デモクラシーという作法
⇒偉そうにデモクラシーという作法」とは!著者は東欧体制崩壊後の住民のボランティア的地域活動参加を手放しでデモクラシーという作法の研究の基準としているようだが、そのような必要がなくても回っていく社会や経済、政治がますます様態を変え継続していくグローバル資本制下では良い社会であると考えるに至っている。乱暴に言えば庶民が政治の心配を余りしなくても良い社会である(あくまでも程度の問題なのだが)。眼下の日本社会はその真逆である。止めることもできない不治の事態である。最近、はまっているエントロピー増大の法則を適応すると、日本内外のエントロピー増大を日本の政治が何とかしようとするときに、必然的に<狭い水路>にはまって身動きが取れないようになってそのまま流されていく。その状態が結果するのは階層格差の急速な拡大と周辺事態の悪化だ。日米支配層は軍事衝突込みで自らの階層利益を培養していく戦略を深化してく。国際ブルジョアジーは共通利害のも連携性を強め、他方、多数の民衆は国家的な対立のインクルードされていく。
>この状況を帝国主義の対立として認識しそのつもりで行動していく必要がある。
デモクラシーという作法
の当該箇所を引用する。
「序 革命のあと
~居住地によって生活格差があるのは当たり前であるが、体制転換後は都市、村落に関係なく進み、スロバキアがEUに加盟すれば、スロバキアの村落もEUに加盟することになった。当該村落の人々の言説の上では疎外されていた村落ではあるが、体制転換後
20年以上時間が止まったままでいられるわけがない。
とくに2000年代以降、村落と地方都市の活性化はスロバキアでも大きな問題として認識されるようになり人々はその活動主体になることを求められるようになった。(W。広域市場ができ拡大深化すればヒトモノカネはカネもうけや活動条件の良い地域、都市、国に集中し他所は空洞化新同時に周辺縁辺の強力に拡大再生産される⇒ウクライナ、ロシア戦争を引き起こした機動力はコレだ。NATO拡大が軍事上部構造に過ぎない)国家的規制型フリーになった金融寡頭制資本の論理が貫徹し人々はほんろうされている。)
このような変化の中で「神に見放された」と表象される村落に人々がどのように自分の価値観を変容させてきたかが本書の主たるテーマであり
周縁における民主義の在り方と市民社会の存在可能性を明らかにすることが本書の目的である。
「意志を持ち社会に活発に関わろうとする」アソシエーションは市民社会の重要な構成要素と考えられており、
⇒W.これは一つの思想を持たなければ難しいことだ!その確認なく上記の認識を持ち他者に要求することは個別は善意であっても社会全体を統合すると幸せな社会では無くなる、窮屈な社会の出現だ。スロバキアではEUを窮屈に思っている人が増えているとおもう。広域市場とは国家の規制を少なくして資本の国境を越えた拡大再生産の自由を与えることだ。多くに住民特に弱者は翻弄されたままいっしょうをおくることになる。
↓
スロバキアは2004年にEUに加盟し西側の「ヨーロッパ諸国との連携はますます強いものになった。
EU加盟と共に域内の労働y市場への参入も段階的に可能にな、2008年シェンゲン協定の主なポイント国境管理の撤廃
共通のビザ政策
主な問題点
不法移民・難民問題:
015年の難民危機で、加盟国の受け入れ能力が限界に達し、協定の維持が困難になった。
「移動の自由」の理念と、移民・難民の流入対策との間で対立が生じている。
⇒日本のヨーロッパ移民問題の扱いはEUの後期労働市場と資本の移動の自由から発生する根本問題をすっ飛ばし日本人的偏狭な排外主義に落ちいっている。米国はもともと移民の国でありソレが資本主義発展の一方の原動力であったが、直接雇用に結びつかず、むしろ労働力削減に寄与するIT金融資本主義化が徹底しすぎて受け入れの余地がなくなっている。
⇒域内の労働力商品の移動は不可避、集中、過疎産業空洞化が生まれる。ヨーロッパの移民問題の根幹は広域労働市場の問題であり、<みなみ>からの移民をクローズアップするのはヨーロッパ人の排外主義、差別意識によるものだ。資本主義の原理(本国、中心地域における資本の利潤率の傾向的低下の法則~資本論3篇の結論~これに金融寡頭制の発展による世界市場の今日的再分割戦の激増情勢が加わる~~を無視した理念が移民対策の邪魔をしている。
