4K画質で見る貫禄の浪花千栄子 登場場面
反俗日記⇒勝新太郎、田宮二郎の出世作。1961年9初公開(日本映画黄金時代、戦前と戦後の風俗、文化の葛藤していた時代、モノクロ映画の時代、~1950年代の末期、1960年代初頭の作品<「悪名」は天然色映画>だが舞台設定は1950年代。)
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銀座並木座に初めて足を踏み入れたとき、モノクロ映画の淡々とした画面展開に衝撃を受けた。幼いころに、頭の奥底に終われていて決して蘇る事のない記憶がスクリーンに誘発され突然沸き起こった感がした。画面あの光景、人々の仕草、目線に今まで体験したことないデジャヴーが誘発されなぜか心地よかった。
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既視感は、実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる現象である。
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銀座並木座で衝撃を受けた日本映画黄金期の白黒スクリーンはわたしの体験した場所の記憶(光景)~エマニュエルトッド「我々はどこから来て今どこにいるのか?~~民主主義の野蛮な起源~~(下)第11章、民主制はつねに原始的である。W、トッドの発見ではなくカールマルクス「共産党宣言」の単線的な生産力と生産関係の矛盾を起動力とする唯物史観の中で原始共産制を人類史の始原としている。
第15章、場所の記憶。~トッドの家族システム論の核心(研究の各段階を振り返って)なのだが、解り難い。~~
反俗日記の今回の記事は
15章の6目次の5番目、「さらばフロイト」に該当する
@6番目の「弱い価値観と諸国民の持続」の項目がトッドの独創的な展開である。
@この長い本の中で一番感銘を受けた。
でいえば、政治共同幻想ということになる。
W。吉本隆明的な「国家共同幻想」論が受け入れわれたのは極一部の政治グループに過ぎなかった。短くまとめると「国家とは支配階級の暴力装置であり、幻想性も付与する。」ということで国家の幻想性を否定していたわけではなかった。レーニン「国家と革命」で大事なことは暴力装置としての国家の役割をはっきりすること=ブルジョア独裁をプロレタリア独裁転換することが過渡期社会における国家の最大キーポイント。~~~ソ連崩壊、中国改革開放はこの視座から解釈できる~~スターリン主義体制は社会民主主義に転換できない、その条件がないところに情報公開や政治開放⇒経済開放に進んだ。政治学的にも経済学的にも大間違いの「戦略」だった~~~敗戦日本にGHQはどう対処したのか?戦前の言論を封じた上で農地解放その他の政策を実行した~~~。コレは権力問題を曖昧にする社会民主主義の政策であり、統治機構は崩壊し、株式手形乱発によってソ連邦時代の多くの富は急伸財閥に集中され、同時に海外金融ルートによって(主としてユダヤ系金融ネットワーク)簒奪され海外に持ち出された(エリツィン時代)。結果的にプーチンの大ロシア主義反動への道を開いた。
国家の人類史における歴史的役割とその消滅の展望。~~否定的な意味での国家を超えたEU結成はこの視角から解釈できるが、ソレはEU<帝国>の機能を強化するものとなった。EUはヨーロッパブルジョアジーの帝国である。人的物的資本的軍事的にヨーロッパ支配層のヨーロッパ人民支配の道具の要素を強化するしかない。その広域支配領域に各国民(主として中間層)を政治幻想的にインクルードしようとしている。
>「国家と革命」の後半はプラグマチックでリアルな「国家論」を展開している。そこにおいて世界各国のリアルな統治形態を個別に俎上に挙げてスイスやアメリカのような連邦民主制において国家暴力装置論を超えた戦いを暗示している。
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「吉本は血縁・氏族的共同体(家族)が、地縁・部族的共同体(原始的な国家)に転化する結節点として、兄妹・姉弟の対幻想に着目している。兄妹・姉弟の対幻想は、夫婦の対幻想とは違って、肉体的な性交渉を伴わない対幻想なので、いくらでも無傷に空間的に拡大できる。⇒W.トッド「我々はどこから~」でいえば緩やかな共同体に包摂される原初的<核家族>。しかし、この段階から国家が出現する道筋は吉本の政治共同幻想論では説明しきれない。エンゲルス「家族、国家、及び私有財産の起源」の国家出現の過程は~生産力の発展による余剰物は共同体の呪術的主催者<部族長>が管理。その場合、主要人物(人物固定化の任意)の民主合議も必要だった<生産関係でもある>~~否定できない事実である。
共同体の生産力がもっと発展し、共同体同士の交換が発生すると、相互の調整や利害対立が起こり共同体の支配者は固定され多くの富が集中し共同体は民主合議による戦闘団化する。共同体同士の交換を契機とする戦争が発生しなければ国家的機能は増長しない。国家の経済的政治的機能が不均等に増長するとき、その内外に戦争危機が生まれる。
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「兄妹・姉弟の対幻想が、他家との婚姻と言う形で空間的に拡大しているため、国民は心理的な一体感を共有し、幻想としての国家が成立するのである⇒W??。逆に言えば、原始的な国家の成立は、兄妹・姉弟の近親相姦が自覚的に禁止されたときに求められる。中上健次の「国家は白昼に突発する幻想化された性なのだ」と言う言葉は、このことを指している。」
吉本は、宗教・法・国家はその本質⇒W本質??の内部において、社会の生産様式の発展史とは関係がないと主張し、政治体制は経済体制に規定される(唯物史観)とするロシア・マルクス主義を批判する。その試みは、吉本にとってロシア・マルクス主義からの自立であって、少年期に骨の髄まで侵食された天皇制と言う共同幻想を意識化し、対象化し、相対化しようという試みでもあった。********
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と映像作品のディテール(典型的光景)~~映像作家は典型的な光景、デティールをシーンに凝縮しようと努める~~の積み重ねによる類似記憶としてが誘発されたが、
>画面のディテールは体験したことがない、と認識している<類似する未知だからこそ新鮮な感覚があった>からこそデジャブー(既視感)という不思議な感覚に陥った!
