻びが生まれる!軍事制圧よりも人々の自発性が大事である。

 

1964年

 6,3

全国で日韓会談反対デモ。政府はソウル一円に非常戒厳令

 8,14

第一次人人民革命党事件 - Wikipedia

「2005年12月、韓国国家情報院人民革命党事件KCIAによる捏造であったと発表した[1]。これを受け、韓国司法当局は人民革命党事件に対する再審査を開始、2007年1月23日に死刑がすでに執行された8名全員に無罪の判決を言い渡した[2]。」

 10月

韓国ベトナム派兵協定

 

1965年

 2,16

日韓協定調印反対闘争~8月末まで継続 W。ファンソギョンの自伝で参加した本人がリアルに戦いの現場を報じている。高校の文芸仲間が本人の直ぐ横で銃弾に倒れ死亡した。自動車デモの機動力は日本のデモにはない。

 2,7

米軍北爆開始

 11,10

中国文化大革命開始

 

1967年

 6,5

第3次中東戦争 

 6,11戦争終結 イスラエル占領区域は4倍以上。

 

1968年

 1,5

プラハの春

 5,21

フランスゼネスト 5月革命

 5,20

ワルシャワ機構軍チェコに軍事介入

 11,5

ニクソン大統領就任

 12,22

文化大革命下放運動 W始まって3年。紅衛兵は農村に送られた。

 

1969年

中ソ国境紛争

 

1970年

 11,13

ソウル平和市場で労働条件改善を訴えて焼身自殺

  5,31

よど号ハイジャック

 

1972年

 7,4

南北共同声明

 10,17

全国に非常戒厳令 10月維新

 2,21

ニクソン訪中

 5,15

沖縄返還

 9,29

田中首相訪中、日中国交正常化

 

1973年

 1,1

ベトナム和平協定

 2,14

円ドル変動相場制に

 8,8

金大中東京でKCIA工作員に拉致される

 10,16

第4次中東戦争 石油危機

 9、18

東西ドイツ国連同時加盟

 

1974年

    2,21 

民青学連事件 - Wikipedia

   4,25

第二次人民革命党事件

 8,15

文世光事件

『夏の炎 (幻冬舎文庫)』(梁石日)の感想(3レビュー) - ブクログ

  10,24

東亜日報の記者ら「自由言論実践宣言採決」

  W.社主たちは直ぐ維新体制に寄り添った。

  W現状

   ↓

japan.hani.co.kr

1974年10月24日、自由言論実践宣言から半年も経たないうちに、東亜の族閥社主(W,開祖社主は独立運動の闘士だった)は維新独裁政権と野合し、自由言論の実践を強く要求する113人の記者やプロデューサー、アナウンサーを追い出した。

朝鮮日報も自由言論運動の先頭に立った32人の記者たちを追放し、言論の自由を叫び独裁権力に抵抗する記者たちを絶対容認しないという決意を示すことで、朝鮮日報の社主は独裁政権を安心させ、国民を裏切った」とし、

「東亜と朝鮮は言論の自由と民主回復を念願する国民を裏切り、独裁者に迎合して生き残りを図り、維新独裁の宣伝部隊になることも厭わなかった」

朝鮮・東亜が代表している現在の極右保守メディアこそ、わが国と社会の前進を妨げる最大の障害であり、この障害物を崩さなければ私たちが望む未来は開けないということが明らかになっている」とし、「偽りだらけの邪悪なメディアを拒否し、正すべき権利と義務が国民にはあり、その力は国民に由来する」と訴えた。」

~~

(ハン(ハンギョレ新聞)・京. 郷新聞・ソ『聨合ニュース』W?)は、いわゆるメジャー新聞である朝鮮日報』『中央日報』『東 亜日報』の3大紙(朝・中・東)に対して保守新聞(右翼新聞)、反改革新 聞などと名付けた批判的な報道を行った。」

file:///C:/Users/sasaki/OneDrive/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97/031000890002.pdf

 

  韓国・盧武鉉政権による「記者クラブ」解体の研究  森 類臣

盧武鉉政権による記者クラブ解体は,大手企業メディアを中心とした記者ク
ラブ加盟社記者たちに大きな衝撃を与えた記者クラブ加盟社は,権力側から
もたらされる情報を排他的に獲得できる特権を喪失し,独立系インターネット
新聞を中心とする新興メディアやフリージャーナリストと土俵を同じくするこ
とを余儀なくされた。今まで記者クラブに所属していれば独占的に得られてい
た情報を,クラブ加盟社以外のメディア記者やフリージャーナリストも全く同
様に得られるようになったからである