社会主義時代に作られた西欧と東欧の境界はここで焼失したかに見える。しかしEU加盟の恩恵を得ることができた人々とそうでない人々の差が可視化され始めるなかで、社会の一部に閉そく感が漂う状況が存在し続けた。
2015年の難民危機で、加盟国の受け入れ能力が限界に達し、協定の維持が困難になった。
「移動の自由」の理念と、移民・難民の流入対策との間で対立が生じている
⇒反俗日記の過去記事ではデモクラシーを語源まで遡って批判的に問題設定してきた。
デーモスDemos⇒デーモスを欧米民主政を絶対基準として民衆と翻訳しているケースがほとんどだが実態は違う。アテナイは軍事民主政でありでありデーモスの構成員は縦列歩兵集団(ファランクス)の兵士でもあった。後にアテナイ艦艇の漕ぎ手の仮想市民層が加わった。アテナイの奴隷制や女性の地位の引きさを後代の我々が批判の俎上に挙げるに解説が当たり前のようにまかり通っているが<ない物ねだり>の幼稚な言説である。他方、この機会にその分野を連続的に取り上げた過去記事を改めて読んだときに、アテナイ民主政への評価がかなり変わっている、と確認した。今は、リベラリズムの限界を徹底的に知った。そのためイデオロギーとして流布されがちな民主主義に批判的な視座を持つに至った。もともとがそのような立場であったものが自分の思想的な自堕落からリベラリズムに傾斜しがちになった。情緒的になっていたのだ。グローバル資本制の現段階においては、
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~スロバキア村落における、体制転換後の民族史~神原ゆうこ著
⇒反俗日記注釈。日本列島住民の孤立固有的な歴史は世界でも特殊。しかも丸山真男によれば、東アジアやアジアは各文化圏、領域「国家」間の繋がりが薄く、各々固有性が強い。
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コラム1 社会主義時代までのスロバキア略史
中欧の多くの国にとって、
>自国の領域や国境線が変化することは当たり前だった。そのためこの地域の各国史においても、時代によって「自国」の領域が変化することは当然ととらえられている。注①~
>ではスロバキアのように1993に独立した新しい国の場合どうするのか?注②
@スロバキアの歴史教科書は、
現在のスロバキアの領域で過去に起きたことをスロバキアの歴史と記述している。注③
@したがってスロバキアの歴史は、<ハンガリー史とも>⇒<チェコスロバキア史>とも重なりを持ち、スロバキアの人々とはそれを当然のように理解している。注④
******************
>現在のスロバキアの領域は10世紀頃からハンガリー王国の支配下にに入り、その後900年近くハンガリー系の人々による支配を受けてきた。
>隣国チェコが神聖ローマ帝国やオーストリア帝国のいちぶであったとしても、
一つの領邦国家としてある程度の自治を保っていたことと対照的に、
@スロバキアは。
>ハンガリー王国が後にオーストリア帝国の統治下にはいっても、
>19世紀にオーストリア、ハンガリー帝国になっても、
@ハンガリー系の人々の政治支配下にあったままだった。⇒注⑤
@16世紀から17世紀にかけてオスマントルコが勢力を拡大していた時期は、
@現在のスロバキアの領域が、当時のハンガリーの中心地であり、土着のスロバキアとは異なる非スラブ系の文化を持つ人々が支配階級である時代が継続していた。
⇒注⑥ハンスカロッサ「ルーマニア戦記」反俗日記過去記事参照。
文中、ルーマニアの領域の一部にもハンガリー系の住民が多数定住していた。ハンガリー王国の支配する領域はスロバキア、ルーマニアに拡大していた。
ウィキペデア、ハンガリー王国参照。ハンガリー系の人々の祖先はモンゴロイド系だったはずだ。
******
⇒反俗日記注。日本列島住民の孤立固有的な歴史は世界でも特殊。しかも丸山真男によれば、東アジアやアジアは各文化圏、領域「国家」間の繋がりが薄く、各々固有性が強い。
台湾問題を考えるうえでもこの視座が役に立つ。
基本的に領域「国家」
***
スロバキア人という意識が人々に共有されるようになったと確実にいえるのは、それほど昔のことではない。
