近所の老夫婦のお父さんが盆栽マニアだった。ベランダに盆栽たちを並べる架台を作りベランダの端から端まで盆栽の占拠状態だった。ソバで占拠状態を確認したことはなかったけれど、アレでは奥さんは洗濯物を干すときに相当邪魔になっただろう、と想っていた。台風の時など、盆栽が吹っ飛ばないように架台から下ろしていたのだろうが、ものすごい強風が吹き抜けた<あの台風>のときなど、どうして盆栽たちを避難させていたのだろうか?
まさか部屋の中に入れていたはずはないのだが、本日、盆栽の作り方初歩からネット見てわかった。
うむ、盆栽の小鉢と盆栽本体の根っこ部分は底の水抜け穴を通して針金で繋ぎ合わせているので、強風が吹いても架台から下に退避させるだけで吹っ飛ばされない、とわかった。盆栽の樹々も強風でなぎ倒されるほどヤワではない。何しろ、樹本来の成長を年をかけて抑えて極少、強固に発育不全を起こさせている。
と、ここまで書いて、中国の纏足 - Wikipedia(てんそく)を思い浮かべた。吐き気がする。
なお、続けて解説を読むと
西洋の足
「纏足ほど極端なものではないが、ヨーロッパでも、大きな足は労働者階級のものという認識があり、貴族階級では小さな足が好まれた。特に17世紀、ヨーロッパでバレエが流行・定着して以降は、きついバレエシューズによって小さくなった足は、貴族の証となっていく(W。バレエの流行というよりも貴族階層の女性の靴が足サイズよりも小さかったのでは?ウエストもがっつり締め付けスカート部分は末広がり。仮に足元が見えるとすれば土田靴状よりもできるだけ小さな靴)
冷水に足を浸けて小さい靴に無理矢理足を入れていた。」
盆栽の起源は中国
引用
「2000年以上の歴史を持つ重要な文化です。 少なくとも2500年前には、既に樹を鉢に植えて育てる趣味があったと言われています。 中国での呼び名は「盆景」です。
日本には平安時代から鎌倉時代あたりに渡来し、それ以来日本の文化として多くの人々に愛されてきました。」
W、結論 知ってしまえば、盆栽プロジェクトは中止。
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「日本文化私観
二。俗悪について、<人間は人間を>
「僕は舞妓の半分以上を見たわけだったが、これぐらいバカらしい存在は滅多にない。特別の教養を仕込まれているのかと思っていたらそんななものは微塵もなく。踊りも中途半端だし~。
それなら愛玩用の無邪気な色気があるのかといえばコマチャクレているばかりで、清楚な色気など全くなかった。もともと愛玩用に作り上げられた存在に決まっているが、子供を条件にして子供の美徳が無い。羞恥が無ければ子供はゼロだ。子供にして子供に非ざる以上、大小を兼ねた中間的な色っぽさがあるかというと、それもない。
>広東に盲妹(もうまい)という芸者があるということだが、もうまい、というのは顔立ちの綺麗な女子を小さいうちに盲にして特別の教養、踊りや音楽を仕込むのだそうである。
中国人にやることは、あくどいが徹底している。どうせ愛玩用として人工的に作り上げるつもりなら、これも良かろう。盲にするとは凝った話だ。ちと、あくどいが。不思議な色気が、考えてみても感じられる。
↓
>舞妓は人工的な加工品に見えながら、人口の妙味が無いのである。娘にして娘の羞恥が無い以上、
>自然の妙味もないのである。
W.現時点では典型的な職業差別である。舞妓さんに感想を抱く立場にないので意見もない。
@僕たちは5,6名の舞妓を伴って東山のダンスホールに行った。深夜の12時に近い時刻だった。
@ダンスホールは盛況だったが、この時僕が驚いたのは、
座敷でぺちゃくちゃしゃべっていたり、踊ったりしていたのでは一向に見栄えのしない舞妓たちが、ダンスホールの群衆に混じると群を圧し堂々と光彩を放って目立つのである。
@つまり独特の着物、だらり帯が洋服の男と圧し夜会服の踊り子たちをあっし西洋人も点で見栄えがしなくなる。
>同じことは相撲取りを見る度にいつも感じた。呼び出しに続いて行司の名乗り、それから力士が一礼しあって、四股を踏み水をつけ塩を悠々とまき散らし、しきりにかかる。仕切り直し手暫くにらみ合い~~W省略 。
~土俵の上の力士たちは国技館を圧倒している。数万の見物人も国技館の大建築も土俵の力士たちに比べれば、余りにも小さい。
@コレを野球に比べてみると二つの違いがはっきりする。
