2,2(木)修正済
>この自転車映像は実行後、逃走中の映像とは限らない。上下服装、靴は同じだが、帽子の種類が全く違う。しかし被りなおした可能性もある。
@街頭と施設などに設置された防犯カメラの性能(映像精度、メモリー能力、再現解析難度)は向上している。大手の専門業者がメンテナンスを請け負っている。
手元PCで時間設定、早送り、巻き戻し、自由自在。解析作業は労働集約作業になる。現場地域の防犯カメラの映像が割り出せると、広域連携映像解析作業でほぼ個々は特定できる。
>日本などはこの方面で最先端を行っているとは思えない。
>総人口比でいえば中国の監視体制が最も進んでいるのではないか、と。
@例えば4重点都市(北京、天津、上海、重慶)の揚子江に臨む重慶市では日本から里帰りした中国人と友人が河岸の大きな道路~交通量は多くない~の脇に車を止めて半公園化した水際にちょっと降りて行こうとすると、携帯電話が鳴った。
@当局から駐車違反になるからすぐ車を移動せよという警告だった。
@ヨーロッパ、米国も厳しい。
@戦争中のロシアの地下鉄の改札口には複数のガードマンが配置されている。
実行者は一方向の情報だけにどっぷりとつかり知識、情報量が偏っているタコつぼ人物。
日米最重要軍関係施設や兵站ルートが重層する地域でコレはあり得ないレベル。
普通の人の感覚なのに頭の中は煮えたぎっている。
頭と体の大きな乖離が宮台事態を引き起こし、本人の痛ましい結果につながった。
>W。参考資料 赤穂事件 - Wikipedia
>宮台真司氏の持論では、そういう思考回路、行動パターンに走る人は今の世の中(世界中という意味でもある)に常に一定数いる、と。
@なお最後に挙げた一月万冊動画出演の今一生という論者の内容は以下の反俗日記の言説は一切無意味としている。なぜならそういうことを解る立場になく凶行に及んだのであり、その層に届く発信スタイルをとらなかった宮台真司の方にも問題があるということだ。
有名な公人の宮台氏にはできても完全無名の私人、反俗日記にはそういう人と繋がるルートがない。ゆえに亡くなった人を題材にそういう層をスルーして自説を述べているに過ぎない。
>宮台氏だったか、SNS、ネット動画の大普及によって**が政治情報に直接アクセスできるようになって行動に直結する危険性が高まっていると。
悶々とした孤絶の中で自分で収集した仮想現実観念が肥大していく。
>WEB言論は低位、情動に落ち着く。自分自身も難しいコメントよりも気の利いたキャッチコピーのようなコメントに留飲を下げるときがある。
@しかし、WEB情報ばかりが続くと偶に読む本がどれも素晴らしくおもえる。
ネットリテラシーの基本 | インターネットトラブル | 千葉県警察
ネットリテラシーの基本
1 ネットは世界中の人が見ている
2 ネットの情報を鵜呑みにしない
3 面と向かって言えないことはネットでも言わない
ネットでの発言は相手の顔が見えないので、ひどい言葉を抵抗感なく使ってしまいがちです。
W.常に気を付けている。そのため批判をするときに手間がかかる。
これは相手も同じであり、ひどい言葉を使うと、さらにひどい言葉が返ってきて、その罵り合いが泥沼のような応酬に発展することがあります。
W。今一生が言っていたのは一見この問題に想えるが、以下に大きな問題を抱える人がWEBによって自由自在に識者の政治文化発言にアクセスし中身を曲解し「記述・表現する」するばかりでなく行動を起こすこと。襲撃実行者はこの範疇のひとだと。
W。この手の問題を提出すると宮台氏のような人への言論自主規制になる。サイトにこういう人たちをためておいた方が優位に立てる。切り離すことはできない。
「原義では「読解記述力」を指し、転じて現代では「適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味に使われるようになり、日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている」
4 ネットに一度出たものを全て回収することは不可能
5 ネットでおこなったことは通信事業者に記録が残っている
@宮台氏の感性の特徴は、
「18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良義央[注釈 1]に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野長矩」
と主君の仇討ちを執念深く追及し遂に挙行した赤穂浪士たちの事態の背景と徹底して検証し(愚行)
封建江戸から近代日本、敗戦日本、復興日本、経済成長日本、経済停滞日本を通底してきた、それらの情動思考、行動を徹底的に相対化し<否>とし、個々人の個性とその周囲の共同性を大切に、グローバル資本制世界の荒野に立ち向かえ!ということ、に集約できる!
