短くて流れが急な日本の川
①日本の川は長さが短く、流れが速い
②降ふった雨が一気に流れ出る日本の川
③住宅地よりも高い所を流れる日本の川
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日本の川は長さが短く、流れが速い
◆プレートテクトニクスからみた日本列島
「4つのプレートがぶつかり、せめぎ合う場として世界に類例がなく、日本列島がいかに複雑な応力場に支配されているかを示している。」
****W.新しい視点。300万年前のフィリピン海プレート
W.フィリピン海Pなど小さいプレートの動きは活発。
W。300万年前のフィリピン海Pの大方向転換によって引き起こされた東北地方の北東=南西方向の複数の山系出現。東日本大震災、中央構造線の横ずれが引き起こす各断層帯の活動活発化。
300万年前にフィリピン海プレートが大方向転換:これが東日本大震災(太平洋東北沖地震)の元凶か?(巽好幸) - エキスパート - Yahoo!ニュース
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平坦な地表の下に 起伏に富んだ埋没地形が隠れており、そこを埋める沖積層の厚さは一様でなく、軟らかい粘土やルーズな砂が主体であり、概して軟弱であることが特徴的である。 地下水位下に分布するルーズな沖積砂層では、地震時の液状化現象が問題になる。また、基礎杭を支持する基盤層が極端な凹凸を呈している場所もあり、同じ敷地に打設した基礎杭の長さが10m以上異なることもめずらしくない。 |
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「富山県を流れる常願寺川は、源流から河口まで標高差が約3000mもあるのに対し、川の長さはわずか56kmという世界でも有数の急流な川です。明治時代、常願寺川の工事のために派遣されたオランダ人技師デ・レーケが、「これは川ではない。滝である。」と言ったと伝えられています。滝のように急流だという意味」⇒W。「堤防には、霞堤が用いられています。霞堤は、上流の堤防が決壊した場合でも、開口部から氾濫流を河道に戻し氾濫被害を軽減させる機能」⇒W.調べた結果、各支流にダムを造るしかなかったようだ。大から小まで計8つのダムが建設されている。北陸電力が使っている。
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下図参照。W。河口から源流への距離が短く流域面積の狭い川は集中豪雨で一気に水かさが増す。木曽川は中流河口域が広い濃尾平野で平野に出るとゆるやかな流れとなる。
W.パリ盆地を流れるセーヌ川(河口まで約200キロ)の流域面積、780、00km²(関東平野の面積180、00km²)
降った雨が一気に流れ出る日本の川
「関東地方の利根川では平常時(ふだんの川の水量)の100倍、中部地方の木曽川では60倍、近畿地方の淀川では30倍にも増えます。」
「イギリスのテムズ川で8倍、ドイツなどを流れるドナウ川で4倍、アメリカのミシシッピ川で3倍」
反俗日記⇒歴史的に日本は取水に苦労してきた。
河口から100キロぐらい離れてこの大きな川幅。この程度の増水はマシな方。
⇒W。大河を輸送に使える。日本の川ではハックルベリー・フィンの冒険 - Wikipedia
の世界は成り立たない。W。傑作!世界文学屈指の名作。
引用
「物語はアメリカ南北戦争以前の、おそらく1830年代か1840年代頃を舞台」「ハックはアルコール中毒の父親と暮らす、母親のいない怠惰な幼い放浪者である。父親の元から脱出したハックは、妻や子供との生き別れを意味する川下への売却を恐れて逃亡した黒人奴隷のジムと出会い、自由を求めて、共にオハイオ川の北を横断する事を試みる。」
W,オハイオ川⇒「ミシシッピ川の主要な支流のひとつである。全長は1,579km(W。日本で1番長い川である信濃川は367km。)
川はペンシルベニア州ピッツバーグに始まり、イリノイ州カイロでミシシッピ川に合流して終わる。」「南北戦争前には、南部の黒人奴隷にとってこの川を渡ることは「自由への道」を意味していた。」住宅地よりも高い所を流れる日本の川 W.災害対策で問題になるのはここ。
住宅地よりも高い所を流れる日本の川
「洪水のときの川の水面よりも低い土地のことを、専門用語で「洪水氾濫域」と言います。
国土交通省によると、洪水氾濫域の面積は日本の国土の10%を占めていて、ここに日本の全人口の51%、日本の持つ資産(財産)の75%が集中しているのです。
川に沿って高い堤防が築かれていますが、台風や集中豪雨などによって堤防が万がいち決壊すれば、地域の人々のくらしに大きな被害をもたらすことになります