何というグランドの広さであろうか。
9人の選手たちがグランドの広さに圧倒され追いまくられ、数万の観衆に比べて気の毒なほど無力に見える。
グランド広さに比べべると選手たちは草刈り人夫に見立てても良いぐらい貧弱に見え、プレーしているのではなく息せき切って追いまくられた漢字である。
>何時しかベーブルースの一行を見たときには、さすが違った感じであった。
板についたスタンドプレーは場をあっし、グランドの広さは目立たないのである。
@グランドを圧倒しきれなくとも、グランドと台頭であった。
~~いわば伝統の貫禄だ。
しかしながら伝統の貫禄だけでは永遠の生命は維持することはできない。
>舞妓の着物がダンスホールを圧倒し、力士の儀礼が国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命力を維持するわけにはゆかない。
>貫録を維持するだけの実質が無ければ、やがて滅びるほか仕方がない。
>問題は伝統や貫禄ではなく、実質だ。」
引用終わり
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W。野にあるものは野に。
路面のコンクリートの裂け目からポツンと顔を出す可憐な花、茎は華奢で弱々しい限りだった。持ち帰って鉢植えにすれば、育つだろうと試みたことが何度もある。その度に一夜で衰弱死してしまった(何で?キチンと鉢植えしたのに!)。
花は駄目なら雑草になっている生命力旺盛なアルファルファならいける、と同じことをしてみたが本当に一夜で萎んでしまった。
>茎をカットし「花瓶」に入れたアルファルファは次に持ち帰った草を差すまで枯れに頑張ってくれた。嫌なたとえだがベッドに横たわる重病患者に例えると原理は解らないでもないが~。
引用
「花は野にあるように
利休居士の有名な言葉。
茶道はクラブ活動で齧った程度の私ですが、この言葉「野にあるまま」ではなく、「野にあるように」という所が肝心なようです。
つまり自然そのままを由とするのではなく、自然そのものを感じさせるように花は活けよ、という事を言っているのだそうです。
太閤秀吉が咲き誇る朝顔を見に行くと、花が全て摘み取られており
茶室に1輪だけ活けられていたという有名なエピソードが思い出されます。
実際フラワーデザインでも「植生」という考え方がありますが、
自然そのままがいいのなら、実際そこへ行って見る方が
よっぽどよいのです。
実際「植生」で花を活ける場合「自然にあるように」活けるのですが、それは決して自然そのままに活けているわけではありません。
観察したそのままを再現しても、決して人は「自然らしい」とは認識しないものなのです。
作為的に自然を再現するとでも言いましょうか・・・一見矛盾してるようなのですが、実際はそうなんです。
この時期、こんな風に荒れ野の中に咲く鉄砲百合を見るのが好きです。
植えっぱなしにしておいた百合は、市場で見るような立派な茎も葉もなく、
風に揺れる風情がまた良いのです。
花弁にこのような色が出るものが
多いのも植えっぱなしの百合の特徴。
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坂口安吾「堕落論」のなかに東京湾に臨む工場の機械的な佇まいに<自然美>を見るという観点が紹介されている。その観点は千利休がいう一凛花に自然を思い起させる手法を否定するものである。
秀吉の「咲き誇る朝顔を見に行くと、花が全て摘み取られており
茶室に1輪だけ活けられていたという有名なエピソード」
千利休的な小さく閉鎖的な茶室に狂気、殺気、征服、無常の武将がこもる心象風景はなんとなくわかる。剥き出しの暴力行使、大量殺人、陰惨極まりない暗闘、前の荒ぶる心を形式美の手続きを踏む動作の中で一先ず鎮静させる必要があった。茶室は小さい閉鎖空間である必要があった。
鬱屈した一時的に凝縮した「正気」はやがて陰惨な暗闘、狂気、殺気、殲滅戦へと爆発する。
>武将が茶室なら、普通の武士は戦い前の己の心を鎮めたのだろうか?家紋、一族郎党の繁栄を神仏(身近な)に願っていたのだろうか。
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「つれづれなるままに、日暮らし、硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」