引用
「フランスの極右政党はどのように発展してきたか
その日が来た
2024年6月9日の欧州議会選挙でジョルダン・バルデラ - Wikipedia氏の党(RN)がエマニュエル・マクロン大統領の党の2倍の票を集めると、大統領は直ちに国民議会を解散する決定をした。この解散は、銀行のように国を運営できると信じている「極中道」政党が手痛い傷を受けたということだけでなく、極右勢力に権力への扉を開ける前は自身を極右の防波堤だと称していた衝動的で傲慢な人物の失敗を裏付けるものにもなった。彼は2017年3月20日[大統領選挙期間中]にラ・プレーヌ・サン・ドニ[セーヌ・サン・ドニ県の一地区]でこう語っていたのだ。「もし我々が勝てば、その翌日には彼らは必ず崩壊します。間違いありません」
マクロン氏のこの気まぐれは、極右が台頭して以来の歴代政府が、その原因を自ら作りながらその影響を糾弾するという長い間続いてきた偽善のサイクルに幕を下ろすものだ。
1983年の地方選挙での国民戦線(FN、2018年に国民連合RNに改称)の初の成功は、当時政権の座にあった社会党がその綱領に定めていた「資本主義との決別」を放棄してEUの制約に従うようになった時期と一致する(W社会党はEUの発起者)。この二つの出来事に直接の関連はないものの、左派、右派とも後に「幸せをもたらすもの」と説明することもあるグローバリゼーションのルールに従うようになったことは、1981年の国民議会選挙で10万票を獲得した政党(FN)の土壌を豊かに育むことになった。支配階級が経済的、通貨的、司法的な主権の重要部分を国家を超えたEUの機関に委譲(W,EUは帝国)するようになるにつれ、それまで自由主義と社会主義の対立で占められていた公開討論のテーマは、国家、文化、安全保障、アイデンティティ、さらには文明の対立の問題へと姿を変えることになった。
このグループは、グローバリゼーションの担い手となった自由主義者あるいは社会主義者の少数の特権階級に対する怒りを、上に向かっては、その一連の指導者やその知的なあるいはメディア界の仲間に対する恨みに、そして下に向かっては、最も弱い立場にある人々へのとめどない反感に変換した。ここで言う最も弱い立場の人とはつまり、最初の大量失業期[1970年代~1980年代]には「私たちの職を奪う」アラブ系労働者であり、2001年9月11日[アメリカ同時多発テロ事件]以降、さらにフランスで多数のテロ攻撃事件が発生(2012年~2016年)して以降は、「私たちの価値観を脅かす」イスラム教徒を意味した。
このように極右の成功には、失業、不安定な雇用、生活の混乱、そしてこれらが織りなす将来の不確実性が、それだけでは十分でないにしても不可欠な条件だった。しかし、それはまた、狡猾な政略に利用されたことの結果でもあった。
>つまり指導者層はFNでもRNでも選挙には勝てないと見込み、
>これらの異端政党に反対するキャンペーンを張ることで選挙に勝とうとしたのだ。
>しかし、このことは、自分たちもあらかじめ移民や安全保障についての重要性を与えるということを意味した。
@先の6月9日の欧州議会選挙以来、「両極端に対する戦い」というテーマがいたるところで取り上げられているが、これによって、マクロン氏が先般そう語ったとおり、
>中道政党こそが、国の永遠の統治を「偏らず、進歩的で、民主的、そして共和主義的でもある集団」に任せるために用意されたものなのだ、という古い言い回しが再び使われるようになっている。
というのも今回の解散はまた、ひとつの政治的な影絵芝居の終わりをも示しているのだ。
<その演劇論にはいくつかの前提があった。>
その前提の第一はまず、ナショナリズムの勃興——ここではFNの台頭を指す——は、たいていはグローバリゼーションとそれが引き起こす混乱や恐怖の政治的副産物だということであり、第二は、政治指導者はそれにもかかわらずグローバリゼーションを避けられないものと考え、さらには望ましいものと見 (...)