>宮台氏はあべ射殺の山上氏の背景について、
単純に統一教会と本人及び家族、あべ氏の問題に横すべりさせてこなかった。
従って、宮台氏から、そういった政治の方向での歯切れのいい発言を期待していた向きには、まったく物足りない発言に思えた。反俗日記ほど深入りしてその方向を追求していなかったが(家業のトンネル工事業まで立ち入って調べている、究極は山上氏の思想の在り方に行きつく)、発言の趣旨は同じだと思った。
>さらに宮台真司さんという学者の在り方を複雑化しているのは
@文化と芸術の評者として独自分野を探求してきたことである。
@文化芸術領域と思想政治領域は直結できない。分離している、次元が違う。統合できるのは個々人の創造力である。
宮台氏は長年この仕事をやっており、
世間とは異なる独自の評価基準があり世間的評価の高いメジャーではなくまったくマイナーなものでも評価し、しかも彼はそこに身を乗り出して経験する。
彼は60年代70年代のラジカリズムを引き継ぐ人である。
@発したフレーズは最後まで言い切る。
そこで複雑系宮台真司の全体像は最後まで言い切る一種のアジテーション効果の内側に隠され、世間の誤解を招く結果となるが,
コレを自覚しながらも続けられるところが宮台真司の宮台真司たる所以である。
>彼の一面は<情><信義>を大切にする人でもある。
>この宮台真司の複雑な全体像は一般に知れ渡っているメディア活動だけではなかなか掴みづらい。
反俗日記はデビュー当初からそういう方向も在りかな、と宮台真司の思想方向に注目してきた。社会学者はフィールドワークが必要。
@山上氏の映画完成後のシンポジウムにパネリストとして参加した宮台氏の発言は
山上氏を称揚した部分など全くなくて、作品への関心と評価、あの緊張した時期に集まった参加者との意見交流のために実行力を発揮したものであった。
こういう一人一人の、一つ一つの行為の積み重ねが、世の中の風通しを良くする。
日米欧の経済政治システムにおいては人々の<自由><余裕>がなければ発展はない、ことは日本の戦後史を振り返ると一目瞭然である。統制が強まれば伸び悩む。戦争の危機が絶えず叫ばれるよう(必要に)になる。
彼は先にも書いたように守備範囲の広い人である。
政府系の審議会の委員を目指せばとっくの昔になれた人であるが、もう一つの道を選んだ。
>彼の福島第一原発事故後の大衆運動が盛り上がっていた時期の大きな集会での発言は心に響いた。
@原発事故という想いもよらぬ大事態に、驚愕し人々は跳躍した。
@しかし飛び上がったは良いが、元の位置の着地すれば、本人は何も変わらない、と。
Wはこの発言を受け止めて、事故は発生後いずれ社会状況(地面)は変わっていくのだから、
>事故の際して跳躍し元の位置に着地してしまえば、<実質的に後退>になるんだよ、と。
>かれは大衆運動のわかるヒトでもある。
参加者個々に問いを発することがあの運動が盛り上がった時期にできた。
>最後に。
入院生活を早々と切り上げて、復帰を目指した。
あとで<踏み絵>と言い表したのはクリスチャンらしい発言だった。
かれは<踏み絵>を拒否した。
@実行者にとって宮台真司の断固たる姿勢に何か感じるものがあった、のではないか。
@攻撃者は精神的に守勢に回った。
ムッソリーニの時代、ナチスの時代、軍国主義の時代。テロ行為、政治暴力による脅迫威圧は大衆を委縮させる金融寡頭制支配層の強力な武器だった。
山上、今回の襲撃犯。孤立し悲惨な特殊事情にある個人の暴発というのはお門違い。
孤立している人に孤立するな、と説くのは考えが足りない。追い詰めるだけに終わる。孤立が悪いのではなく孤立の仕方が悪い。
そもそも宮台氏襲撃の理由がWには思想方面の熟練度不足に映る。これから個人テロを実行するものが(自死は結果ではなかったやる前からの覚悟だった、とみる)対象になる人のことを生半可にしか知らずにどうして行為に及ぶことができるのか、ココが通過しなければならない最大の狭き門になる。