>「東京や大阪などの大都市で起こると日本全体にも大きな被害をおよぼすかもしれません。」
@都市部の河の護岸工事は比較的キッチリやれているが、
@問題は津波による沿岸部被害、河川遡上による浸水。
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東方向の生駒山系の麓に(急傾斜の扇状地が多い)傾斜して高く、
海抜より高い南東方向から上町台地が嘴のように旧淀川まで延び、
生駒山系の扇状地との間の低地は万葉集、平城京の時代は完全な汽水湖であった。<663年白村江の戦いに敗れた大和朝廷側は、この汽水湖を利用した唐新羅連合軍の侵入を防ぐために生駒山頂に砦を築いた>が
その後、旧大和川、旧淀川の運ぶ土砂で水捌けの悪い低地及び湿地帯と化し、たえず両川の氾濫に悩まされていた。
江戸時代中期、大阪平野の低地に流れ込んでいた旧大和川は大改修され、大阪平野の低地に流れ込まないように、奈良盆地からの水路が生駒山系と紀伊山系の狭隘地を通り抜けてから急激に南方向に流れを変え、大阪市の南に隣接する堺方面に放水されようになった。結果、中世から繁栄してきた堺の港は土砂に埋まって大型船が接岸できなくなった。
江戸時代の大阪の中心地の過半は旧淀川(この河がストレートに放出されたのは近代以降、明治29。1896年年より始められ明治42年1909年修了)、
と旧大和川の土砂に運ばれた砂州とラグーン(英語: lagoon)<サンゴや砂州により外海から隔てられた水深の浅い水域>を埋め立てた土地であり、水運に恵まれて年貢米の集積と米相場ができた。
>ラグーン地帯の広大な土地の埋め立てと市街地の運河の浚渫(しゅんせつ)による土砂は街場の整地、嵩上げに再利用された。
@豪農豪商に蓄積された経済力によるもであった。
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1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日
>近代日本資本主義の原始蓄積期は東アジア地域への戦争による獲物によるものであった。
「帝国は李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島
(W。半島の突端は旅順<大連市>乃木希典の203高地攻略戦~~今様の人達の吐き気を模様すような記事がねっとに溢れている。福田有恒の203高地攻防戦の乃木批判に対する反論はねっとでは大上段に構えて理論的体裁を整えているが、本の一節ではこの戦いを日本人の<いじらしい>姿としている。乃木の晩年と自死したときはちょうど大正デモクラシーに駆け上がる時代であり、世論の批判は結構あった。
新渡戸稲造は「日本道徳の積極的表現」、三宅雪嶺は「権威ある死」と論じ、徳冨蘆花や京都帝国大学教授・西田幾多郎は、乃木の自刃に感動を覚え、とする乃木の武士道的精神を評価する見方がある一方で、殉死は封建制の遺習であり、時代遅れの行為であると論ずる見方もあった。東京朝日新聞[219]、信濃毎日新聞](主筆は桐生悠々)などが乃木の自刃に対して否定的・批判的な見解を示した。
さらに、時事新報は、学習院院長などの重責を顧みず自刃した乃木の行為は武士道の精神に適うものではなく、感情に偏って国家に尽くすことを軽視したものであると主張し、加えて、もし自殺するのであれば日露戦争の凱旋時にすべきであったとまで述べた。白樺派は、生前の乃木を批判していたが、乃木の自刃についても厳しく批判した。特に武者小路実篤は、乃木の自刃は「人類的」でなく、「西洋人の本来の生命を呼び覚ます可能性」がない行為であり、これを賛美することは「不健全な理性」がなければ不可能であると述べた[221]。志賀直哉も日記で、乃木の殉死を「『馬鹿な奴だ』といふ気が、丁度下女かなにかゞ無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」と突き放した。
乃木の殉死を否定的に論じた新聞は不買運動や脅迫に晒された。例えば時事新報は、投石や脅迫を受け、読者数が激減した[222]。
京都帝国大学教授・文学博士である谷本富は、自宅に投石を受け、教授を辞職せざるを得なくなった[223]
乃木の死を題材にした文学作品も多く発表されている。例えば、櫻井忠温の『将軍乃木』『大乃木』、夏目漱石『こころ』、森鷗外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』、司馬遼太郎の『殉死』、芥川龍之介の『将軍』、渡辺淳一の『静寂の声』などである。この中で大正時代に刊行された芥川の『将軍』は乃木を皮肉った作品で、大正デモクラシー潮流を推進するものであった。