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操作された歴史に騙されるな- ブノワ・ブレヴィル(Benoît Bréville) - ル・モンド・ディプロマティーク日本語版 - 2024年11月号
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ドイツの新たな「保守的な左翼」- ピエール・ランベール(Pierre Rimbert)、ピーター・ヴァル(Peter Wahl) - ル・モンド・ディプロマティーク日本語版 - 2024年11月号
引用
「なぜザーラ・ヴァーゲンクネヒトの名前を使ったのか
ドイツの新たな「保守的な左翼」
Sahra Wagenknecht、
「2024年9月に旧東ドイツの3州で行われた地方選挙では極右政党の躍進が目立ったが、カリスマ的な指導者の名をとり1月に設立されたばかりの左翼の新党社会民主主義が新自由主義に屈したこと、そして国粋主義的な右翼の台頭に対抗するため、西欧社会の左派は20年来2つの戦略の間で躊躇し続けている。1つの戦略は、今や都市の中心部から遠く離れてしまった労働者の世界と、教養ある小市民との伝統的な連帯を再構築することである。左翼党はこのモデルに沿って、東部に残る共産主義の基盤と西側の社会運動を接合するものとして2007年に設立された。それは社会民主党(SPD)が右傾化するのに対抗するものだったが、党が社会問題や環境問題に関して先鋭化して行く道を選ぶようになるにつれ、大衆の票を失った。2009年にフランスで左翼党(PG)を創設したときジャン=リュック・メランション氏ははっきりとドイツの左翼党に倣ったものだと唱え、その共同創設者で (...)同盟(BSW)の進出も注目された。もとの左翼党(Die Linke)から分離したこの政党は、保守的な左翼とも言われ、社会・経済政策面では進歩的、文化的な立場は保守的というこれまでにない切り口を持っている。極右に対抗するとともに中小企業者をも取り込もうとする戦略は、左翼からドイツ政界に変容をもたらす可能性を秘めている。[日本語版編集部]
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左翼? どの左翼? ドイツでは2024年1月以来ある政党が、この古くからの問いかけの答えの1つになっている。「理性と正義のためのザーラ・ヴァーゲンクネヒト同盟」(BSW)だ。左翼党(Die Linke)の元指導者の1人が最後に分離独立することで、ここ数年来この党を消耗させてきた路線闘争に決着をつけたのだ。新しい党は左翼党から10人ばかりの議員を引き抜き話題を振りまいた。かつての共産主義の闘士、優れた知識人、出身地の旧東ドイツで非常に人気がある、そんなヴァーゲンクネヒト氏が自分の抱いていた理念についに実体を与えたのだ。「保守的な左翼」、それは緑の党の進歩的で都会的、高学歴者からなる有権者とは真っ向から対立するもののようだ。社会政策に関しては左翼、社会・移民問題に関しては保守的、EUの中では一種の主権主義を支持し、NATO(北大西洋条約機構)に対し、またドイツの新たな好戦主義に対しても批判的な目を向け、表現の自由に関しては一切妥協しない。こんな計画を掲げる「真の大衆政党」に彼女は、「大半の国民に語りかける」ことができ、グローバリゼーションの敗者となった人々を極右から引き離す力のあるものになる、という期待をかけている。
バリゼーションの敗者となった人々を極右から引き離す力のあるものになる、という期待をかけている。
立ち上げてすぐ、BSWという党の略号がまだ多くの有権者には得体の知れぬものと受け止められていた中、6月に行われた欧州議会選挙でこの党は得票率6.2%(250万票)を挙げて6議席を獲得し、自由民主党(FDP、5.2%)に水をあけ左翼党(2.7%)を圧倒した。旧東ドイツ地域では12%~16%の得票率を挙げてドイツのための選択肢(AfD)とキリスト教民主同盟(CDU)に次ぐ3位に付けた。選挙後の調査では、BSWの得票の過半は左派——社会民主党(SPD)(58万票)、左翼党(47万票)——、緑の党(15万票)、それに前回棄権した者(14万票)から転じてきたものだったが、5分の1は右派——CDU(26万票)、FDP(23万票)——から移ってきたものであり、16万票はAfDを離れてきたものだった。
このことから3つの点を指摘できる。まず、有権者の過半はBSWを左派と見ているということ。そして、極右から票を奪うという賭けに負けなかったということ——ただし勝ったというほどではない。
もう1つ、右派および中道から票が流入してきたことは、ヴァーゲンクネヒト氏のアプローチ、すなわち都市の進歩的な人たちではなく、中小企業者からなる中産階級を庶民階級と結び付けた社会グループを作る、という狙いの成功を示していると見られることだ。
社会民主主義が新自由主義に屈したこと、そして国粋主義的な右翼の台頭に対抗するため、
西欧社会の左派は20年来2つの戦略の間で躊躇し続けている。
1つの戦略は、今や都市の中心部から遠く離れてしまった労働者の世界と、教養ある小市民との伝統的な連帯を再構築することである。左翼党はこのモデルに沿って、東部に残る共産主義の基盤と西側の社会運動を接合するものとして2007年に設立された。それは社会民主党(SPD)が右傾化するのに対抗するものだったが、党が社会問題や環境問題に関して先鋭化して行く道を選ぶようになるにつれ、大衆の票を失った。2009年にフランスで左翼党(PG)を創設したときジャン=リュック・メランション氏ははっきりとドイツの左翼党に倣ったものだと唱え、その共同創設者で (...)