記事を書くときでさえ、揃えた資料が想定を反証するものであれば、記事は再検討する。ましてや、~~ということだ。
宮台氏の個々の分野における発言の奥底を察知すると、日本的右翼思想、あるいは日本主義者と別次元にいる人物ではないと解るはずだ。反俗日記は宮台氏を同じ立ち位置の人物であると今まで一回も思ったことはがない。そういうとらえ方もある、程度におもっていた。時代のラジカリズムの継承者とするのは同調とは無関係。イデオロギー的所作の分類として共感しているだけだ。
未成年の頃、社会学を、学びたいなどという人と何度も話したことがあるが、同じ一つの事象を見ても、とらえ方はかけ離れていた(当時はいきなりこの種の討論ができた。コミュニケーションのやりかただった。)。まるで違う視点から見ている人がいるのにある意味驚いた。
そのヒトは宮台氏と同じように何もかも解っているような説明を社会学に求めていた。人文科学においてある限定条件で社会学のように科学を装い正解を求める学はほかにない。経済学は現物経済の営みに裏切られ続けている。社会学にそのような巨大なリアル反証物が全くない。
状況を突き放して説明できる学ではあっても、そこから状況を変える発想は出てこない。一般への啓もうすら怪しくなる。個々に言い聞かせる手法である。そういう意味で宮台節が胸に突き刺さる人はいる、と理屈では判っていても自分は実感できない。
宮台節を封印すると、話の内容は普通に難しすぎて何割程度りかいできるか?
彼に単純に反発する人は宮台節の調子は枝葉に拘って理解できない力がひとがかなりいる。よく聞けば反対側に入るヒトではない、と解る。
残念なながら。そういった意味で宮台氏を含めて3重に痛ましい事態だったが、今後も起こりえる事態である。
解りやすい単純フレーズで同調者を拡大していこうとする手法がまかり通ているところに予備軍は溜まっていく。
あべ事態を引き起こした山上氏に対しても未だに真意が測りかねない。
宗教妄信によって一家の生活が翻弄されてきたのは事実である。
他方、あべ氏の思想政治行動には本質的な異議はないと伝え聞く。WのWEBで知っている限りの山上氏の思想傾向はネット右翼である。
宮台さんはココに至って行為に及んだ、その間の軌跡に視点を寄せる見地から事件解説をしていた。
当たり前の視点である。
反俗日記では重大な政治行為になるのだから、結果に対して覚悟がいる、責任も発生する、いい年をして(40歳のおっさん)<時>(参院投票日選挙前日)を弁えよ、個人の事情で敢行するのは間違いだ、とした。
政権は多数派をとると強引に法的制限をかいくぐってもあらゆる手段を使って、反対派が多い基本政策を実行するようになった(強権行使ができる内外環境にある)。
政治行為(結果的に徹底的政治行為になる)だけを切り取るのが当時、自分が見聞した情報の主流だった。
しかし、こういう局面的というか政局にする手法は長い目で見たら一過性効果しか発揮できなかった。政局にする政治技術、動員力も足りなかった、ともいえる。
政権与党大権力者個人の死によって自公政権の政治は変わらない、
内閣支持率下落など無関係を装って懸案事項を実行するのは間違いない、
というのが当時の見解だった。
言い換えるとその程度の一面的な政治機構ならば(マスコミ報道の常道手段~政治に興味を引き付けるためにはその方法しかないと知っている)民主党政権交代時に原発事故という外圧はあってももっと政権の力は発揮できた。
当時の反俗日記では<民主党政権は権力ビルの一隅に賃借している身分と表現した)ほとんど何もやらないやれないまま、悪印象と落胆だけを刻印しアベ政治に引き継がれた。
社会的背景を浮かび上がらせるためにはその方向しかない。