>18世紀末から19世紀にかけて、ハンガリーが国民国家形成を目指して、ハンガリー語の公用語化を進めたことへの対抗として、スロバキア系の知識人の間では民族文化への関心が高まった。
******
⇒W。民族意識、国家意識、国民意識は近隣のそれらとの相関関係で一部の政治的な人々の領域の住民をインクルードしようと欲する手っ取り早い手法としての政治共同体幻想の煽動によって領域の住民の間に醸成されていく。
AIによる概要
@フリードリヒ・エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』

file:///C:/Users/waxwa/Downloads/AN00234610-20210401-0051.pdf

読者コメント
「石母田は土地の私有性が無く(班田収授)、王民として存在していた人々に奴隷制を見る。」
*****
「翔亀
第1章「国家成立史における国際的契機」について。~~推古から天智にかけての政変続き(大化の改新、壬申の乱)の時期。~~
著者は、蘇我入鹿とか中大兄皇子といった個人の意図や政略からでのみ説明することの愚を戒める。確かにこの時代は、錚々たる天皇/皇族の政治抗争ばかりが語られるが、
>本書では、例えば大化の改新は、
当時の唐と朝鮮三国の東アジア国際情勢の中での
>「政争ではなく政策論争を」という現代にも通じる視点に啓発される。他にも遷都/天皇/漢文の国際的契機など論点沢山で密度が高い!
石母田さんはこう書いています。「専制的支配そのものは、その没落の原因とはならない。それが政策の破綻と結合したとき、はじめて没落は必然である」。⇒蘇我氏の政策の破綻とは、親百済、つまり百済系帰化人との密接な関係と、唐との外交の失敗だといいます。」
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「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」|保立道久の研究雑記
「以下は岡本太郎 - Wikipediaの『日本再発見ー芸術風土記』の出雲の項の一節である。
先日、石母田正に会ったら、大国主命(オオクニヌシノミコト)は土着の神ではないという新説をたて、いずれ発表して定説をくつがえすと言っていた。
歴史
律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め[6]、平安時代には二十二社の中のさらに上七社の1社[注釈 2]となった。また、神階が授与されたことのない神社の一つ[注釈 3]。
~~~
>明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。
@
明治2年3月12日(1869年4月23日)、明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝した[注釈 7]。天皇による参拝が長期にわたり空白だった理由については諸説が唱えられているが、決定的なものはない。
↓
伊勢神宮を参拝した天皇は? しなかった天皇は?:日経ビジネス電子版
- ●天皇は日本史において、祭祀(さいし)のトップであった。
- 「 「まつりごと」は政治と祭祀から成ります。天皇はこの祭祀のトップであったわけです。
- ●実は長い間、神道よりも仏教が天皇の身近にあった。
- ●神道を重んじようという動きは江戸時代の後半に始まった。
- 水戸学の形成と発展
- 前期水戸学: 徳川光圀(徳川 光圀。寛永5年6月10日〈1628年7月11日〉 - 元禄13年12月6日〈1701年1月14日〉)は、江戸時代前期の大名。常陸水戸藩の第2代藩主)が明(1368年から1644年)の儒学者
((1600年11月17日) - (1682年5月24日))を招き、『大日本史』編纂を進める中で、天皇家への忠誠心や大義名分論が培われました。
- 「朱舜水 - Wikipedia と同郷。
- 浙江省紹興府の士大夫の家系に生まれた。古都。紹興酒で有名。
- 「魯迅が書いた短編「藤野先生」のはじめに「明の遺民朱舜水が客死したところ」として、東京の日暮里から出てきた汽車で通過した水戸の地名が記録されている。」魯迅の傑作『阿Q正伝』は反俗日記の過去記事にほぼ全編掲載されている。辛亥革命から中国共産党による中国統一が行われた時代の中国農村の革命騒動を軸とする庶民の躍動がリアルに描かれている。日本文学史的にいえば農村のルンペンプロレタリアである阿Q
