反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

村上春樹カタルーニャ国際賞受賞スピーチは大震災、原発事故、受難中の日本人に贈る言葉。考える素材が満載。

 作家、村上春樹は6月9日スペイン、バルセロナカタルーニャ国際賞受賞スピーチを行った。
スピーチ原稿は「毎日JP」で全文公開されている。
村上春樹さんの小説がどうして読者を獲得するのかこれまで理解できなかった。近頃の日本の文学界の事情からして、どうせツマランものだろうと、目を通すことさえしなかった。
 
 たった一作だけ、短編小説を読んだことがあるが、たまたま手にした短編集に作品が載っていて読んだだけだ。
予想通り、近頃の欧米の短編小説によくある、長い人生の時系列を圧縮した小説もどきで、小説の楽しみである微妙な描写はどこにもなかった。実に乾いたあっけらかんとした事実の提示だけがあって、その前後関係から、読み手に何かを感じさせる仕組みになっていた。
 これが小説といえるのかどうかと、読み終えて想った。
 で、世間では売れてるが、偽物というレッテルをはりつけた。
 
 彼の受賞スピーチをお気に入りに取り込んだのも、何かの折に批判してやろうとの意図があった。
その時はざっと目を通しただけだった。
 
 >昨日は竹田恒泰の「日本にどうして原発は相応しくないか」を取り上げた。
彼の著は原発推進派への皇統保守の立場から「日本の長い伝統歴史と原発推進は相いれない」と云いきっている。
この立場を鮮明にする中で科学的な論証を解りやすく、多方面を網羅して、しかも精緻にやってる。
感心した。
 私は書店にあまた並んでいる脱原発、反原発本には興味はないが、竹田さんの様な角度からの著作にはひかれる。
 
 >東日本大震災は時間がかかるが、やがて復興する。それは物的にということだ。政府投資に引きずられて、民間需要は必ず、大規模に生まれる。経済の法則である。
 
 ただそれと人や社会のあり方の問題は同次元のことでない。心の問題は残るし、社会体制がこの震災によって、どう変質するかという大問題が不可避的に発生していく。
 
 国政政治家の注目点はこの震災に対する行政的対応の範囲を出ない。
 
 >ところが、我々の様な被災現地と政治に直接かかわりのないモノが注目すべきは心の問題、社会体制の問題である。この次元の問題を掘り下げなければ、震災現地の問題を自分の現在と将来のことして、実際は考え行動できない。
 
 >福島原発事故にも同じ事がいえる。
基本的にネットで飛び交っている見解は煎じつめれば、原発事故に対する行政と政治の対応いかんの問題である。甚だしい場合はイロイロ書いているが、要は政局話である。
 福島原発事故に対して本当のところ「第三者」の立場に立つモノがそれだけの思考の範囲に自分をきりちじめていいのかどうかという危惧がズットあった。
 
 >進行中の福島原発事故ヒロシマナガサキへの原爆投下、世界中の破滅的核兵器の人類的問題に通じる次元の問題である。その意味で東日本大震災とは重なっているが次元の違うところ問題である。
 
 村上春樹さんはスピーチの中で語っている骨子は福島原発事故を受けて自分も大まかに考えてきたことだ。
 
 私は彼の様に表現できないだけである。
改めて、原稿を読んでみると、福島原発事故に際して日本人が考えなければならない主要論点が網羅されている。考える素材がキチンと提起されている。さすが、日本で断トツのベストセラー作家だけあるなと感心した。
ひねくれ者の私は偏見を持っていた。
 
 さらに。
団塊の世代としての村上さんの年月を経た経験が良い方に生かされている。高度成長経済を経たその後の日本の歩みがを客観的にしかも生き生きと総括できるのは、時代を先端で生き抜いた世代である。
村上さんは戦後日本の総括をし、いい面と悪い面を明らかにし、悪い面が今回の事故に集約されたととらえている。
 
 第二。
日本人の心のアイディンテティーまで踏み込んで論じている。日本人の無常感、刹那感が日本独特の気候、風土に根ざさざる得なかかった、事を押さえている。
 ただ、この点と最後に語られている結論と「非現実的な夢想か」にならなければというチェ、ゲバラ流のチァレンジャー精神の関係の論理的思想的つじつまが合っていない。
 