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反俗日記短評。
>東独の青春時代のベルリンの壁崩壊、以降もずっと持ち続けてきた資本制リベラリズムへの根本的な懐疑、批判はメルケルの移民大量受け入れ政策と東独地盤の<ドイツの選択>の勢力拡大と自身の所属する左翼党の衰退を招き、その後のドイツ社民、みどりの政権のウクライナ戦争支援に対して、遂に2024年に自身の政党ドイツの新たな「保守的な左翼ザーラ・ヴァーゲンクネヒト同盟」結成に至る-
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「1969年7月16日生まれ)は、ドイツの政治家、経済学者、作家、広報担当者である。[ 1 ] 2009年以来、ドイツ連邦議会議員を務め、2023年まで左派を代表していた。2015年から2019年まで、同党の共同議長を務めた。2023年10月23日に少数の仲間とともに離党し、2024年に自身の政党「ドイツの新たなサラ、ヴァーゲンクネヒト連邦」を設立し、以降の選挙に挑むことを発表した」
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ヴァーゲンクネヒトは1990年代初頭から民主社会主義党(PDS)の著名なメンバーとなった。
W注①の設立後、
彼女は共産主義プラットフォームのリーダーとして党内で最も左派の派閥の一つの主要メンバーとなった。彼女は、強硬でポピュリスト的な立場、東ドイツ、移民と難民(伝統的な反人種差別主義から離れた)に関する発言、そして彼女の政治運動であるアウフシュテヘンW注②のために、キャリアを通じて物議を醸す人物であった。2020年以降、ヴァーゲンクネヒトは議会であまり活動しなかったが、ドイツのメディアのインタビューを頻繁に受けた。彼女はいかなる議会委員会のメンバーでもない。
彼女は、左翼党内の対立が拡大し、長引いていたため、2021年以来、自身の政党結成を公然と検討しており、2023年9月末には、 BSW( Bündnis Sahra Wagenknecht )としてよく知られるザフラ・ヴァーゲンクネヒト同盟政党を2024年の初めに結成した。
若いころ
ワーゲンクネヒトは1969年7月16日、東ドイツのイエナ市で生まれた。父親はイラン人で、西ベルリンに留学した。 母親は国営美術品販売会社で働いていたドイツ人である。父親は彼女が幼少の頃イランで行方不明になった。1976年に母親と共に東ベルリンに移住するまで、彼女は主に祖父母に育てられた。ベルリンにいる間、彼女は自由ドイツ青年団(FDJ)のメンバーになった。彼女は1988年にアビトゥア試験を修了し、 1989年初めに(当時の与党)社会主義統一党(SED)に入党した。
1990年から、ヴァーゲンクネヒトはイエナとベルリンで学部生として哲学と新ドイツ文学を学び、必修科目を修了したが、「東ベルリン・フンボルト大学では研究目的の支援が得られなかった」ため論文を執筆しなかった。その後、フローニンゲン大学で哲学を専攻し、1996年にハンス・ハインツ・ホルツの指導の下、若きカール・マルクスのヘーゲル解釈に関する論文で修士号を取得し、1997年に書籍として出版された。 2005年から2012年まで、ケムニッツ工科大学で「選択の限界:先進国における貯蓄決定と基本的ニーズ」というミクロ経済学の博士論文を完成し、ドイツのシステムで優秀な成績を収め、その後キャンパス出版から出版された。
政治経歴
ベルリンの壁が崩壊し、SEDが民主社会主義党(PDS)に転換した後、ヴァーゲンクネヒトは1991年に新党の全国委員会に選出された。彼女はまた、マルクス・レーニン主義派閥であるPDSの共産主義プラットフォームにも参加した。
1998年のドイツ連邦選挙では、ヴァーゲンクネヒトはドルトムント地区のPDS候補として出馬し、3.25%の票を獲得した。2004年の欧州選挙の後、彼女は欧州議会のPDS代表に選出された。議会での彼女の任務には、経済通貨委員会と代表団、および欧州ラテンアメリカ議会議会での活動が含まれていた。