記者クラブ側と官庁などの当局が相談
して取り仕切り,記者クラブ加盟社記者のみ参加できたブリーフィングは,過
去の遺物となった。開放的なブリーフィングが定期的に開かれ,登録さえすれ
ばすべてのジャーナリストが参加できるようになった。登録者すべてが,大き
な障害なく公務員に会って取材できる権利を持った。さらに記者クラブが占有
していた記事作成・送稿スペースは,登録者すべてが自由に使えるようになっ
た。
盧武鉉政権は,記者クラブが不法占領していた記者室という公的スペース
を,報道する意思のあるほぼすべてのメディアおよび個人のジャーナリストに
開放し,取材(記者会見参加等)も問題なくできるようにした。」

散々批判されているのに「記者クラブ制度」がなくならないのはなぜですか? - Quor

無くすどころか、ますます、依存を深めていくと思います。メディア企業にとって記者クラブの存在意義は、「人手不足対策」です。1人の記者にいくつもの記者クラブを掛け持ちさせれば、(記事の「質」は問わないとして)最も恐れる「特落ち」(特種の逆)の懸念を増大させずに、全体として記者の数が減らせるからです。今、大手メディアは、諸般の事情による収益源から「人減らし」に血道を挙げており、記者クラブのようなありがたい存在を手放すはずがないと思います。

W。韓国では1988年「ハンギョレ」新聞が参入し、文民大統領が続いたことによって改革が推進された。それもこれも長い民主化運動の成果の一部である。

W。そもそも日本の新聞は敗戦直後の総選挙で戦前勢力の岩盤に驚いたGHQ民主化推進に利用するために特権(再眼制度、記者クラブ。社内労組重視)を付与したところから出発した。朝鮮戦争に向けて戦犯釈放など祖措置を<逆コース>と命名したのは読売新聞だったが、その後、GHQの方針転換(レッドパージ)とともに社内の記者を大量解雇したのも読売新聞だった。社主正力松太郎関東大震災のときの治安警察最高幹部でのちに新聞界に転身。暗号名PODAM。

W。日本の新聞は販売店の宅配制度に支えられているので記事の中身に関わらず、販売店網が充実している新聞の優位は動かない。毎日読んでいると情報が刷り込まれていくという作用は無視できない。

ソシュールネットワークもどうかな?多次元思考の邪魔になっているのではないか。あんなところでつぶやく意義がわかなない。個人のYOU TUBE私小説の世界だと思っている。背景やパターンが解れば、飽きてくる。私小説の限界みたいなものだ。それにWは個々人の在り方に全く興味がわかない性分。どうでも良い。

 

1975年

 5,13

緊急措置9号を発動(反政府活動の全面禁止)W。金明仁は9号違反、反共法違反および戒厳令違反。表に出ると捕まるので非公然で言論啓蒙活動をやっていただけ。

 

1979年

 2,1

イラン革命

 

5,4

サッチャーが英首相に就任

 8月

YH貿易の女子工員が警察に強制排除

 10,16

釜山で反政府デモ。釜山に非常戒厳令。馬山などに拡大(釜山馬山民主抗争)

  ↓        ↓

 10,26

朴大統領、金KCIA部長に射殺される

 12,12

新軍部が武力で政治実権を掌握(粛軍クーデター

 

 1980年

 5,3

全国民主労働者連盟結成

 5,15

ソウル南大門一帯に学生デモ隊20万人集結

 5,17

政府が戒厳令を全国に拡大

 5,18

光州で学生、市民が蜂起(光州民主化抗争~5,27)

 7,4

金大中内乱陰謀事件

 9月

軍法会議金大中に死刑判決

 11月

言論統廃合措置

 11月

レーガン大統領就任

 12,11

霧林事件 W。金明仁、地下宣言文起草。

 

1981年

 6,29

中国文化大革命否定

 9,30

ソウルオリンピック決定

 

 1985年

4,26

ゴルバチョフ共産党書記長就任 

          時間不足のため次回