 うまい言い回しでやり過ごして深みに到達できていない。彼の限界である。日本人の限界であるともいえる。
しかしこの点は非常に重要で。無常感と理想をあきらめない精神とのかい離があったから、効率便宜への安易な妥協が生まれ、ずるずると時が悪い方に過ぎて行った。
 
 それを逆回しにするには、物凄いエネルギーがいる。単に言葉の問題ではない。
やれるのは国民だけである。
 やれる条件がない、実体も少数派すぎるということで、私は日本国民は敗北を経験しなければならないとしている。ただ、もちろん、座して死を待つというのでもない。
前にシューシュポスやカミユの「ペスト」を引き合いに出して論じたが、PCトラブルで記事が消えてい待った。
 
 日本には、土着の内面的戦う精神の思想が欠けている。昔から日本の知識人の思想は儚さ、あきらめの思想ばかりが多すぎた。知識人の思想は草食思想だった。支配者だけが肉食思想だった。
この点を克服する課題がある。小沢さんが嫌われている底にこの点の問題性が隠されている。
小沢一郎を受け入れられないようでは国民はいつまでも草食動物として肉食獣の食い物にされ続ける。
 これからは数にも限りが出てくる。キツイのではないか。
 
 第三。
ヒロシマナガサキを体験した日本人であるにもかかわらず、今回、原発事故を自ら起こしてしまった、自己反省をはっきり表明している。
 
当面の便宜を経済効率と称して追求し、ヒロシマナガサキで犠牲になった多くの方への責任の取り方としての「骨太の倫理と規範」を我々は構築できなかった。
 
それは日本経済の力で社会資本をつぎ込み、原子力発電でない、エネルギー開発を国家レベルでやりきれなかった、という国政の政治路線に踏み込んだ自己反省である。 
 
 この下りは大森実の「戦後史」を彷彿させるものである。
 
経済力が右肩上がりの時期に社会資本の投資の方向性が違った方向に向いてしまっていた。
端的には海外に資本を無原則に流失させたり、国内で不必要な公共投資を繰り返し、資金を浪費させた。
大森実はあのバブル崩壊時点を早々と日本の敗戦と断じている。
 
 大森は早くから、日本を脱出し、カリフォニアに居を構え、評論活動をしていた。
村上春樹さんも日本にはいない。確か、大森と同じカリフォニアに住んでいるはずである。
スピーチの言葉を動画で聞くと、かなり、米語なまりの日本語になっているようだから、向こうに転居してかなり長いのじゃないかな。
 
 日本にいるとどうしても、ウェットな政治的文化的空気に巻き込まれ、その範囲でしか思考と感性が働かなくなる。自分は自分にはわからない。他人の評価の中に自分がいる。
 
 この震災、原発事故の報道の中で日本人は自分を見失いがちになっていると想う。
 
ヒロシマナガサキの犠牲を経験した日本人が自分の過ちで核暴走を引き起こし、収拾のめどさえ、本当のところつけられない。この事故の膨大な損失、犠牲が明らかになるのはもっと後である。
 
この歴史の逆説を経験している日本人が自己と世界に向けて再生できる道は脱原発の道をはっきりと指し示すこと以外にあり得ない。
 
 管直人首相がG8で思わず、太陽光パネルの壮大な設置計画を口走ってしまったのは、G8参加国首脳の日本に向けた何とも言えない雰囲気に押されたこともあるのではないか。だからその場の空気を察して、脱原発の彼らしいその場限りのパフォーマンスをした。
 
 これから、世界の日本を見る目は決して、災難を受けている国家と民族という同情ばかりでhないだろう。
日本の倫理、規範、技術も疑いの目で見られることは避けられない。
 
世界は新帝国主義の競争の時代に突入しており、世界市場の地殻変動のスピードも速まっている。
 この震災、原発事故で日本は淘汰される立場に立たされていると言って過言でない。
新たな基軸を打ち出す必要がある。
 
 原発事故を引き起こしても同じような道を歩んでいたら、日本のクォリティーは世界で維持していけない。
こんな当たり前のことが、重箱の隅をつつくような政争に転嫁すること、無視されがちである。