反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

明治天皇、玄孫で自称、皇統保守、竹田常泰著「原発はなぜ日本にふさわしくないか」小学館最新刊はある意味、脱原発の決定版。毛並み良すぎて、若いがこの人、腰が据わった本物。

 明治天皇の玄孫って、ひ孫の上ぐらいと解っているが、検索しなければ特定できない。
「きっこ」のブログで有名な?きっこさんは原発事故直後、放射性核種降り注ぐ、都内世田谷で布団かぶって振るえる「母さんは守る」と東京を後にしたそうだが、あの方の父系は5代遡れる江戸っこ。母系も3代さかのぼって東京とか。
 
 5代家系が東京に遡れるということは、多分、明治維新前後に武士として東京に出てきた家系なのだろうと推測する。百姓だったら、よほどの大地主でない限り5代さかのぼるのは無理。みんな4割か5割天引きの年貢に追い立てられた百姓だから家系どころではない。
 
 天皇家の江戸っ子歴も5代ぐらいだろう。ズット京都の広大な邸宅で歴史と伝統を守って、ひっそりと暮らしていたモノが、明治の日本の内乱に勝利して、一族郎党、江戸に移り住んだ。これが元々の天皇家の一族郎党の血筋。 
 
 ただ、天皇一家は徳川封建領主に政治支配機構から全く隔離されていたといっても、元々が「祭りごと」で陰に陽に家系を維持してきた一族郎党。徳川幕府崩壊過程に、過激貴族として名をはせた岩倉具視の様な勤皇の浪士と連携する動きをする人たちもかなりいた。
 
 想うに「原発がなぜ日本にふさわしくないか」の著者、竹田恒泰さんは、明治の内乱期に生まれていたら、きっと、岩倉具視の様な戦闘的貴族として活躍していただろうと、想う。
 
 まだ三十代半ばの竹田さんだが、それなりの求心力は文章からも伝わってくる。包容力と内に秘めた過激性が不思議な魅力を醸し出している。全国各地に三千人の会員のいる竹田会なる勉強会があるのも何となくわかるような気がする。
 
 世の中広い、と改めて思う。つい今まで、こんな人がいるとは関知しなかった。原発以外のことで彼がどんなことを言っているのか、全く知らないが、彼の様な皇統保守を任じる人がここまで幅広く、ある意味過激に反原発脱原発を論じていることに希望が持てる。
 
 尤も、それほどまでに、日本の原発事情は異常だったなのだが。
云うまでもなく、それ原発立地の異常に限定されず、日本の異常ということだ。急速経済発展には必ず、裏面が存在する。その象徴が事故原発だ。人災は言うまでもなく、必然の裏面の反転した到達点だった。
 
 もっとも、竹田さんの家系の中身は解らない。封建藩主の家系も貴族に横滑りし、天皇家の藩屏と化した。
 
1975年生まれの竹田さんの現在は慶応大学法学部で憲法を教える講師。
 
護憲学者の憲法論をじっくり検討して、反対する立場から、学生に講義しているとか。手前勝手な意見に閉じこもるのではなく、反対論もじっくりと検討しての立論を心掛けているという。
 公平な感性の人である。
 
ところが、学生時代は慶応の反原発の有名教授、藤田さんの環境学ゼミを専攻し、ボランティア支援で原発労働現場の最下層で襤褸雑巾のように使い捨てにされる下請け労働者の環境を知っている。
 劣化ウラン弾の被害が後々、住民の被害まで及んだイラクを訪れ、その実態を調査してる。
理屈だけではない、裏の実態も生で見ている。
 
30台半ば過ぎににして著書多数。皇族に関する一冊で山本七平賞なるモノを受賞している。
 
 全国主要地域に竹田会なる三千人を有する無料「勉強会」があり、「古事記」「日本書紀」や最近では「反原発脱原発」の竹田さんの講義が開催されれいるという。
竹田さんを中心に人が集まるのは解る様な気がする。
 
 竹田さんの「脱原発」講義に参加者は保守層ばかりだから、最初はドン引きの反応を示すが、聞き終わってからは200人参加中、反対論はたった2名になるとか。
なかなか説得力のある方である。
 
 この著書は皇統保守の立場を鮮明にし、この立場から、「日本に原発は相応しくない」と繰り返し説得するモノとなっており、それが科学的、論理的でいて平易な脱原発、反原発の論証に太い一本の筋を通している。
 
その意味でこの本は半ば思想書として、日本及び日本人と原発の本質的関係の不適正を論じている。天皇制の伝統と歴史、日本国と日本国民についてのその方面からの独特の解釈をもとに神の世界に手をつけ「和」に背く原発は愛がないから相応しくない、と言いきっている。原発に愛がない。原発稼働には多くの労働の犠牲は必要だからだし、一旦事故を起こしたら、また住民と労働の犠牲が伴う。
彼の視線は温かい。
 
 が、また厳しい。キチンと原子爆弾製造と原発、国際政治の関係を抑えている。
 
国家と志を基底に置いた、原発批判書であり、脱原発の具体的な方向も高度ガス火力発電として示したモノである。
 
天皇論を論じた部分はありきたりの文句が並べられているのだが、この種の言葉にありがちな門切り型に終わってない不思議な求心力がある。アジってない。何となく温かいモノがにじみ出ている。
 
 竹田さんは最後でこの内容に保守が保守の立場を保持して反論するのは厳しいだろうと断じている。
確かにそう想う。
近代合理主義、経済効率主義での逃げ道も竹田さんのていなねいな説明でふさがれている。
おまけに天皇の歴史と伝統からの根源的批判が重圧として圧し掛かる。
 原発推進論者は今まで左翼や生活派からの既定の批判はあっても、このようなは皇統保守からの批判に晒されてこなかった。
 
 そしてその意見はその立場に補強されるかのように説得力が増しているような気がする。
ある意味、日本の国家、国土、歴史と伝統に造反し、目先の物欲に走り、ミーイズムで公を蔑にしたモノたちの原発推進暴走の様な位置づけがされている。
命と健康が危ない、という批判だけでない違った角度からの批判が沸き起こってきて正当性を持つようになってきている。
 
 脱原発、反原発に感情的な反感から、批判的な立場にとどまっている人にも、説得力を持つ見解の様の気がする。
 
 私も以前から、日本の脱原発、反原発の見解には何かしら、物足りなさを感じてしっくりこなかった。
 
竹田さんの見解は足りない視点がどこか教えてくれている。国家論がないのだ。政治綱領がないということもできる。
 
 それは原発に限らない。原発事故は日本の発展の飽和段階の裏側の必然的に露呈したもの。
日本の大きな曲がり角に新たに指し示す、国家論、政治綱領がなければ、状況に引きずられて、なされるままに流されていくしかない。