「各地に乃木神社が建つなど、神格化された乃木像に対し痛烈な批評を加え、『坂の上の雲』とともに「乃木愚将論」の基盤となった。作者自身は最も書き上げるのに難渋した作品と回想している。」⇒W。封建日本を近代にキャッチアップさせた明治の時代精神に開明性合理性をみる司馬は乃木流武士道の形式主義と神格化する方向に太平洋戦争への道を見出し批判するしかなかった。
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遼東半島を手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められ、国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費に充てられた~W。国家予算の1,5倍~~賠償金の一部が充てられたとみる。」
一部国民は日露戦争1904年2月から1905年9月
によって自分たちの浅知恵で勝手によそうしていた獲物が獲得できないことに怒った。
「1905年9月5日。日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した日本の暴動事件」
朝鮮植民地化1910年8月29日
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当時のロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、皇帝崇拝の観念をもっていた。これは、皇帝の権力は王権神授によるものであり、またロシア皇帝は東ローマ帝国を受け継ぐキリスト教(正教会)の守護者であるという思想である。このため民衆は皇帝ニコライ2世への直訴によって情勢が改善されると信じていた。」
@請願行進はガポン神父(ウクライナの生まれ)が計画したものだった。
「行進に先立って挙行されたストライキへの参加者は、サンクトペテルブルクの全労働者18万人中、10万5千人に及んだと言われ、行進参加者は6万人ほどに達した」
「請願の内容は、憲法制定会議の召集、労働者の諸権利の保障、敗北を重ねつつあった日露戦争の中止、各種の自由権の確立などで[1]、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。
「反俗日記⇒Wikipediaにしては珍しい精緻な解説であった。
1917年の2月革命前後の事情については、レーニンとボルシェビキに関心のあるものには知られているが、それ以前はロシア革命史に特別な関心を持つもの以外は注目されていない。だが、今に続くロシアのメンタリティーの底流はこの時代にまで遡らなければ全貌が見えない感じがする。革命でカラッと変わったわけではなかった。
******概略(総括と展望トロッキー)ザっと目を通したことがある。トロッキーは実践家。トロキー理論全般の特徴は実践場面へと人を突き動かす魅力が乏しく革命家の政論に留まっている。
レーニン「ロシアにおける資本主義の発達」⇒経済学者の実証主義の分析方法で論を進めていく。このように資料を精緻に積み重ねながら経済学的に論を進め持論の正当性を訴える論者はコレまでいなかった。人民の意思党の理論家はロシア社会と経済の特異性(皇帝と貴族、国家官僚機構が主導権を握った軍事産業を基礎とするヨーロッパ先進の大工場の移植と農村の寄生大地主制度と政治的自由の抑圧)を指摘し皇帝打倒を突破口にした政治的自由のかくとくを戦略とした。
国内で発表された当時、ロシアの活動家たちに非常にインパクトをもたらした。人民の意思党の専用監獄ではこの著作の話題で持ちきりだったことは、ヴェーラ、フィグネル「ロシアの夜」に描き出されている。監獄の古い革命家たちは獄外で新しい運動、と革命家たちが育ってきていると実感する。
「特定の指導者がいた訳ではなく、原因や目的が入り組んだ複数の革命団体によって、反政府運動と暴動がロシア帝国全土に飛び火した。騒乱は全国ゼネスト、戦艦ポチョムキンの反乱などで最高潮に達したが、憲法制定や武力鎮圧で次第に沈静化し、ストルイピン首相の1907年6月19日のクーデターで終息した。」
第一次ロシア革命におけるパルヴス、トロツキー、
レーニン-その革命思想をめぐって
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CV_20240923_daigakuinkiyoseikei_24_145.pdf
引用
「パルヴスの目には、当時のSPDは、すでに資本主義が栓楷と化している客観的歴史過程を認識できず、その自動崩壊を運命論的に待機していると映じていた。
そして、SPDへの失望は、ロシアのプロレタリアートへの希望と対置された。しかし彼らを指導すべきロシアの党(特にメニシェヴィキ)にも、類似の徴候がみられたのである。