引用
「デジャビュ現象は,~最近までその認知心理学的研究は盛んではありませんでした。その理由は,デジャビュが,てんかん患者などにおける記憶異常の問題として扱われ,健常者では,疲労やストレスなどによってまれに起こる現象という見方が支配的であったためです。
しかし,内外の質問紙研究によると,
>デジャビュ経験率は,健常者で3分の2くらいあります。私が,大学生202名に調査した結果では,場所のデジャビュは63%,人のデジャビュは35%が経験しており,どちらかの経験がある人は,72%でした。
>したがってデジャビュは通常の認知メカニズムとして考えられます。
デジャビュの起こる原因の1つは,記憶における類似性認知メカニズムの働きです。たとえば,私たちが,ある経験をする(たとえば場所を訪れる)ときには,類似した過去経験が自動的に想起されます。
>そのとき,現在の経験と過去経験の類似性が高いほど,既知感が高まります(未知感は逆です)。
↓しかし。
>デジャビュ現象は,とても強い既知感があっても,(エピソード記憶や関連知識などに基づいて,たとえば「この地方,この場所に来たことはない」と)
>未経験であることを認識している点がポイントです。
>これが不思議な出来事として体験される原因です。
@反俗日記⇒ということなら、デジャブーは
ホモ・サピエンス - Wikipedia(ヒト属で現存する唯一の種)の脳内でしか発生しない現象である!
引用
「①一時期、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと呼ばれて亜種に分類されていたネアンデルタール人は3万年前に絶滅している。遺伝学研究は現生人類とネアンデルタール人の共通祖先がおよそ50万年前に分かってから発見された。
②2017年6月のNatureに発表された。分子生物学の研究結果からすべての現生人類がおよそ20万年前のアフリカ人祖先集団に由来するとした証拠が示されている。」
W。同じ出アフリカ現生人類が南米にて出会い、原住民2000万人の惨劇。
引用
「インディオ側に征服されてしまう要因があった、という説明である。これはどこか、植民地になった地域や民族はそれ自体に問題があった、だから植民地化は致し方なかった、むしろ植民地化されたことによって文明化された・・・という「新植民地主義」の理屈につながるような気がする。「征服」は常に、征服しようとした側に原因があるのである。「インディオはなぜ征服されたか」という問題の立て方ではなく、「スペインはなぜ新大陸を征服したのか」が問われなければならない。そこには主権国家体制を確立しようとするスペイン王室の財政上の要因、カトリック国として宗教改革に直面している精神的、文化的要因があると考えられる。」
【感想・ネタバレ】マクニール疫病と世界史(上)のレビュー - 漫画・ラノベ(小説)・無料試し読みなら、電子書籍・コミックストア ブックライブ
W。この感想文が的を射ているのでは。
「題名から想像できる内容とは若干違う。
世界史じゃ無くて、「人類史における、権力の発展と感染症との相互作用と、その歴史」とでもいうべきなのか、
まあ、「ミクロ寄生とマクロ寄生という概念を用いて、ミクロ寄生とは感染症であり、マクロ寄生とはあたかも感染症のようにある人間集団が別の人間集団に寄生している様」であり、興味深くはあるのだけれど。」
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W。現生人類(飛び道具の武器=弓矢を使用、ネアンデルタール人に比べて共同体は組織的で大きく伝播力がある⇒デジャブー自覚)によるネアンデルタール人(槍、鈍器程度の武器で大きな動物に立ち向かい最後はロディオ風に跨り屠る~肉食主体、4000カロリー摂取の必要では現生人類の再生産に比べて非効率。共食いの事実。⇒既視感の自覚作用はなかった。)の「虐殺」?「駆逐」を「ヨーロッパ人」研究者たちは隠したがっている。現生人類にはネアンデルタール人のDNAが数%含まれている=交合の事実。両者は中東、ヨーロッパ地域で1万数千年間、共存していた(ネアンデルタール人の最後の遺跡約4万年前)が先に挙げた南米の征服のような関係は起こる条件はなかった。
戦争の条件は究極的には共同体内の一部の支配層が生産力のある多数派を政治(=「宗教」、呪術)幻想を醸成することによって巻き込み統治する共同体間の組織的暴力の発動。
ずっと後になるが日本列島でも縄文人と弥生人は地域で共存していた。ある地方の遺跡発掘によって稲作をする弥生人の環濠集落の僅か数キロしか離れていないところに縄文人の貝塚などの遺跡が発見され科学的年代測定によればほぼ同年代の共存だった。縄文人は列島の南北に押されていったが、戦争手段が用いられたのは古代「国家」の形成過程以降だった。
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>「ヨーロッパでは40万年前にネアンデルタール人が出現(上)。5万4000年前には現生人類と共存していた(中)。4万年前にネアンデルタール人が絶滅し、現生人類が生き残った
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それとどんな歴史書や資料よりも時代の空気感や背景をスクリーンから読み取れるので画面の隅々に目を凝らした。ドキュメンタリーは編集の意図が優先する。その点、日本映画黄金時代の作品はスクリーンのデティールの積み重ねによって「In detail」素直に時代を映す鏡の役割を果たす。⇒低予算映画、撮影時間短縮映画、CG多用の今風映画は時代の細部を省略しているので多様な映画の見方ができない。
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大映映画,悪名 (1961年の映画) - Wikipedia
一作目の大当たりによってシリーズ化した八尾の浅吉=勝新、モートルの貞=田宮二郎の「悪名」は全編視聴している。