2.歴史的に見た日本の人口の変化
歴史的に見た日本の人口と家族
file:///C:/Users/sasaki/OneDrive/Pictures/%E6%BA%96%E5%9C%A7%E7%B8%AE%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8C%96.pdf
引用
(1)弥生時代から奈良時代にかけての人口規模の拡大、(2)平安時代における
人口の頭打ち、(3)室町~江戸幕府成立期における再度の人口増大、(4)江戸時代前期(17世紀)における人口の急増、(5)江戸時代後期(18 世紀以降)における人口の停滞、(6)明治時代以降の人口の急増、
>(3)の背景としては、二毛作、牛馬の使用、灌漑施設の整備等が進み農業の生産性が再び向上したこと、意欲的な開発領主としての武士が土地支配の実権を強めていったこと、商業が発達し都市と農村間の経済活動が活発化したこと等が背景として考えられる。
3.江戸時代の家族形態の変容と人口増加⇒W.日本史の重要ポイント
江戸時代前期に生じた大きな変化とは小農の自立であった。平安末期以降の荘園・公領は、名主(みょうしゅ)と呼ばれる有力農民の下に下人等、多くの隷属農民が属する形態をとっていた。室町時代以降、隷属農民は徐々に経済的に自立する動きを見せていたが、この流れを決定的にしたのが 16 世紀末に行われた太閤検地である。
****
権門体制 - Wikipediaのヒエラルキーを引き継ぎ、領地の安堵と経営実態は荘園制公領の継続であろう。岩出市歴史資料館の下の説明、参照。
院政時代(インセイジダイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
の僧である。、摂関政治がおわり、白河天皇、鳥羽天皇、後白河天皇の3代の上皇が政治の実権を握った時代)(W。歴代,座主は覚鑁を名乗っている)が高野山、大法院の荘園を獲得したことを切っ掛けに、このような荘園を次々に成立させました。
このとき~~の荘園の多くは鎌倉時代の後期に大法院が高野山から独立した後、根来寺の荘園となりました。」~~「そして3年後、鳥羽上皇の支持を得て~~領有は認められました(歴史用語で安堵)。国衙から労役を免除された荘園が確立します。」「1337年足利尊氏から和泉国**荘園を寄進され~~、
南北朝期には直河荘(和歌山市)を加え~~泉南(紀伊山系の大阪側。和泉市一帯)、南河内地方(金剛山の麓一帯)の土豪や武士と結びつき、勢力を拡大。
>室町以降、山内に次々とたてられた坊院の多くは紀北、泉南の武士層によって支えられていました。⇒W。家督を継がない子息は根来寺の坊主になった。」
⇒W。根来寺の在り方は、金融業務や、人々へのアジールの提供、火縄銃の門前町でいち早く完成したことなど、と旧来の権門体制に依拠した荘園公領制に基づく領地経営。地方豪族、武士層との相互補完、相互浸透の組織実体などが混然一体となっていた。
***************************************
****「歴史的に見た日本の人口と家族」引用再開。
他方、秀吉は自身の出身もあって典型的な戦国大名(日本的中央集権型封建制)だが、全国武力制覇の後に天皇家から<摂政関白>の位を得て、「明国の征服を目指して朝鮮に出兵し、2度の戦いを繰り広げました。」
****
「太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定した。このことは小農の自立を促し、家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いた。
この傾向は江戸時代に一層強まった。まだ江戸時代初期には、名主的な有力農民の下に、下人等の隷属農民、名子(なご)や被官などと呼ばれる半隷属的小農、半隷属的傍系親族等が大規模な合同家族を形成するという形態が見られたが、時代の進展とともにこれらの下人、名子、傍系親族等は徐々に独立して小農となっていった。それに伴いこれら小農は新たな世帯を形成し、大規模な合同家族を中心とした家族形態から比較的小規模な直系家族を中心とした家族形態への転換が起こったのである。」
