反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

中国ナショナリズム、孫文の軍政⇒訓政⇒憲政の三序構想。西部 邁「米国は左翼国家だ」言説、からイギリス市民革命⇒米国クレオール独立革命⇒フランス革命の系譜を再考し、経済平等社会民主主義と経済自由主義リベラルへ。行き過ぎた資本主義と分配機能無効性が帝国の密集と膨張を呼ぶ。

無知やむき出しの存在論は偏見を生む。偏見の塊が暴論になり、愚行に行きつく。

「中国ナショナリズム」2017年刊行小野史郎著は中国ナショナリズムの形成発展変化に絞ってリアルな政治状況と、政治団体、人物に沿って歴史的に記述した過去の中国、現中国を知るうえで格好の基礎資料として<利用できる>。末尾に詳しい索引が載っているのもうれしい。

 なお、前回の記事で、「台湾を考えるむずかしさ」松永正義を引用した際にUSAと中国の「民族」習合の様相を同列に置いて論じた記述を注釈なしに載せた。

 文脈の全体像を挙げると、歴史を理解する上での疑似共通キーワードがはっきりする。しかし来歴は中国の方があまりにも古い。こういった中国史観は間違いである。日本の封建時代<中央集権制に帰着固定化~黒船外勢圧力、なければ当分そのまま~>とヨーロッパ封建時代<ヨーロッパ全域に拡張したゲルマン民族の主従関係⇒絶対主義王政へ>を二重写しにする誤りと同じだ(ゆえにヨーロッパと似た発展コースを辿った)。

引用

「そうしたエスニックな多様性を持つ地域の中の<中原>と呼ばれた地域に、

漢字を中核とする文化圏が生まれ、それが数千年の時間をかけて周辺諸民族を緩やかに同化しつつ形成されていったのが、漢民族なのだ。

 

「極端に言えば漢民族とは、それなりの数が、このように同化された諸族であるといってよい。

我々の今日云うような意味での国家などと桁の違うスケールで、民族としてのまとまりを考えてきた。

>相互に言葉が通じるとか通じないとかといった問題は二の次だった。

 しかしまた、同化民族であったからこそ、逆にその文化的まとまりは驚くほど整合的であった。

その点だけについていえば

今日のアメリカ合衆国に似ているところがある

一方でアイリッシュ系とかイタリア系とか言った背景をきちんと保持しながら

たちまちアメリカンライフスタイル」にくみまれその言葉に象徴される文化的な自己規定をしてしまうところは

漢民族のまとまりによく似ている。

 

 こうした規範化標準化に対して最もかかわりが深かったのは隋唐に始まり宋代にかんせいされた科挙である。

科挙は地域に対する支配の構造と密接にかかわっている。

中国という社会は、経済社会などの面では独立性の高いいくつかの地域の集合であって必ずしもすべての地域が中国という広さで動いているわけではなかった

そうした中で中国という広さで動いていたのは権力と

それを支える知識人集団だった。

そうした知識人ネットワークは、はじめから中国(天下)という広さを前提としていた。」

 

 米国はクレオールナショナリズムアングロサクソン的一変形である。(長い年月をかけたイギリス市民革命原理の北米新大陸植民地における反本国アングロサクソン、クレールの暴力的側面の凝縮的開花クレオール植民の町の住民自治=リンチ(掟破りへの制裁)、ライフル銃、連携地域拡大。)

 

イギリス革命

の伝播経路は北米⇒フランスである。コレがいわゆる民主主義と制度の伝播経路である。

 日本の世界史の教科書では

この①伝播経路を曖昧にし

アメリカの独立戦争というイギリス側の呼称を絶対化している。

アメリカ独立戦争 - Wikipedia

>「日本の歴史教科書では、イギリスと同じくアメリカ独立戦争と表記することもあれば、単に「独立戦争」と表記することもある。

 

しかし他方で、

現在のアメリカ合衆国では

A .アメリカ 革命American Revolution)、

B.アメリカ独立革命American Independence Revolution

C,もしくは革命戦争Revolutionary War)と呼ばれる。」

 

>今は亡き西部邁 - Wikipedia

が当時の反俗日記の民主政観の不意を突くように

アメリカは左翼国家だ」などと度々断定してた時、

彼の簡単な説明付きでも古代ギリシアアテネに代表される武装し権利を持ったデモスの民主政を原点にする民主主義観だったので納得し難かった。

 

@西部の問題意識が解りだしたのは、反俗日記で

 イギリス<市民>革命の歴史を特集したときからだった。

 

 端的に言えば、西部 邁(にしべ すすむ)は長いイギリス市民革命の歩みを典型として良し、としていたのだと思う。彼の云う保守主義はイギリス市民革命の中から生まれてきた伝統保守(統治形態は立憲君主制に中和~ゆえに国王と貴族制度温存の不徹底な市民革命問われるが暴力市民革命のなかった国は全部君主残存)の考え方だった。