プレハーノブの公式に忠実たらんとするメニシェヴィキは、当時の運動主体がプロレタリアート(ペテルブルグ、10万/18万ゼネスト、デモ6万)だったにもかかわらず、ブルジョアジーに政権を委ねるべきだという立場にあった。
パルヴスは、メニシェヴィキが「プロレタリアートの革命軍が勝利を得るだろうとき、政治権力をブルジョア民主主義に自発的に譲るべきかどうかという議論に没頭」しているのはナンセソスだと断じる。
彼は、ロシアの社会主義者がロシアの後進性に運命論的に屈服していることに対しても、我慢ならなかったのだ。
「最小限綱領と最大限綱領の間には、革命的連続性が定まっている。それは一撃ではなく、1日でも1ヵ月でもなく、これは1つの完全な歴史的段階である。前もってその継続期間を計算するのは不合理なことだろう。」
革命の持つ惰力は、こうして「歴史的段階」と位置づけられた。トロツキーは、ブルジョア革命と社会主義革命を融合させ、連続した一段階とし、最小限綱領から最大限綱領への成長転化を構想したのである。
しかし、社会主義的政策が明確になれぽなるほど、「農民に依拠するプロレタリアートの独裁」の支持基盤は揺らぐことになる。
トロッキー一は、私有財産に根強く執着する農民は、結局プロレタリァートの政策とは相容れず、やがてその多数が離反すると予想していた。
彼がロシア革命の存続にとって障害とみなしていたのは、ロシアの生産水準、技術水準の後進性といった経済的障害ではなく、農民層の不可避な離反によるプロレタリアートの孤立という政治的障害だった。「
手持ちの手段だけではロシアの労働階級は、農民の援助を失う瞬間に、押しつぶされてしまう」というトロツキーの言葉に明らかなように、この障害を乗りこえる手立てはロシアにはない。そこで彼は、農民の支持に代わる新たな支持を、ヨーロッパのプロレタリアートに見出そうとしたのである。
トロツキーは、Pシア革命が西欧プロレタリアートに革命を志向する勇気を吹きこみ、彼らが社会主義革命に立ち上がることに、ロシア革命の成否の全てを賭けたのである。トロツキーの永続革命論⇒
(永続革命という言葉を使っているのは自分の知る限り、禁止されていたトロツキー理論の圧縮されたブルジョア革命とプロレタリア革命の一段階革命
及び後進国ロシアと先進地域ヨーロッパ革命の地理的連続革命の英語訳permanent revolutionを翻訳した日本人翻訳者が、永続革命と翻訳したものと認識しているが、下記の遊星全体の~~の文言としてトロツキーが17年革命以前に使っていたとすれば、革命のリアリズムからの遊離というべきで革命の理論ではない。
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引用文
「トロツキーにとって
にとって、革命の段階的連続性と国際的連続性とは不可分のものだった。それゆえトロツキーには、ロシア革命の一国的存続という視点はない。ロシア革命は、国際革命の一環としてのみ勝利するもの
「社会主義革命は、民族的舞台で開始され、さらに国家相互間に、最後には世界的舞台にまで発展させられる。かくして、社会主義革命は、言葉のより新しく広い意味において、永続革命となる。
>それは、われわれの住む遊星全体での、新社会の究極的勝利においてのみ、完結しうる。W?」
]⇒W注。ブレスト=リトフスク条約の外務人民委員、トツロキー「戦争もしないが講和もしない」策
票決はレーニン(即時停戦)支持15票、ブハーリン(戦争継続)支持32票、トロツキー(戦争もしないが講和もしない)支持16票について
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トロツキーは、ヨーロッパの社会主義者の同時代人のうちで、パルヴスから最も多くの知的影響を受けたといわれている。
第3章 レーニンの労農民主独裁論
レーニンは、パルヴスが重視したプレタリアートがロシアではまだまだ少数派であると指摘し(W。ロシアにおける資本主義の発達」の経済学的分析が生きている。⇒毛沢東⇒「誰が我々の敵か,誰が我々の友か,この問題は革命のいちばん重要な問題である。」 )、パルヴスが主張するような「労働者民主主義派の政府」は、「人民の膨大な多数者に依拠」しないゆえに、「ありえない」と断じる。⇒W。量は質に転化する場合がある。
レーニンが対置する「恒久的な」革命的独裁の勢力配置は、以下のようであった。
「それ〔ロシアのプロレタリアート〕が膨大な、圧倒的多数者になることができるのは、半プロレタリァ、半経営者の大衆、すなわち、都市および農村の小ブルジョア的な貧民大衆と結合するばあいだけである。」
> 特にレーニソは、ロシアの全人口の8割を占めた農民、しかも1904年末以降、グルジア、ウクライナなどの辺境で革命性を発揮し、労働者との連帯の構えを見せはじめた農民に注目していた。.