宗教はわからない。関心も無いが~~。
根来寺の始祖、覚鑁 - Wikipedia(1095年~1144年)
鴨長明 - Wikipedia(1155年~1216年)
鎌倉幕府1185年(文治元年)樹立。
***********************
~院政時代白河天皇、鳥羽天皇、後白河天皇の3代の上皇が政治の実権を握った時代~~覚鑁は鳥羽天皇の庇護。
鳥羽天皇 - Wikipedia 1103年2月24日- 1156年7月20日〈保元元年7月2日〉)
院政 - Wikipedia(院政時代)摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治。
「1159年(平治元年)の「平治の乱」では、保元の乱で味方同士だった平清盛と源義朝が対立。平清盛が勝利したことで平氏の世が訪れ、以降時代の主役は武家へと移り変わって ...」
> 1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶ。
鎌倉幕府1185年(文治元年)樹立。
引用 覚鑁 - Wikipedia(1095年~1144年)
「平安末期のヒト1095年)6月に京都仁和寺の荘園藤津庄(佐賀県)の総追補使伊佐兼元の三男として誕生する。
>鳥羽上皇の病を治すとこれまで以上の帰依を受け荘園を寄進されるなど手厚く保護された。
>(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院を建立し、大伝法院座主に就任したのを皮切りに、
>さらに2年後の長承3年(1134年)には金剛峯寺座主をも兼ねて、事実上同山の主導権を制し、真言宗の建て直しを図る。
@しかし、当然この強硬策に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立、
@遂に保延6年(1140年)に、覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲してこれを焼き払った。
*****
>後に根来山は豊臣秀吉との確執の末に討伐を受け壊滅、
長谷寺(豊山)や智積院(智山)において新義真言宗の教義を根付かせ、
@現在の新義真言宗(根来寺)、真言宗豊山派、真言宗智山派の基礎となった。」
1114年、覚鑁が高野山に入る(30歳)。1129年鳥羽上皇が岩出荘(元平何某の荘園、覚鑁に寄進)を伝法院領とする(安堵)。1143年、覚鑁上人が根来に神宮寺、円明寺を建て高野山から下る。1144年覚鑁上人没す。1168年金剛峯寺、大伝法院の衆徒たたかう。1175大伝法院焼き討ち(所在地は高野山境内~~覚鑁上人死して31年も経過、両者の関係悪化し戦いまで発展したのは覚鑁死後である)1286年大法院方の多くが根来に下り山に変えることを禁止される。1288年大法院を根来に移し根来寺を開く(覚鑁死後144年)。
1336年足利尊氏が根来衆に援軍を求める。足利尊氏和泉国の荘園を根来寺に寄進。
1543年杉の坊や津田監物が種子島銃を伝える。1547年大塔が完成する。
*****参照資料
【戦国こぼれ話】羽柴(豊臣)秀吉は、なぜ「紀州攻め」を実行したのだろうか(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース*******
↓
1577年織田信長に味方し雑賀攻めに参加。⇒W.根来衆は一貫し織田信長支持。雑賀衆は分裂。一方の首領は暗殺され主導権は反信長派に移り信長の標的に=雑賀攻め。
@天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺で横死によって政治地図が一変。
①秀吉と徳川家康・織田信雄は対立の様相=根来衆紀州の国衆・湯河氏は秀吉と距離置き家康に加担。
②ところが、秀吉と家康・信雄が和睦を結ぶと、情勢は一変した。根来寺は家康という後ろ盾を失ったのである。⇒鉄砲隊の強力な軍事力は孤立し天下平定を目指す秀吉にとって絶好の攻撃チャンスとなる。