- が革命騒動に付和雷同し最後に銃殺されるまでをハードボイルドタッチで描いた最高レベルの<プロレタリア小説>である。国民党革命軍の村への到来では農村の御大尽と阿Qのような農村下層との力関係は何ら変わらないばかりか、最後には御大尽の財産を狙った強盗の一味にでっち上げられ銃殺刑にされる。という冷徹なオチ小説は閉じられている。
- 「「
を
吐 け。この場になってもう遅い。お前の仲間は今どこにいる」
「何でげす?」
「あの晩、趙家を襲った仲間だ」
「あの人達は、わたしを喚びに来ません。あの人達は、自分で運び出しました」阿Qはその話が出ると憤々 した。
「持ち出してどこへ行ったんだ。話せば赦 してやるよ」親爺はまたしんみりとなった。
「わたしは知りません。……あの人達はわたしを呼びに来ません」
そこで親爺は目遣 いをした。阿Qはまた丸太格子の中に抛 り込まれた。彼が二度目に同じ格子の中から引きずり出されたのは二日目の午前であった。 - 大広間の模様は皆もとの通りで、上座には、やはりくりくり坊主の親爺が坐して、阿Qは相変らず膝を突いていた。
親爺はしんみりときいた。「お前はほかに何か言うことがあるか」
阿Qはちょっと考えてみたが、別に言う事もないので「ありません」と答えた。 - 「わたし、……わたしは……字を知りません」阿Qは筆をむんずと掴んで
愧 かしそうに、恐る恐る言った。
「ではお前のやりいいように丸でも一つ書くんだね」
阿Qは丸を書こうとしたが筆を持つ手が顫えた。そこでその人は彼のために紙を地上に敷いてやり、阿Qはうつぶしになって一生懸命に丸を書いた。彼は人に笑われちゃ大変だと思って正確に丸を書こうとしたが、悪 むべき筆は重く、ガタガタ顫えて、丸の合せ目まで漕ぎつけると、ピンと外へ脱 れて瓜のような恰好になった。
阿Qは自分の不出来を愧かしく思っていると、その人は一向平気で紙と筆を持ち去り、大勢の人は阿Qを引いて、もとの丸太格子の中に抛り込んだ。 - 彼は丸太格子の中に入れられても格別大して苦にもしなかった。彼はそう思った。人間の世の中は大抵もとから時に依ると、抓み込まれたり抓み出されたりすることもある。時に依ると紙の上に丸を書かなければならぬこともある。だが丸というものがあって丸くないことは、彼の行いの一つの汚点だ。しかしそれもまもなく解ってしまった、孫子であればこそ丸い輪が本当に書けるんだ。そう思って彼は睡りに就いた。
- ~~~
- 少尉殿はまず第一に見せしめをすべしと言った。少尉殿は近頃一向挙人老爺を眼中に置かなかった。
卓 を叩き腰掛を打って彼は説いた。
「一人を槍玉に上げれば百人が注意する。ねえ君! わたしが革命党を組織してからまだ二十日 にもならないのに、掠奪事件が十何件もあってまるきり挙らない。わたしの顔がどこに立つ? 罪人が挙っても君はまだ愚図々々している。これが旨く行 かんと乃公の責任になるんだよ」 - 阿Qが三度目に丸太格子から抓み出された時には~~
- 阿Qもまたいつもの通り膝を突いて下にいた。親爺はいとも
懇 ろに尋ねた。「お前はまだほかに何か言うことがあるかね」
阿Qはちょっと考えたが別に言うこともないので、「ありません」と答えた。
長い著物を著た人と短い著物を著た人が大勢いて、たちまち彼に白金巾 の袖無しを著せた。上に字が書いてあった。阿Qははなはだ心苦しく思った。それは葬式の著物のようで、葬式の著物を著るのは縁喜 が好くないからだ。しかしそう思うまもなく彼は両手を縛られて、ずんずんお役所の外へ引きずり出された。 - 阿Qは屋根無しの車の上に
舁 ぎあげられ、短い著物の人が幾人も彼と同座して一緒にいた。
この車は立ちどころに動き始めた。前には鉄砲をかついだ兵隊と自衛団が歩いていた。両側には大勢の見物人が口を開け放して見ていた。後ろはどうなっているか、阿Qには見えなかった。しかし突然感じたのは、こいつはいけねえ、首を斬られるんじゃねえか。