PDSとWASGが合併して左翼党(Die Linke)が結成された後、ヴァーゲンクネヒトは党副議長の地位に立候補することを検討した。しかし、ローター・ビスキーやグレゴール・ギージなどの党幹部は、主に彼女が旧ドイツ民主共和国(GDRまたは東ドイツ)に同情的であるとみなされたため、この考えに反対した。この論争の後、彼女は副議長に立候補しないと発表した。ヴァーゲンクネヒトは2009年の連邦選挙でノルトライン=ヴェストファーレン州の議席を獲得した。彼女は連邦議会で左翼党の経済政策担当スポークスマンになった。2010年5月15日、彼女はついに75.3%の票を獲得して左翼党の副議長に選出された。
2012年初頭、ドイツのマスコミは、ヴァーゲンクネヒトが連邦憲法擁護庁によって著作や演説の収集・分析が行われている左翼党の連邦議会議員27人のうちの1人であると報じた。
彼女は2018年に設立された左派政治運動であるアウフシュテヘンW注2参照⇒W。注目すべきところは、「最近ドイツ政治で台頭してきた新しい右翼運動に投票者を失った問題に焦点を当てることも含まれていた。」。問題意識は1817年選挙の頃よりあった。旧来の地盤である旧東ドイツ地域では移民排斥を訴えるドイツのための選択肢に大幅に票が流れた。
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の形成における主要な原動力の1人であり、この運動は伝統的な政党構造の外側に存在し、フランスの運動である不服従のフランスと比較されている。
2019年3月、ワーゲンクネヒトは、個人的な仕事量のプレッシャーを理由に、アウフシュテヘンでの指導的役割からの撤退を発表し、政治的経験が必要であった成功した立ち上げ段階の後、運動自身の草の根が主導権を握る時が来たと主張した。
>彼女は、運動の中心にある政党の関与が運動を「壁で囲んでしまった」と不満を述べた。それでも彼女は、運動を代表して公の場に姿を現し続けるだろう。
ヴァーゲンクネヒトは2015年に、長年のリーダーであるグレゴール・ギージの後任として、ディートマール・バルチュとともに左派の連邦議会グループの共同リーダーに選出された。ヴァーゲンクネヒトは投票数の78.4%を獲得した。当時、左派は連邦議会で最大の野党であったため、彼女は残りの議会任期中、野党の著名なリーダーとなった。バルチュとヴァーゲンクネヒトは、2017年の連邦選挙における左派の主要候補者であった。
クリスティアン・シュナイダーによる伝記『ザーラ・ヴァーゲンクネヒト。Die Biografie』は2019年に出版され、家族の背景やヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテへの関心など、ヴァーゲンクネヒトという人物に焦点を当てている。
2019年11月、彼女は燃え尽き症候群を理由に国会議員の辞任を発表した。
>2017年から2019年までの彼女の活動は、辞任に至るまで、2020年のドキュメンタリー映画『ワーゲンクネヒト』で取り上げられており、監督はサンドラ・カウデルカ。
ヴァーゲンクネヒトは2021年の連邦選挙で再び党のノルトライン=ヴェストファーレン州の代表候補に指名された。彼女は再選されたが、選挙結果は党にとって「苦い敗北」だったと述べた。
左翼党からの離脱
左翼党内の対立が激化していたため、ワーゲンクネヒトは独自の政党を結成することを検討した。2021年以来、彼女の派閥と社会主義左翼やカール・リープクネヒト派など左翼党内の同志グループが分裂して別の政党を結成するのではないかとの憶測が流れていた。政策的には、新党は左翼民族主義戦略をとると予想されていた。
2023年9月末、ヴァーゲンクネヒトの仲間の人々は「BSW – For Reason and Justice e. V.」という協会を設立した。ニュース雑誌「デア・シュピーゲル」によると、クラブ名の略称は「Bündnis Sahra Wagenknecht」(「Sahra Wagenknecht Alliance」)の略称だという。この協会は将来の政党の前身となることを目指している。⇒W。日本語訳のザーラ・ヴァーゲンクネヒト同盟よりも連携、連合
