今朝は入念にストレッチ筋トレ。大震災を契機に毎日やることにして、2、5カ月が過ぎていった。
この前、テレビで2度の脳内出血で倒れた大島渚監督の近況を伝える映像をやっていた。
彼が、1度目に倒れた前後の事を書いている本を読んでいたので、感慨深いものがあった。
アイルランドの映画祭に行く途上、イギリスの空港で倒れた。
その後のリハビリ生活から、「御法度」撮影までの回復する日々を綴った「癒される日々」という本だった。
全編を流れるトーンは大島さんのそれまで書いてきたモノと全く違って明快さなく、陰鬱だった。
療養生活から得られる複雑な問題、課題を突っ込んで書こうとしているのに、核心に切り込めず、問題課題の提出だけに終わっているようだった。
頭の方にもダメージを酷く受けるんだな、と想った。仕方がない。よく書いてくれた。
これからのこの種の本も、こういう生の状態の提示が欲しい。
右半身が動かない大島さんが、積木崩しの繰り返しをやるリハビリを称してカミユの哲学書「シューシュポスの神話」に擬えている行があったが、今考えてみると、そういうリハビリ作業をやっている最中の自分を「シューシュポス」に擬えて自覚している患者とは何なんだろう?と云う気がする。
リハビリ患者としては優等生だっとという。
突然の身体障害状態に苛立って、周囲を手こずらせる人が多くいる。
突然の身体障害者状態の気持ちの持ちようは、それ以前の生活労働、思考スタイルに規定されている所がある。
さらに身体障害状態になった自分を納得し、周囲に対応していく、頭の切り替え操作もいる。
もう以前の大島渚ではない、他人の手を借りて生きていかなければならない、との認識がいる。
リハビリ作業の最中の自分をシューシュポスに擬える大島さんは他方で、自分のおかれた境遇をトコトン明晰に理解しようと努めたはずで、この思考の結果、脳出血で倒れた自分に課題を科したはずだ。
それが、必死のリハビリで再起し、構想段階で中断した「御法度」の撮影再開だった。
そのためにシューシュポス的繰り返しのリハビリに耐えた。
その甲斐あって、「御法度」は完成した。テレビ出演もろれつの回らない所があったが、こなせるようになった。
>ところが、またしても大島さんの脳内の血管は破裂してしまった。
もう1回目に倒れた時のように前に目標を持って進む姿はそこにない。
2度目に倒れ、ほとんど寝たきりの重度障害者になった大島さんが果たして、カミユの「シューシュポスの神話」の山頂に押し上げては落下する巨岩と苦闘する自分に擬えることができるかどうかも疑問である。
カミユ的実存主義はシューシュポスに永遠の不条理との格闘を称揚するばかりでなく、明晰さによる不条理環境への理解に達する事に解放の糸口を求めている。
体がトコトン故障し、認識力が衰えたら、シューシュポスの苦闘を超えてヒトは生まれてきたころに帰るのではなかろうか?
体は衰弱の一途を辿っていくが、認識は赤ん坊時代に帰る。
歴史だけでなく人生も螺旋的に輪廻している。
>が、大島さんの今現在が人間の一生のリアルな末期状態である。
もう、遠出して、花見に出かける体力もないという。
近所の大きな桜の木に満開の桜を見上げる大島さんに小山明子さんが「来年も、この桜が見えると良いね」と語りかけた。
これでいいのだ。みんなそうなっていく。究極的に云えば、希望なんかなくていい。生きているだけで全てはOKだ。
テレビは短い時間に編集しているので、実際の大島さんの重度障害者の生活、介護する方々の苦労、大変さの大部分はカットされている。
また、大島さんは恵まれた環境の重度障害者生活を営んでいる。
大島さんのように家庭で最晩年の重度障害者生活をおくる方もいれば、完全介護の有料老人ホーム入居で家庭に負担を負わせない選択もある。
多くの日本人の老後はもっともっと苛酷である。
他方。
日本人の平均寿命は世界屈指である現実。
要するに戦後日本は「会社社会、会社国家」としてのシステムがあらゆる分野の隅々までいきわたってそれなりにうまく回ってきたのだ。
労働生活環境がよくなくても、会社で勤勉に働くことを中心に据えて、慎ましく自己抑制、配慮した生活を営んできた。
詳しくは解らないが、これまでの日本のいいところは、守って云った方がよい、と想う。
なんでも欧米に右へならへは大間違いである。
日本には日本のよさがたくさんある。