彼はそう思うと心が顛倒 して二つの眼が暗くなり、耳朶の中がガーンとした。気絶をしたようでもあったが、しかし全く気を失ったわけではない。ある時は慌てたが、ある時はまたかえって落著 いた。彼は考えているうちに、人間の世の中はもともとこんなもんで、時に依ると首を斬られなければならないこともあるかもしれない、と感じたらしかった。彼はまた見覚えのある路を見た。そこで少々変に思った。なぜお仕置に行 かないのか。彼は自分が引廻しになって皆に見せしめられているのを知らなかった。しかし知らしめたも同然だった。彼はただ人間世界はもともと大抵こんなもんで、時に依ると引廻しになって皆に見せしめなければならないものであるかもしれない、と思ったかもしれない。
彼は覚醒した。これはまわり道してお仕置場にゆく路だ。これはきっとずばりと首を刎 ねられるんだ。彼はガッカリしてあたりを見ると、まるで蟻のように人が附いて来た。そうして図らずも人ごみの中に一人の呉媽を発見した。ずいぶんしばらくだった。彼女は城内で仕事をしていたのだ。彼はたちまち非常な羞恥を感じて我れながら気が滅入ってしまった。つまりあの芝居の歌を唱 う勇気がないのだ。彼の思想はさながら旋風のように、頭の中を一まわりした。「若寡婦 の墓参り」も立派な歌ではない。「竜虎図」の「後悔するには及ばぬ」も余りつまらな過ぎた。やっぱり「手に鉄鞭 を執ってキサマを打つぞ」なんだろう。そう思うと彼は手を挙げたくなったが、考えてみるとその手は縛られていたのだ。そこで「手に鉄鞭を執り」さえも唱 えなかった。
「二十年過ぎればこれもまた一つのものだ……」阿Qはゴタゴタの中で、今まで言ったことのないこの言葉を「師匠も無しに」半分ほどひり出した。 - この刹那、彼の思想はさながら旋風のように脳裏を一廻りした。
- 四年
前 に彼は一度山下で狼に出遇 った。狼は附かず離れず跟いて来て彼の肉を食 おうと思った。彼はその時全く生きている空 は無かった。幸い一つの薪割を持っていたので、ようやく元気を引起し、未荘まで持ちこたえて来た。これこそ永久に忘られぬ狼の眼だ。臆病でいながら鋭く、鬼火のようにキラめく二つの眼は、遠くの方から彼の皮肉を刺し通すようでもあった。ところが彼は今まで見た事もない恐ろしい眼付を更に発見した。鈍くもあるが鋭くもあった。すでに彼の話を咀嚼したのみならず、彼の皮肉以上の代物を噛みしめて、附かず離れずとこしえに彼の跡にくっついて来る。これ等の眼玉は一つに繋がって、もうどこかそこらで彼の霊魂に咬みついているようでもあった。
「助けてくれ」
阿Qは口に出して言わないが、その時もう二つの眼が暗くなって、耳朶の中がガアンとして、全身が木端微塵に飛び散ったように覚えた。 - 輿論の方面からいうと未荘では異議が無かった。むろん阿Qが悪いと皆言った。ぴしゃりと殺されたのは阿Qが悪い証拠だ。悪くなければ銃殺されるはずが無い! しかし城内の輿論はかえって好くなかった。彼等の大多数は不満足であった。銃殺するのは首を斬るより見ごたえがない。その上なぜあんなに意気地のない死刑犯人だったろう。あんなに長い引廻しの
中 に歌の一つも唱 わないで、せっかく跡に跟いて見たことが無駄骨になった。」
************************************* - ならば、毛沢東の次のフレーズが現実味を帯びてくる。
- 「革命は、客をごちそうに招くことでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺しゅうをしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかでおとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうち倒す激烈な行動である。」
- ⇒「帝国主義戦争を内乱に転化せよ!」レーニン「帝国主義論」のむすび。
- ******
- 朱舜水 - Wikipedia
-
- 1624年- 1662年
舜水は仕官はしていなかったものの鄭成功 - Wikipedia 親子など明朝遺臣が華南を中心に明朝再興のため活動を開始すると運動に参加し、軍資金を得るため日本やベトナムへも渡り貿易などを行い、南明政権の魯王朱以海や、台湾に拠った鄭成功を支援し、永暦13年(1659年)7月の南京攻略戦にも参加している。
-
明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われていたが、寛文5年(1665年)6月には常陸水戸藩主の徳川光圀が彰考館員の小宅処斎を派遣して舜水を招聘し、同年7月には江戸に移住する。