10月中旬、50人以上の左翼党員がヴァーゲンクネヒトの党からの除名を申請した。申請者は、ザーラ・ヴァーゲンクネヒトが左翼党の資金で新党を結成するのを阻止したいと述べた。「これはもう受け入れられない」とブレーメン議会の左翼党党首ソフィア・レオニダキスは述べた。新党結成とそれに伴う左翼党の解散に関する憶測が続いているため、バイエルン州とヘッセン州の選挙運動にも負担がかかった。左翼党は両州議会への進出を果たせなかった。
2024年1月に彼女の新しい政党が正式に発足した。
政治的立場
<経済政策>
ヴァーゲンクネヒトは、左翼党は急進的で反資本主義的な目標を追求し、より穏健な社会民主党(SPD)や緑の党とは一線を画さなければならないと主張している。彼女は左翼党の連立政権への参加、特に社会支出の削減や一部のサービスの民営化を行ったベルリン州政府を批判している。
2014年2月14日、ドイツのビジネス経済紙ハンデルスブラットは彼女を週末版の表紙に起用し、「左翼のほうが経済を理解しているか?」(Sind die Linken die besseren Wirtschaftsversteher?)という疑問を投げかけた。この曖昧な見出しでは、この疑問が左翼全般を指しているのか、それとも特にワーゲンクネヒトの政党「左翼」を指しているのかわからない。同紙は以前、彼女に自由主義と社会主義についての考えをインタビューしていた。
2023年10月のBSW発足に先立ち、ターゲスシャウTV番組は、ヴァーゲンクネヒトの現代的な立場は「経済的理性」を強調し、社会福祉よりも経済の基礎を優先していると指摘し、彼女の立場を保守的なキリスト教民主・社会同盟(CDU)や自由民主党(FDP)の立場と比較した。彼女はインタビューで、インフレとの戦い、中小企業と国内技術開発の促進、幅広いパートナーとの安定した貿易の確立を目標としていると述べた。彼女は以前、さまざまな産業の管理機関の設立を目指しているという非難を否定し、インスピレーションとして経済学者マリアナ・マッツカートW注③のアイデア W注③を挙げた。
>マッツカートは、ヴァーゲンクネヒトが頻繁に批判している経済大臣ロバート・ハーベックの情報源でもあると考えられている。
2017年、ヴァーゲンクネヒトはNATOの解体とドイツとロシアを結ぶ新たな安全保障協定を求めた。ヴァーゲンクネヒトはキャリアを通じてロシアとのより緊密な関係を支持してきた。1992年にはスターリン主義ロシアを称賛するエッセイを発表したが、2017年にはもはやその見解を支持していないと述べた。
ヴァーゲンクネヒトは、ウゴ・チャベスのようなラテンアメリカの左派指導者の台頭や、 2015年のギリシャ選挙でのSYRIZAの勝利を強く支持している。彼女はベネズエラ連帯ネットワークAvanzaのスポークスマンを務めており、メルコスールとの関係を担当する欧州議会代表団の代理を務めた。
2010年、彼女はイスラエルの元首相でノーベル賞受賞者の シモン・ペレスがホロコースト記念日にドイツ連邦議会で演説した際、スタンディングオベーションに参加することを拒否した。
ロシアのウクライナ侵攻
ロシアによるウクライナ侵攻以前、ヴァーゲンクネヒトはロシアとそのウラジーミル・プーチン大統領の著名な擁護者であり、米国はウクライナ侵攻を「でっち上げ」ようとしているが、「ロシアは実際にはウクライナに進軍する気はない」と主張していた。
[ロシアが2022年2月24日にウクライナへの大規模な侵攻を開始した後、ヴァーゲンクネヒトは自分の判断が間違っていたと述べた。
ヴァーゲンクネヒトは2022年のロシアのウクライナ侵攻に対するロシアへの制裁に反対し、2022年9月の演説では、ドイツ政府が「我が国の最も重要なエネルギー供給国に対して前例のない経済戦争を開始した」と非難した。戦前、ドイツのガスの半分以上はロシアから供給されていた。5月、左派はロシアに対する経済制裁に賛成票を投じていた。彼女の演説は左派党指導部と極右政党「ドイツのための選択肢」から賞賛された。彼女の演説は2人の著名な党員の辞任を招いた。