③天正12年(1584)3月に根来寺を中心とする勢力が和泉を襲撃すると、両者は決定的に対立することになり、秀吉はついに紀州征伐を決意する。
1586年雑賀衆(暗殺された首領派が復活)と共に岸和田城(秀吉方)を攻めるは失敗する。
*****
要点
中世を体現する国、紀伊
治外法権の地、境内都市
苦境にある人々の避難所(アジール
境内は貧富貴賎さまざまな人々が流入し、当時の寺社の文化的先進性と結びついて都市的な発展。政治的中立、軍事的不可侵に守られて商工業や金融の拠点として強い経済力。
「惣分」と「惣国」
地侍出身の行人[12] たちが「惣分」という会議を構成し、根来寺の方針を決定。
地侍たちは一揆の結束を武器に、守護の支配を排して自治を行った。これを「惣国」。
*****
「紀州征伐はその範囲は和泉・紀伊の二カ国にすぎないが、この一連の戦いでは中世と近世とを分けるいくつかの重要な争点が存在した。」
「無縁」の否定
「一度境内に入ってしまえば、外の事情は一切考慮しない、誰でも受け入れる。ゆえに権力者が寺内で権力を振りかざすことも認めない ―― このような寺社の思想を伊藤正敏は「無縁」と呼ぶ。」
「天下人が全てを掌握し管理する近世中央集権体制にとって、権力の介入をはねのける寺社勢力の思想は相容れないものだった。」⇒W.中国の専制国家史を批判するために日本の封建制とヨーロッパの封建制の類似性を強引に主張する学者さんの本を読んだことがある、でたらめ極まりない。
専制国家史論 (ちくま学芸文庫) | 足立 啓二 |本 | 通販
「国時代後半の社会は、二つの相反する可能性を示唆していた。一つは信長・秀吉の天下統一事業に代表される、強大な権力者を頂点とする中央集権体制、いわば「タテの支配」である。そしてもう一方に、加賀一向一揆や紀伊雑賀などの惣国一揆を代表とする大名の支配を排した地域自治体制、いわば「ヨコの連帯」があった。両者は相容れないものであり、信長・秀吉が天下統一を達成するためには、どうしてもこれら惣国一揆を屈服させなければならなかった。信長によって加賀一向一揆は潰滅したが、雑賀惣国や根来衆は未だ健在であり、秀吉はこれに対する敵意を隠さなかった。」
「太田城の開城に伴い死を与えられた者たちは、一揆の主導層である地侍である。続いて行われた検地・刀狩も、その目的には兵農分離、すなわち体制の一部として天下人に従う武士と、単なる被支配者である農民とに国人・地侍を分離し、解体することが含まれていた。その後の武士は、知行地を与えられてもその土地と私的な関係を結ぶことは許されなくなり、惣国一揆が再び芽生えることはなかった。やがてこうした体制は、徳川政権の時代に入ると士農工商による強い身分制度や藩制度などへと強化された。」
刀狩
「寺社勢力や惣国一揆を存立せしめたのは、彼ら独自の軍事力による所が大きい。これらを解体するためには、寺社や地侍、そして農民をも武装解除することが必要だった。秀吉は太田開城時に指導層の地侍を処断する一方、一般農民は退城を許したが、この時農民の武装解除を命じた。この武装解除命令は、後年の全国の刀狩の嚆矢として原刀狩令と呼ばれる。」
結語
「太田の決戦は、中世を象徴する宗教的な民衆武力と、兵農分離の近世秩序が、真正面から戦いあった日本史上のクライマックス」であり、「紀州は「秀吉の平和」、すなわち日本の近世社会の発祥の地であり、それに抵抗した中世終焉の地だったことになる」と述べている。ここに寺社勢力は消滅し、惣国一揆は潰え、武家による一元支配の近世が始まる。」
⇒W。現代の信長、秀吉、そして赤穂浪士の討ち入り、物語による日本列島源住民の民主へのモチベーションを平定し民衆側に根源的に宿る政治暴力を天下人出世への道程や卑劣なT刷り込み効果は絶大なものがある。