実行者である山上氏も当然そういう批判が出てくることは考えたことがあるだろう。なけれな視野が狭すぎる。
反俗日記ではファイナンシャルプランナー(資産運用のアドバイザーことか?)の資格をとるなんてまったく無意味。宅建資格は町の不動産やに就職することができる、いづれにしても一労働者として生きぬく決意がない、とした。
SNSを含めたメディアの醸成する仮想現実には情動を誘発し、テロ行為、政治暴力による脅迫威圧を助長する世界があまたある。
その手の手練手管はイギリス市民革命期の王党派新聞が下層に呼び掛けた情動誘発の文言から始まった。従って年季が入っており練り上げられている。日本人であるとか、国家、民族だとか軍隊だとかの存在論に終始する言説の世界なので理性や構造の提示による批判は通じない。
櫻井よしこさんの自伝紛いの本を読んで、こういう存在論の絶対的尺度をもっているひとには何を言っても通じない、とおもった。
ある時まで既存以外のジャーナリストとして苦労して社会を分析をしていたのに途中でピッタとやめて日本絶対の住人である居心地の良さを発見した。我こそ日本成り、そう思って過ごし「地位と名誉」「カネ」オートマチックにが付いてくるのだからこんな楽な立場はない。転換の契機は日テレのニュース番組出演時。「日米合同委員会?」、違いますか。
丸山真男によれば、結局、戦前の支配者も厳しい試練を受けず、楽と欲の世界に生きた。そのいい加減な世界によって軍と国民を泥沼に引きずり込んだ。
台湾有事は日本有事。
台湾と中国の関係は日本の戦後史と直接関係がない。
ナショナリズムを政治の武器にしている類の争いは危ない橋を渡っているようなもの、近寄るべきではない。
分断克服、分離独立しようがしまいが、当事者の責任政治によるものであって外部がとやかく言う問題では全くない。
放置しておけば一番平和に事が解決すると思う。
帝国の時代の絶対的原則⇒内政不干渉!コレに尽きる。
この原則は極端に言えば、日本国外の個々の国民と経済の活動に対する日本国の責任は最小限にすべし。その代わり国内の経済と民は徹底して守る。
自衛隊は国防軍として粛清リストラする。地域活動を強化するために地域活動家は給料性にする。
朝鮮戦争の特需によって戦後日本経済は復興した。
以上のような開き直った基本視座が必要。
尖閣がどうのこう、竹島、北方領土、南沙諸島、すべて戦後処理対象からこぼれた島々の問題である。
東アジア、東南アジア諸国は脛に傷を持つ身。勝者も敗者も形だけのもの。
想えば中国は周囲に領土問題を抱えている。広大な領域国家が近代化せず半封建、反植民地で第2次世界大戦ごの内戦でようやく近代国家建設の途に就いたのだから当たり前の現象である。
次に日本と日本列島。ココも戦後の経済力と統治権の及ぶ領域に齟齬があり、領土を意識しだした。
地域のリーダー不在。
そういう事情に追加して、ファンダメンタルズ的発展要素のある地域に権益を持った米国(明らかに帝国であることで利益を得てきた)やアングロサクソン情報協定、軍事同盟仲間のオーストラリアがでてくる。
危機意識煽り専門の政治家はともかくも国民レベルで対抗する形での「開き直り」がなければやっていけない。真面目一方ではやっていけない。戦後平和に慣れているから委縮する。極端に走る。
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全編、聴いたわけではないが、この人の思考スタイルは、れいわ新選組を昔、優性思想で周囲から批判され離れた人に似ている。弱者に心を寄せるふりをして強者の論理を説く人である。
時代のせいなのかとんでもない人物が紛れ込んでいる。
言葉は古いが反動的立場のヒトである。
引きこもりで社会分析の能力をうしなったひとに届く言論を宮台氏に要請している。自分の弱さを曝け出してほしい。なんという思い上がりなんだろうか?