2023年2月10日、ヴァーゲンクネヒトとアリス・シュヴァルツァー(W.ドイツのフェミニスト雑誌EMMAの創刊者であり発行人W注④ヒジャブを抑圧の象徴とみなしている。彼女はヨーロッパの徐々に進むイスラム化について警告しており、それは人権、特に女性の権利の侵害につながる)。
はChange.orgでManifest für Frieden(平和のための宣言)の署名を集め始めた。この宣言はロシアとの交渉とウクライナへの武器供与の停止を求めた。月末までに70万の署名が集まった。
2月25日にヴァーゲンクネヒトとシュヴァルツァーが行った平和のための集会には極右団体も参加し 、クヴェルフロントに訴えたと言われている。
⇒W ;直訳すると「交差戦線」)は、ワイマール共和国の政治に由来するドイツ語であり、極右と極左、または国家主義と社会主義のイデオロギー間の協力、およびそれらの立場の組み合わせ
難民政策
2015年のケルンでの性的暴行事件を受けて、ヴァーゲンクネヒトは「接待を受ける権利を乱用する者は、接待を受ける権利を失った」と述べた。この発言は、彼女の党や議会グループの同僚からほぼ全員一致で批判されたが、AfDの一部からは賞賛された。
2016年5月28日、反ファシスト団体「人類の敵のためのケーキ」の活動家が、難民の数を制限するよう求めたワーゲンクネヒトに応えて、マクデブルクの左翼党の集会でチョコレートケーキをワーゲンクネヒトの顔に押し付けた。
>ワーゲンクネヒトはアンゲラ・メルケルの難民政策を批判し、彼女の政府は地方自治体や労働市場への圧力が高まり、社会の緊張が悪化するのを避けるために必要なレベルの財政的およびインフラ的支援を提供していないと主張した。
彼女はまた、 2016年のベルリンのトラック攻撃の原因の一部はメルケルの政策にあると主張した。
こうした経験に応えて、彼女は2021年に『独善的』という本を出版した。
その中で彼女は、いわゆる「左派リベラル」(「Linksliberale」)が左派でもリベラルでもなく、むしろ支配階級を支持し、ある程度は自らの利益を支持していると批判している。この本では、他のいくつかのトピックの中でも、移民が国内の労働者階級に与えるとされる悪影響についての議論が取り上げられている。⇒W注⑤主張を断片的に紹介したX。
この本は、デア・シュピーゲルが発表したドイツのノンフィクションベストセラーリストで1位を獲得した。
家族政策
2015年6月初旬、ヴァーゲンクネヒトは文化界や政界の他の著名人150名とともに、同性間のシビルパートナーシップが異性間の結婚と同等の扱いを受けるよう求める公開書簡に首相に署名した。2017年、ヴァーゲンクネヒトは同性結婚の合法化を主張した。
ヴァーゲンクネヒト氏は、 COVID-19パンデミックに関して、高齢者や脆弱なグループだけがワクチン接種を受ける必要があるとの意見を述べ、COVID-19パンデミックに対するドイツ政府の対応に抗議した。ヴァーゲンクネヒト氏は、 COVID-19ワクチン接種義務化の提案には反対し、それは個人の選択であるべきだと主張している。
ヴァーゲンクネヒトの立場は極右政党「ドイツのための選択肢」の立場と比較されてきた。2021年11月、マクシミリアン・ベッカーW注6
、マルティナ・レンナー、ニーマ・モヴァサットなどの党員はヴァーゲンクネヒトに離党を勧めた。
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W注①
「2014年9月、テューリンゲン州議会議員選挙で第2党となり、同年12月、ドイツ再統一後、同国の州首相として左翼党から初めてボド・ラメロウが選出された。」
「2017年連邦議会選挙では反戦や台頭する排外主義への反対を訴え議席を69議席に増加させ党勢を回復させた。得票数は旧西ドイツ地域で躍進する一方旧来の地盤である旧東ドイツ地域では移民排斥を訴えるドイツのための選択肢に大幅に票が流れた。」