舜水の学問は、朱子学と陽明学の中間にあるとされ、理学・心学を好まず空論に走ることを避け、実理・実行・実用・実効を重んじた(経世致用の学にも通じる)。
光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、光圀の修史事業(後に『大日本史』と命名)の編纂に参加した安積澹泊や、木下順庵・山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。83歳で死去。
- 東アジアの視野から見た朱舜水研究
- 徐 興慶
- 二、朱舜水の研究史
- 水戸藩において朱舜水が如
何に忠臣義士の身を以て、その学問を伝えたか、徳川光圀の文治主義政治の推進にどのような影響をもたらしたのか。さらに二人は思想面において、どのように激励し合い、受容の道を開き、水戸学の形成に繋いでいったのかが研究の重点となっている。
例えば、黒板勝美氏は「水戸学派の学問の根本は、朱舜水の力を借りることろが頗る多い、その功績が顕著である」と述べるほか、高須芳次郎氏は、義公の徳川光圀の思想と学芸は、朱舜水の影響を深く受けたことに疑いがないと水戸学の源流を考察している。 - 水戸藩の学者は、儒学の教養に如何に共鳴に及んでいたかを述べている。また、松
本純郎氏は、徳川光圀の『常山文集』に收録された「祭明故徴君文恭先生文(貞享元
年、1684)」を引用し、次のように述べている。
至誠を傾けて之を仰いだ光圀が、正にその頃、国史の紀伝を一応完成し、国体の根本について徹底せる眼識を把持していたことを我々は思うべきである。即ち我が国体を根本と仰ぎつつ、然もその根本に立って舜水を師とし、謙虚に教えを受けようとした光圀の態度にこそ、水戸学の真の姿を見ることができるであろう。 - 名越時正氏によれば、青山延于らが朱舜水を記念する目的は、単に彼が明清の戦乱
を避け日本へ亡命した行為に同情するだけではなく、その時北方からロシアの勢力が日本へ侵入しようとし、南からはイギリスの船がしばしば日本の近海に現れ始め、即ち、徳川幕府は外国勢力の侵入に脅かされようとする際、亡国遺民朱舜水の忠義正気の精神を偲び、水戸学者の危機意識を喚起させることによって、もう一人の彰考館総裁の藤田幽谷(1774-1826)が唱える「尊王攘夷」の大義警世説に焦点を当てるのが本目的である。 - 朱舜水は朱子学・陽明学・古学などについて、該博な知識を持ったが、彼の中心思想を為すものは、経世実用の学
- 徳川光圀も実用、実功を主眼とする朱舜水の学問の優れた点について下記の
ように感心して述べている。
先生は真の経済の学問なり、假令曠莫無人の野にて都邑を一つ興起せんに、士農工商それぞれの者を集めざらんには事成就せまじ。然るに先生一人おはせば、恐くは不足なくして都邑成就すべし。先生は詩書禮樂より田畑の耕作、家屋の造様、酒食鹽のことまで、細密に究得せるなり - 水戸学の儒学の普及について、高須芳次郎氏は「水戸学における主要点―「敬神崇儒」の中で、「崇儒」の考は、確かに朱舜水によって鼓吹せられ、それが義公その他の学者をも動かしたであろうことは、想察するに難しくない。また経世実用の学において、支那における有力な学者の意見を採取するについても、舜水が相当に貢献したであろうことも、推想される」と述べている。
- さらに復旦大学の趙建民氏の「継往開來
写華章―朱舜水研究的回顧与前瞻」は下記のように結論付けた。
今日、日中関係の発展において、もし双方が共に「相手の立場に立って、物事を考え、誠心誠意で交流する」という態度を持てば、現実に生じた双方の矛盾、摩擦、衝突などは避けることが完全にできないものではない。並大抵のものではない努力によって築き上げた日中友好関係は、必ずや末永く健康的な方向へ発展していく。 - ***********
- 水戸黄門 - Wikipedia
- 1624年- 1662年
- 講談『水戸黄門漫遊記⇒W。TBSドラマの作者は葉村は脚本家集団のペンネームである。
- 引用
- 「幕末になって、講談師(氏名は不明)がこれらの伝記や十返舎一九作の滑稽話『東海道中膝栗毛』などを参考にして『水戸黄門漫遊記』を創作したと考えられている。
- 内容は、「天下の副将軍」こと光圀がお供の俳人を連れて諸国漫遊して世直しをするというもの.