私が恐れるのは日本総体を批判する宮台氏の鋭い言論がこの事件をきっかけに普通の理屈っぽい<うだうだ話>になることだ。それが理解不足の襲撃実行者の直接的意図でもあり、煙たがる日本総体の体現者の狙いでもある。この政治関係を抜きにするから論者は反動的な人だというのだ。最も一月万冊は滅多に視聴しないことにしている。内外情勢を政局にして騒ぎ過ぎである。事実関係の情報があてにできない。
宮台氏が今回の事態を「踏み絵>としたのも暴力によって言論を曲げないぞ、といういう意味だったと理解する。登場した最初の動画ではかなりトーンダウンしていたので心配したが、その後はいつも宮台節が復活した。もちろん納得済みなら変えたらいい。しかしそんな宮台氏に自分は興味がわかない。
ホームレスの人たちに炊き出しをするのは、働く気をなくすことになる、と確信をもって批判する。
その手の批判をメディアで公然とするエライ人である。
ヒトに雇われてもカネにならないから自分で仕事を作れという。そういうビデオを自分は3万円で売っていると。この論理でいくとファイナンシャルプランナー資格を取った山上氏はよくやってるということになる。雇ってくれるところはないが。反俗日記は労働者に徹したらよかった、と主張した。手に職を持った方が楽に仕事できたのだが、一生フォークやトラック運転手でも良いではないか!仕事ばかりが人生ではない。落ちこぼれは人を気にしていたら生きてゆけない。卑下することもうらやむこともない。
論者は資本金入らずの起業を進め、やる気を出せなどと言っているが、ソレは引きこもりで理解力なく自死をした襲撃実行者と大けがをさせられた宮台氏の関連動画で話題にすることはないだろう。空元気を出させることはできても優しさがたりない御人である。有りのままで良いのだ。人それぞれである。
支離滅裂である。言論にブレーキをかけると誰もとがったことは言えなくなる。
それでは言論媒体は活性化しない。曖昧なことは日本語の欠陥でもある。宮台真司の良さは最後まで言い切るところにある。宮台節をマイルドにする彼の良さは消える。
この論者の言う宮台真司=日本一の論客。正しいことをいうヒト。本当にそう思っているのか、ほめ殺しではないのか。
この認識がまず大間違い。
滔々と理論的にしゃべっているのを見て内容から外れてトークマシンのように想うことさえある。学者の常として状況説明過多。最も宮台嫌いのヒトはこの部分にも嫌悪感を覚えるのだろう。
宮台トークを厳密にいえば、時々ハッとするようなことをいう。コレは本文にも書いた。
そもそも言論活動は正しいか正しくないかで判断する性質のものかどうか。しかしこの要約の仕方も怪しげである。本心ではないと思う。引きこもりの人の自己流擁護をしやすくする対抗軸を作るために、日本一の論客=宮台氏にしたてあげた。
自分はそういう視野で言論に接したことがない。
客観的事実に即しているかどうかは常に気になる。もっともその客観的というのも自分なりの限定がある。全知はない。所詮個の立場に収斂する。老いること病むこと死ぬことは平等に訪れる。
宮台真司氏が自分を攻撃していると思いこむ人がいて実行に及ぶなどという論点は同意できない。
こんなことを言い出したらきりがないし、今までの宮台氏の日本体制総体への批判活動への言論自主規制要請である。日本体制総体に対する批評、批判なので自身の在り方が批判されてい思う人は多い。ただし体制に追従している人を批判してきたのであって社会的弱者に批判の刃を今まで一度も向けた姿を見たことはなかった。