「党勢の退潮は2022年に入っても続いており、党の創立者オスカー・ラフォンテーヌの地元で行われたザールラント州議会の選挙では、得票率2.6%しか獲得できず全議席を失っている。
2022年ロシアのウクライナ侵攻をめぐり、党内の多数派がウクライナ支持の姿勢を明確にしたのに対し、ザーラ・ヴァーゲンクネヒトら数名が対ロシア制裁に反対を表明し、彼女ら10名の連邦議会議員が、2024年1月8日をもって左翼党から離党し、新たな政党としてザーラ・ヴァーゲンクネヒト同盟を設立した。
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W注②
アウフシュテヘン(ドイツ語:立ち上がれ)は、2018年に政治家のザフラ・ヴァーゲンクネヒトによって設立された左翼集団運動である。共同設立者と参加者には、ドイツの左派政党の主要メンバーや科学・芸術界の支持者が含まれていた。彼らの目的は、ドイツの政党に圧力をかけ、政治と社会の左傾化をもたらすことだった。これには、最近ドイツ政治で台頭してきた新しい右翼運動に投票者を失った問題に焦点を当てることも含まれていた。この運動のインスピレーションには、ジャン=リュック・メランションの運動である不服従のフランスや、イギリス労働党党首ジェレミー・コービンを支援するために設立された組織であるモメンタムなどがあった。
2019年3月にワーゲンクネヒトが運動の指導者から撤退し、その後他の著名な人物も何人か離反したため、この運動は目立たなくなった。
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W注③
「国家が創造できる価値をよりよく捉える概念を主張した。これにより、彼女は経済における国家の役割を、特に主要な社会的課題に対処する「ミッション指向」の方法で新しい市場を創造し形成することであると提案するに至った。」
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W注④
彼女は政治的イスラム主義とイスラム教における女性の立場に非常に批判的であり、公立学校やその他の公共の場で女性がヒジャブを着用することを禁止することを支持している。彼女はヒジャブを抑圧の象徴とみなしている。彼女はヨーロッパの徐々に進むイスラム化について警告しており、それは人権、特に女性の権利の侵害につながると考えている。
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⇒W注⑤主張を断片的に紹介したX。
「“しかしザーラ・ヴァーゲンクネヒト氏は、逆に、これ(=学歴のある階層を引き付けること)と距離を置こうとしている。2021年に出版されベスト・セラーとなった彼女の著作では「左派の自由主義」が「大都市に住む裕福な大学出の中産階級を社会的な基盤とする」ことを辛辣な批評の的にしている。すなわち道徳家でありうぬぼれが強く、同時に流行の文化的・言語的な符牒を理解せずグローバリゼーションの敗者となった者への軽蔑に満ちたこの「ライフスタイルとしての左派」は、親ヨーロッパで世界に目を開いているが個別性を称揚し「共通の価値観」を見下す。
(中略)大衆政党であるBSWが手を組もうとしているのは中産階級のもう1つの軸だ。それは、技術者、エンジニア、職人、それにミッテルシュタント(中流の社会階層を指すと同時に、ハイテクの工作機械やロボットをドイツの産業システムに供給する家族経営の企業群)の独立事業者などからなるものだ。ヴァーゲンクネヒト氏はグローバリゼーションの犠牲となった庶民階級と、投機家に首を絞められている中産階級に属する中小企業者の間に類似性を見出した。
W注6
ザフラ・ヴァーゲンクネヒトは、2021年に「ワクチン接種者のパンデミック」について何度も発言した。多くの党員の観点から見ると、彼女は極右のAfDの立場を引き継いだ。[ 3 ] 2021年11月、ベッカーはヴァーゲンクネヒトに左派を離れてAfDに参加するよう提案し、Twitterに次のように投稿した。「そうですね、AfDとまったく同じ立場を代表している人は、党に参加して左派に背を向けるべきだと思います。それで十分です!