『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』(1905年7月、以下『二つの戦術』)では、「農民は革命を最後まで遂行できる」と述べる57)ほどに、その革命性に信頼を寄せるのだった。こうして彼は、圧倒的少数派のプロレタリアートにとって不可欠の同盟相手を農民に期待し、当面する革命の変革主体を「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」と定式化した。
パルヴス、トロツキー二に比べ、レーニンは、農民の革命性を一段高く評価し、プロレタリアートと対等の変革主体として農民をみなしたのである。
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レーニソは忠実なマルクス主義者であったが、同時にロシアの革命的伝統を継承する、ロシアの革命家だった。彼は、強力な革命的イソテリゲソチア集団に比しての、プロレタリアートの質的・量的未熟性という伝統的想念を、革命的昂揚の報に接しても、なかなか払拭できなかったのだ。そして、不可欠の選択として、農民との同盟を提起する。
W.ナロードニキたちとその後継者、人民の意思党、エスエルがいなかったら、17年革命はなかった。そのいみでロシア革命は労働者農民大衆がおこした。
一方パルヴスは、最も成熟したプロレタリアートを擁するSPDの理論家として、積極的なプロレタリアート認識を培っていた。彼にとって、プロレタリアートの革命性は、断じて疑いえないものだった。
「それ〔労農独裁〕は、……農村の利益になるように土地財産を根本的に再配分し、共和制までをふくめて首尾一貫した完全な民主主義を実行し、農村生活からだけではなく工場生活からもいっさいのアジァ的・債務奴隷的なものを根こそぎにし、労働者の状態のいちじるしい改善と彼らの生活水準の向上との礎をおき、最後に……革命の火事をヨーロッパに飛火させることができるだろう。」62)
換言すれぽ、変革主体たる労農両階級が、最小限綱領を十分に達成したのち、ようやく国際革命の展望が日程にのぼるのであった。前掲「社会民主党と臨時革命政府」では、このブルジョア的発展期は、「幾十年」と想定されている63)。
r二つの戦術』に至る時期のレーニンは、変革主体については労農同盟という独自の構想を示したが、依然として非連続的二段階論に立っていたことがわかろう。
レーニンは、革命の段階的連続性という点では、短期間ながらブルジョア革命と社会主義革命との時間的不連続を想定しており、二段階論の母斑は完全に払拭されていない(連続的二段階革命論)。
しかし、革命の国際的連続性という点では、ロシア革命の存続の可否を西欧プロレタリアートの革命性に託すことによって、トロツキーとほぼ同じ認識に立つことになった。W?
1905年革命期のレーニンは、ロシアー国の資本主義の発達に固執するあまり、まだ資本主i義の帝国主義段階への突入を視野に収めるには至っていない。
周知のように、彼がこの問題の研究を本格的に始めるのは、第1次大戦勃発以降である。また、革命情勢の持つダイナミクスに注目し、二段階論を克服するのは、『四月テーゼ』発表による。この二重の意味での認識の遅れが、彼のこの時期の革命思想一特に革命の性格づけに関して一に動揺をきたすことになったといえよう。⇒W.連続革命、ましてや永続革命はアプリオリに設定できない。
(羅: a priori前提や与件として疑うべきでないこと、先天的なこと
経験に先立つ判断、経験に左右されない判断
空間や時間、数学や論理などがアプリオリな判断に該当する
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レーニンの即時停戦論 ソヴィエト側には大戦でツァーリによって動員されたロシア軍が戦意を喪失し、自発的に戦線を離脱し始めており、ソヴィエト政権を支える革命軍=赤軍は建設が始まったばかりで決定的に戦力的な不利を抱えていた。
トロツキー「戦争もしないが講和もしない」策 交渉当事者のトロツキーはどう考えたか。ブレスト=リトフスクに向かう途中の前線で、ソヴィエト側の塹壕はからっぽだった、という現実を見て、戦争継続は不可能と判断していた。
協商国の働きかけ この同じ1月8日、アメリカ大統領ウィルソンは、十四カ条の原則を発表した。ソヴィエト政権が対ドイツ単独講和で離脱し、東部戦線がなくなることでドイツの戦力が全面的に西部戦線に向けられることを危惧し、協商側の戦争目的を明らかにする意図があった。