社会的弱者が己を批判されていると思うのは、弱者にも拘らず強者の言論に乗り移って弱者を痛めつけている場合だけだ。襲撃実行者は弱者にも拘らず強者の言論を自分の言論としているから日本総体を批判する宮台氏を憎悪した。襲撃できたのも強者の言論が乗り移って憎悪していたからだ。ネット右翼界隈のそうした事情に配慮できるかどうか。ネット右翼には暴力が渦巻いている山上氏の時に記し、また事件は起こるとした。ネット右翼には厳しい態度で臨むのが宮台氏の魅力だった。はっきり言って他の人は刺激するのを恐れていた。
歴史的に社会構造上、社会的弱者が強者の側の先兵になってきた。あるいは今風に言えば市民社会への無差別攻撃をしてきた。論者が弱みを曝け出す言説に転換したぐらいでこの社会関係は緩められるのかどうか、見極めつ必要がある。当然論者の体制批判の切っ先は鈍る。一月万冊サイト主催者、清水という人が過去をよく告白するが、性格の歪んだ自分としてはまったくどうでも良い話である。個人の一端が解れば後はどうでも良くて本論に関心が向く。ネットメディア世界とはそういうものだ。取捨は個々人の指先一つだ。
SNSの仮想現実に孤絶した個人が直結し、体制側に立っていると思い込んでいるネット右翼などの言論サイトが(当世、右翼言論は商売になる。世の中の風潮。時流に乗っている)、政府や体制に批判的であるヒト、社会的弱者の側に立つ人、反政府政治勢力(相対的に少数派である)を執拗に貶めていることにストレスを解消する傾向があり、社会現象になっている。
あるいは市民社会を敵とみなし無差別攻撃をするケースも内外で多発している。こんな社会傾向に表現をマイルドに(弱みを曝け出して~欺瞞だな~~)などという問題を突き付けても、一方にひときわ声の大きい発信源があるのだから(再生回数を見ると一目瞭然)、要請するのは宮台氏ではなくそちらの方にするのが筋が通ている。
そもそも一言論人に対する個人テロは自分の記憶する限りここ数十年無かった。民主党国会議員へのテロ殺害はあった。
社会的弱者が強者の側に立つメディア仮想世界で、弱者の側に立たんとしている人たちの悪口いじめをすることに同調し、ストレスのはけ口にするばかりか、一言論人へのテロ行為に及んだ、コレが今回の実行者の実態である。
ソレは米国のラストベルト(錆びついた地帯)のトランプ支持者。もしかしてブラジルのボルソルナ大統領の一部支持者と同じ位相である。なお宮台さんはトランプを肯定するひとだ。
要するに自分に降りかかってくるのに天に向かって唾を吐いているのだ。排外主義の個人版である。
山上氏は獄中から出てこれない、宮台襲撃実行者は死ななければならなかった。このブーメラン的現実をごまかしてはならない。
事態の事実関係が一番大事である。
もちろん獄中者は支援すべきだ。論者が擁護する時点よりも悪い状況にある。
しかし射殺されたあべ氏はどうなる。この論者の論理を適応すると、統一教会と安倍首相が悪い、というだけに終わる。
あんな暴力があって良いわけがない!残酷な武器で突発的に死の世界に引き込まれた。(40歳を過ぎてあのような粗暴幼稚な武器を製造すること自体が心の病状態を示している)。Wは国葬反対のデモに行った。射殺現場にも出向いた。
このヒトは東京オリンピック反対の一つの理由として警備体制が杜撰で外国からクレームがつくなどと語っていた。あきれ果ててそれ以降相手にしないようにした。それ以前もぐずぐず何を言っているのか焦点が定まらないことが多々あった。それに根が意外と保守的な人である。