***************************************
***************************************
******************************************************************************
***************************************
***************************************
***************************************
↓
*******
****
芝辻清右衛門 - Wikipediaの末裔が大塩平八郎の乱 - Wikipediaに連座。
「『堺の鉄砲鍛治(堺の豆本シリーズ)』によりますと、「芝辻家は天保年間、爆発事故で倒産したといわれた」とありますが、明治16年の鉄砲鍛冶仲間に名前は出てくるようです。その頃までは細々ながら鉄砲鍛冶を続けていたようですが、それ以降はわかりません。江戸時代、公儀より鉄砲所持が禁止されてからは、堺鉄砲をはじめ鉄砲鍛冶は衰退の一途をたどったようで、~~」
******************************************************************************
参考資料
火縄銃 威力の実験 -Japanease Weapons.net
引用
「戦場では距離や目標にあわせていろんな使いかたをしたのであろう。 普通に撃つ場合というのは、50ー100メーターの距離で、安定した命中率を示す火薬の量で、玉の径が約10ミリのもので約2.5グラム位で あろう。
50ー10 0メーター位の距離であればそれ相当の威力があり、その貫通力は鉄板3ー4ミリはある、とみていた。
この実験は結論から言うと、火縄銃の前には鎧は無力であることが証明できた。
火縄銃を立てて、銃口からこの銃のこの距離で一番命中率の良くなる火薬の量である、約2.5グラムの黒色火薬をそそぎ込む。
銃口の径は 約10.2ミリで玉径よりやや大きい。
この口径と玉径を決めるのは古来「玉割り」と言われ非常に重要な射撃の要素のひとつであった。
玉が口径に対して小さすぎると威力と命中 率が低くなり、
あまりにきっちりしてると、2ー3発撃つうちに玉が入らなくなる。
火薬の量はその発射音で適量が、ある程度分かる。少ないと「スポーン」という迫力の無い音で、多すぎると「ドカーン」という感じで爆発音に ちかい。
*****
鉛の円弾、直径10ミリをパッチと言う丸い中地の布にくるんで銃口へ小型の木のハンマーで軽く叩き込む。
木製のローダーと言う棒 で20センチほど押し込む。
真鍮製のラムロッドと言うさく状で一番奥まで押し込む。この圧力のかけ方にもこつがあり、一発ずつ一定してなければならない。
火蓋を開け、火皿に細かくした火薬、口薬を盛る。火蓋を閉じる。火ばさみ(ハンマー)を上げそこに先に火のついている火縄を挟む。
スミス氏が一発ごとの初速を測定してくれた。1550フィート秒から1590フィート秒で安定しているのと、意外に早い。これは約480メーター秒 になり、現代の拳銃のそれよりも早い。 使用した火縄銃は19世紀初頭の国友筒
この実験の結果、50メーターで二枚の鉄板をかるく打ち抜いているので、貫通力は約3ミリ以上であろう。しかし火薬の量を増やせばもっと威 力は増大するので、あなどれぬ武器である。
この50メーターというのは微妙な距離で、もしこの一発を外すと、次を装槙するまでの間に、鎧を着用し刀槍を持った武者が、鉄砲の位置まで駆け寄って来れる計算になる。
日本の火縄銃の有効射程距離はどの位であろうか。約100メーターと推察する。100メーターの距離なら、かなりの確率で人間の大きさに命中させられる。またその威力もある。
前にも書いたが、火縄銃は火薬の量を増量できた。従って遠いところを撃つ際は火薬を倍位入れるという使いかたもできる。100メーターの距離なら鎧武者も確実に倒せた。城の堀の幅は大体この長さである。
鉄砲と刀槍は同時に使われていて、鉄砲がすべての要素でなかったかであろう。
いずれにせよ、当時の人々も具足・鎧兜が鉄砲の威力の前には無力であることはよく知っていた。
「雑兵物語」の中に「鉄砲は威力がある。鎧兜を付けていても、魚のふぐと同じで当たったら死ぬと思え」と言わせている。」