>米国独立革命、あるいは革命戦争はイギリス革命のクレールナショナリズムへの極端な移転であり、

フランス革命時の議会の座席はその思想的な影響を受けたもの、で、

アメリカ革命戦争の根幹思想はジャコバン派ジロンド派に引き継がれていた、とみていたのではなかったか。アメリカ革命戦争の急進性はジャコバン派由来のものであり、リベラリズムジロンド派由来。分解しなかったのは植民地人の対本国独立革命であったからで、フランス革命のように公定ナショナリズムを王党派と争う戦いではなかったからだ。

リベラリズムは資本主義の根幹思想であり、労働市場において資本と労働直商品が平等であるという法的仮想によって成り立っている。

 

 

 フランス革命アメリカ独立革命クレオールナショナリズムを動因にしていたのと

違って、王たちをギロチンにかける強烈な対抗公定ナショナリズム(共和制国家と国民)を獲得する戦いでもあった。ゆえに後に、ナポレオンの国民国家排外主義=ヨーロッパ戦争(対イギリス対ロシアに至る)、

ボナパルティズムとは? 意味や使い方 - コトバンク

への歴史を歩んだ。

フランスの統治形態の特徴は国家中央集権主義と民主政が同居しているところにある。

フランス革命のとき、すでに山岳派W注①の「民主」独裁(経済的平等)ジロンド派経済的自由主義位相の異なる統治形態が政治課題にのぼっていた。

言い換えるとソーシャリズム(英語: Socialism)と自由主義(英: liberalism)である。

>経済的平等はヨーロッパの社会民主主義政権による国民経済の生み出す付加価値の下方へ弱者への分配政策として資本の国民経済レベルでの定着や人、商品移動を大前提にして続けられてきたが、ヒトモノカネの国境を越えた自由移動を原則とするグローバル資本制の進展によって、実行力が怪しくなった。そこで、社会民主主義政策においてもソーシャリズム(英語: Socialism)が後退し、自由主義(英: liberalism)が前面に押し出されるようになり、フローバル化によって分解する本国中間層の焦燥に応えきれなくなっている。そこを各種、一国利益追求を掲げ、またその政策の根拠が怪しい強権ポピュリズムがつき、宣伝扇動し政治の中央に躍り出る。

 その結果、世界は旧資本主義国はの配層は自国民過半を犠牲にしても帝国化によって①対自国民

②対新興国

③対急台頭し世界市場に分け入った戦後世界体制残存の帝国

との間での包摂と世界市場の再分割戦に共通利害を見出す。

そして結局は、

③を解体することで(先軍政治北朝鮮をばかにできない)、ニューフロンティアを得ようとしている。

やはりソ連東欧圏解体による恩恵は忘れられない。

行き過ぎたグローバル資本制が保護貿易主義に傾かざる得ない趨勢においてソコしか出口がない。

  W注①

山岳派(フランス語: Montagnards; Montagnard, モンタニャール)とは、元々は党員が立法議会の最も高い位置の議席に座ったことでその名が付けられた フランス革命期の政治党派で、革命期最大の政治結社であったジャコバン派を母体とする

 西部は

日本国憲法への意見を問われると憲法のない国イギリスの

コモン・ロー - Wikipedia

を引き合いに出して我関せずを貫いていた。実際に日本国憲法レベルでの通常の政争には不快感を持っていたと思う。

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      第2章 模索する中華民国 1912年~1924年

 1 中華民国の公定ナショナリズム

「 国民党の政党国家体制     

 孫文は革命直後の軍政から国民党が国民の政権を代行しつつ国民を訓練する

「訓政」の時期を経て、将来的には国民に政権を返し「憲政に至る」という「三序」構想を持っていた。

孫文の構想はその後継者たちにとっても十種するべきものだった。

 1928年10月「訓政」綱領が発表され訓政」のじきがあはじまった。

この時期は党が国家を指導する体制が取られ、国政選挙など国民の政治的権利は制限を受けた。

国民党の党の旗である晴天白日旗をもとにした******紅旗が国旗とされや他

29年には孫文の生前の訓示を歌詞とする「中国国民党歌」が作成され、~~>

 これによって国家のシンボルと党のシンボル、国家に対する忠誠と党に対する忠誠の一元化が図られた。

~三民」主義教育による教科書審議制度がかいしされた。

しかし、政党国家体制の下で共産党、青年党など他党が非合法化弾圧されたことや

三民境域に反対する言論の取り締まりが行われたことは知識人を中心に批判が起きた。

 

        時間不足で次回へ