- >明治になると、大阪の講釈師玉田玉知がお供を俳人ではなく家臣の佐々木助三郎(介三郎、助さん)と渥美格之進(格さん、または厚見角之丞など)の二人とする話に膨らませて、さらに人気の題材となっていった。
- 明治初期の黄門物の講談は東京と大阪では演じられる筋が大きく異なっていたが、助・格を従えた大阪式のものが主流になっていったという。
- >徳川幕府が衰退した幕末から維新後の明治、大正、昭和の第二次世界大戦前にかけて、江戸時代と比べ徳川氏への評価が著しく低下したにもかかわらず、黄門物がもてはやされた。この背景には、実在の光圀が天皇を敬ったり楠木正成を忠臣として称えたりして、『大日本史』編纂や水戸学が尊王論や天皇制・南朝正閏論に多大な影響を及ぼしていることと関連していると考えられる。
- >幕末から戦前の黄門物の講談・小説などでは、湊川神社へ楠木正成の墓参に行くなどの尊王論的色彩が強かった。
- >大戦後の映画やテレビドラマではそのような尊王色は払拭されていった。⇒帝国主義戦争における米軍事力によって半封建的な残滓のある天皇制政治機構と寄生地主制度が解体され、ブルブルジョア天皇制、ブルジョア資本制に入れ替えられた。水戸黄門の尊王性は全く場違いなものになった。
- ⇒W。庶民に扮装し世事にも通じた黄門一行の秘匿された①幕藩体制の中央集権絶対権威、しかも②小戦闘にも必ず勝利する超人的武術の二重の強制力の前に悪は最初から敗北必至だった。お茶の間の視聴者はこの安心感によって悪人たちの跳梁跋扈ぶりをじっくり正視し結末の最後の暴力の鉄槌と権威への平伏のお決まりのシーンを迎えられた。しかしこの勧善懲悪物語の本当の主役はアコギの限りを尽くす悪人たちとその犠牲者の喘ぎの在り様であり、黄門一行は庶民に降臨した徳川中央集権封建制の抽象的存在に過ぎない。⇒同じ最高位の庶民レベルへの降臨スタイルでも釣りバカ日誌のスーさんは社長職のリアルな内面が必ず描かれている。
- 言い換えると敗戦後占領政策の戦後世界体制を契機とし中国大陸侵略を最大限の射程に入れた安保体制=(軍事政治経済の実体)その法的表現が(安保法制)の日本の内外に及ぶ政治軍事機構は上から国家暴力装置と庶民レベルの超人的政治力という二重の強制力を駆使しないと変換できない、ということだ。
- >さら戦前の講談水戸黄門からTV版水戸黄門に引き継がれた絶対法則があり魅了される側に気づかないことがある。世の中の不正は庶民自身が行動して是正するのではなく統治機構の強制力によって裁いてもらうという受動姿勢の刷り込みである。具体的に言えば司法警察の強制力に頼り庶民自身が行動して問題を解決する手間をショートカットすることだ。その延長に緊張関係を増したときの近隣諸国関係への姿勢がある。この場合、突出しているのは排外主義的言動である。丸山真男は庶民レベルに受ける物語などを通じて日本の前時代的風習、文化、イデオロギーが底流に継承され、ある時期に一気に社会の表面に浮上すると指摘している。
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明治元年に神仏分離令が発出されると、伊勢神宮もその影響を受けた。宇治と山田では109カ寺が廃寺となり、さらに上述の明治天皇の行幸に際しては1か月前に行幸の道筋にある寺を全て撤去せよとの命令が度会府より出て、宇治山田に残った寺の数はわずか15カ寺となった[67]。
明治維新に伴い、神宮の組織も近代化が図られ、神職や神宮傘下の諸社を統括する組織として「神宮司庁」が置かれた
と同じように、政治的な意味で中央から派遣された神社であり、大国主命の伝説も、むしろ近畿、ハリマあたりの方が本場だ.~~。」




















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