ドイツの軍事攻勢再開
講和条約締結 1918年3月3日、講和条約がブレスト=リトフスクで調印された。外務人民委員にトロツキーに代わって就任することになっていたチチェーリンに対して、レーニンは「講和条約には眼を通さず、調印だけせよ」と命じたという。しかし、チチェーリンが就任したのは調印の後のことで、実際に3月3日にソヴィエト=ロシア代表の全権として調印したのはソコリニコフだった。トロツキーはすでに外務人民委員を辞めており、調印には加わっていないことに注意。<和田春樹編『ロシア史』新編世界各国史22 山川出版社 p.298> <2023/1/31 訂正>
こうして難航したブレスト=リトフスク講和交渉は、ドイツなど同盟国側の一方的な条件をソヴィエト=ロシア側が受け入れることで妥結を迎えた。
ブレスト=リトフスク条約の内容
ソヴィエト=ロシアとドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国の4カ国は直ちに停戦した。ロシアはポーランドの領土主権を放棄、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国、フィンランド、ウクライナ、ベラルーシから撤退して独立を認め、カフカス地方の一部をオスマン帝国に譲った。この時ロシアが喪失した領土は合計320平方kmに及び、ヨーロッパ史上未曾有のことであった。またロシアは、人口の約三分の一、最大の穀倉地帯Wウクライナ、石炭・鉄・石油などの近代的工業中心地Wウクライナ、バクーなどを失うことになった。⇒2次世界大戦のナチス、対ソ侵攻もウクライナ、バクー方向(反俗日記第4回ファンダメンタルズ記事)EU内ドイツはバルカン(ユーゴ内戦)ウクライナ侵攻。ソヴィエト=ロシアが放棄した地域には次々と新国家が自立したが、実際にはドイツ軍が駐屯し、ドイツの傀儡政権が樹立されその保護国同然であった。しかも8月末には、ドイツはロシアの苦境を利用して同盟国側と追加条約を結ばせ、新たにグルジア(ジョージア)の独立と60億ルーブルの事実上の償金、バクー産出の石油の三分の一の引き渡しなどを認めさせた。<木村靖二『第一次世界大戦』2014 集英社新書 p.182>
締結後の情勢・影響
ソヴィエト=ロシア 戦争継続を主張する左翼エスエルは政権を離れ、農民パルチザン闘争を主張するようになり、ボリシェヴィキ内部にもブハーリンなどの反主流派を生み出すことになった。トロツキーは外務人民委員を辞任した後、軍事人民委員に就任、赤軍の創設を最優先に内部から革命を維持できる武力の育成を図った。この結果、レーニンとトロツキーを中心としたボリシェヴィキ主流派の独裁体制が現実のものとなっていった。3月6日はボリシェヴィキは正式にロシア共産党と改称、またドイツ軍の攻撃を避けて首都をペトログラードからモスクワに遷した。ドイツ、敗戦へ ドイツは東部戦線の重圧が無くなり、西部戦線に戦力を集中できる態勢となったので一時勢いを盛り返した。しかし、軍が期待したような東部戦線からの西部戦線への兵力移動は実際には出来なかった。それは、ブレスト=リトフスク条約で獲得した広大な勢力圏を維持するためには、なお軍隊の駐留が必要だったからだった。そしてこの講和にもかかわらず戦争が続いたことで、多くの将兵の中に厭戦気分が蔓延していった。1918年11月にキール軍港の水兵反乱が起きると、ドイツ軍は一気に崩壊に向かい、西部戦線においても協商国に対して降服し、1918年11月11にに停戦が成立、第一次世界大戦の終結へと向かう。
対ソ干渉戦争 ドイツとの戦争を続ける資本主義諸国にとっては、ブレスト=リトフスク条約でソヴィエト=ロシアが戦線から離脱し、ドイツ軍が息を吹き返すことは脅威であった。また、社会主義革命を標榜するボリシェヴィキ政権が実権を握り、しかもレーニンが平和についての布告で秘密外交を暴露して批判したことも大きな脅威となった。各国はなんとか革命政権を打倒し、ロシアをドイツとの戦線に復帰させなければならないと考えるようになり、そのためにはロシア内部の反革命勢力を軍事支援することが必要と判断した。こうして対ソ干渉戦争はブレスト=リトフスク条約締結直後のイギリス・フランス軍のムルマンスク上陸で始まったが、当初はアメリカのウィルソン大統領が革命干渉に消極的であったこともあって、共同歩調とはならなかった。そのような中、アジアでは日本がロシア革命への介入は満州からシベリアへの勢力拡大の好機と捉え、積極的に動こうとし始めた。
シベリア出兵
ブレスト=リトフスク条約の廃棄