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この国が縮む前に:「移民のせい」欧州に不満と反発 寛容姿勢が“選別”の流れに | 毎日新聞
「日本政府が、人手不足の産業で外国人労働者を受け入れる在留資格「特定技能」の拡大を閣議決定した。今後、外国人労働者はさらに身近な存在となる。一方、これまで比較的寛容な移民政策をとってきた西欧諸国では近年、移民排斥の動きが目立つ。象徴的なのがオランダだ。「多文化主義」を掲げて多くの移民を受け入れてきた国だが、昨年11月の総選挙で反移民を掲げるウィルダース党首の極右「自由党」が第1党となった。」
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「大量難民を受入れた法治国家ドイツの苦悩」ベルリン在住/福澤 啓臣 | 特集/日本を問う沖縄の民意
反俗日記⇒EU中央は拡大EUによって東欧諸国などの大量移民流入と資本流出による労働階層の労働賃金低下と雇用不安が発生している。イギリスのEU離脱の原因の一つに大量のポーランド移民流入があるといわれている。
そこにドイツに典型的な難民流入問題が発生し
さらに追い打ちをかけるようにウクライナ、ロシア戦争の難民受け入れと戦争支援が重なっている。
右翼政党は政治標的を解りやすくするために、
EU原則に基づく域内や南からの大量移民と政治紛争地域の中東などからの難民大量流入を一括りにしてイスラム圏の難民としてクローズアップし有権者に政治選択を迫っている。
>こういうカネ、貧困、宗教、人種、文化習俗の違い、など即物的に可視化できる現象にたいして資本制民主主義の啓蒙や理念がどこまで有効性を持つことができるのか?
>それが難しいから、以前は議会圏外の政治存在であった政治勢力が伸長する。
代議制民主制の弱点は投票のときの一時、一過性の選択で政治権力を握るものが決定されることである。
それを避けるため権力機構の一部になったマスコミがただの右翼を極右に、ただの左翼を極左に仕立て上げ、議会圏内資格を与えるかのようにけん制し政治共同幻想としてそれ自身揺れ動くいい加減な座標軸にすぎないグローバル資本制の上部構造である中道政治枠内に誘引している。このマスコミの伝導発信力に沿って、旧来、議会圏外あった有望政治勢力は早く政治権力に近づきたいがためにマスコミが作った政治幻想である中道穏健政治の枠に自分を合わせようとする。
ということで、その時代のグローバル資本制の動向が即反映するその政治的上部構造である可変的な中道政治座標軸の在り方が云うところの極右やトランプ、リベラリストなどの輩を政治権力に据えることもある。
@したがって一番大事なのはグローバル資本を政治権力の統制可能範囲にすることだ。
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1.大国の犠牲者としての難民
難民の生まれた経緯
これらの紛争と内戦に最も関与しているのは、米国である。本来ならこれらの難民に対して米国が責任を取るべきだ。
ドイツからの中近東軍隊派遣
(ドイツ空軍は1999年にすでにセルビア紛争でNATO軍として空爆を行っている)。その後はアフガニスタン軍の支援と強化のために、2014年以来国際軍事支援団の一員として、1,300人(NATO全体としては15,000人)の部隊を派遣している。
EUとドイツの法的枠組み
難民自身もギリシャにとどまる意思はなかった。ドイツが主な目的地だったからだ。途中の国々も国境で全くコントロールしないで、通過させた。EUの加盟国(英国を除く)はシェンゲン協定(1995年)を結んでいるので、フリーパスで国境を越えることができる。だから、ある意味で合法的にドイツまで来られたわけだ。ドイツの国境にたどり着いた彼らは、そこで初めて登録をした。
ドイツで亡命及び難民申請をし、受理された外国人は、ドイツの基本法(第16条A項)とジュネーブ難民条約によって基本的人権が認められ、保護が受けられる。まず3年間の滞在許可と就労ビザがおりる。そして3年後に無期限の滞在許可が貰える。
現在30万人が仕事を見つけて、働いている。さらに187,000人が長期失業手当(失業保険期間を過ぎても雇用がみつからない場合は、ドイツではこの長期失業手当が無期限に受けられる)を特例的に初めから受給している。
現在ドイツの経済は順調だが、職種によっては労働力不足に悩まされている。その不足を埋めるために難民に期待が寄せられている。申請が受理された難民は即雇用ができる。暫定的保護を受けて、職業訓練(主に3年間)を終了した難民も雇用できればいいが、この「車線変更」と呼ばれるビザの切替はできない
表1:ドイツの難民登録者と申請者(申し込み)の数
2014 | 2015 | 2016 | 2017 | 合計 | |
当録者 | 238,676 | 1,091,894 | 321,361 | 186,644 | 1,838,575 |
申請者 | 202,834 | 476,749 | 745,545 | 222,683 | 1,647,811 |