反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「ある朝鮮の女の子」ヤン、英子。近代文藝社、2010刊。坦々とした飾らない語り口だが、個性的文学世界提示。傑作現代私小説。映画化したら面白い。

 著者の略歴。1953年生まれ。神戸市出身。1980年東灘バプテスト教会にて洗礼。
1986年ノルウェー移住。1989年スウェーデン移住。
1991年ニッセエリック高校成人学科入学。4年後卒業。
その間、3年連続スットクホルムマラソン参加。
1995年ルンド大学数学科中退。
 
 その他学歴割愛。書き出すのが面倒。
 
 図書館には名著が埋もれている。この本も世間的には評判になったモノでないと想う。500ページに及ぶ大作である。
大して興味はわかなかったが、在日朝鮮人の女性が逆境にもめげず、けなげに生きていく話なんだろうぐらいに想って、借りる一冊に加えた。
 
 時間ができたので何げなくひも解いてみたら案の定、阪神間の貧しい生い立ち、在日差別からの拙い坦々とした書き出しだった。文学的表現は一切なく、幼い在日の女の子が差別と貧困の中でコンプレックスの塊の様な人生を歩んでいく話だった。
 
 このような話の常として、主人公は学業は抜群にできるのだが、差別と貧困の中で健気に刻苦奮闘するのを常とする。著者の刊末の経歴からも、そういう想像を先入観として読み進んでいく。
 
 >ところが、学校時代は公立の商業高校を中退するまで、そんな気配が全くなく、差別と貧困、複雑な家庭環境の中でコンプレックスいっぱいで喘ぐ朝鮮の普通の女の子の世界が実に坦々と率直に語られている。
 
 イデオロギーの鎧をまとうことは微塵もない。文学的表現も一切ない。当時の本人から見えた世界がありのままに提示されているが、これが徹底しているからか、なんとも言えない独自の世界が自然と描かれている。
 
 >率直に当時の自分とその取り巻く世界を語ることで、阪神間と神戸の地域的世界を浮かび上がらせている。
 
 私にも何となく、理解できるところがある。
 
 この地域で育った昔の仲間とさしで飲んでいた時、自分の育った環境を語りだしたことがあったが、最後に私は想わず、「そりゃ階級社会、丸出しやないか」といった。富裕層や中産階層は六甲山の高みに住んでいて、下にさがっていくほどに貧乏人度が増していく。そいつは某有名企業に勤めている親父を持っている典型的な中流層で高校からして私立。
 
 まだその上がいる。
共通の仲間は灘高ー東大法学部。英会話学校経営の高台の自宅の玄関のドアは自動ドアとか。
六甲山の傾斜を下がって平坦地に来れば、被差別部落があったという。
 
 この本の著者の生まれたところは海沿いの原っぱに建てたバラックであり、クズやを営んでいた。
 
地元の公立の学校にはこういう階層社会の縮図があった。少数派は貧困で差別され、そこから抜け出る道はふさがっていた。学校の成績も余程、先天的に学校の勉強に向いていない限り、平凡に終わる。
 
 学校時代の著者が目立たない生徒であったのは当然。
またズット孤立して、コンプレックスにさいなまれていたのもこういう地域環境が学校に持ち込まれていたせいもあるだろう。
 教師は無力で生徒を狭い環境に閉じ込め、管理することに主眼を置いている以上、むしろ地域社会の差別的環境が増幅される。
 
 被差別者が感受性と自意識の強いものだったら、学校生活は出口のない被差別エリアになる。
 
 >高校を中退して、働き出してから、この著者の世界が広がり、友人と交流できるようになる。感受性と自意識の強い著者が学校の閉鎖性の継続から心を解き放たれ、他者に心を開けたことが大きい。
 
 学校生活に閉じ込められた自虐調の自伝の環境は社会に広がりを見せるが、アルバイト学生の様な域を出ていない。大人への観察はまるっきり出てこないが、様々なアルバイト仲間と付き合うことで、著者が社会にでてやっと人間としての勉強をしていることが分かる。
 
 >が、平凡な在日の女の子の歩みを坦々と綴った世界から、物語は「危ない世界」に接近していく。
 
読み進んでいくうちに、この物語は環境に恵まれない在日の朝鮮人の女の子の刻苦奮闘の果てに知性と教養を獲得していく、話とは真逆の物語であることがはっきりとしてくる。
 上昇指向を綴った物語でなく、薬とアルコールにまみれた若い女性の売笑、売春にどっぷりと浸かった世界が坦々と開示されている。
 
 >著者は港町、神戸の外人船員専門のバーで働くようになる。もちろん、著者を含めて、そこに生きる女性たちは外国船員の酒の相手をするためにそこにいるのではない。
 
 >物語は教養小説の真逆の方向にどんどん展開していくが、露悪趣味やその世界の暴露本とはほどお遠い
ある種の文学的世界は醸し出されている。坦々と描かれて、文学的表現は一切ないのに暗くよどんだその世界にうごめく人間たちの様子が手に取るようにわかる。不思議なリアリズムがある。
 
 >神戸を離れた著者は米軍基地の岩国の米兵バーに流れていく。
 
米兵相手のバーのシステムは売春でない。高い酒を若い米兵にたらふく飲ませて、ドリンク代を経営者とホステスが折半する。ホステスのほとんどは若い米兵と同棲している。
 
 著者の何人かの米兵との関係はカネを媒介とした関係でなく、人間的な関係である。
在日アメリカ軍兵士のありのままの姿が描かれている。
 海兵隊の若いプワーホワイト兵士の実態から、アメリカの庶民の民度?が伺える。
人間としての最低限の良識、豊かな?感性が個人にある。
 日本人の若い底辺の個人にそれがあるか疑問。
 
外人相手の水商売を薬の助けを借りなければ素面でできない、と作中で著者が叫ぶところがある。
そうだろうと想う。
 
 物語は岩国の海兵隊の20歳にも満たない同棲相手の兵士が帰国ところで終わっている。
 その意味で教養小説の期待をまるっきり裏切ったままであるが、なぜかその世界は独特の世界を醸し出しインパクトがある。
 
 自伝としても文章は稚拙の部類に入る。精緻な描写は一切ない。思い入れたっぷりな感情表現も排除されている。事実をありのままに書き綴っていく中で独特の不思議な世界を浮かび上がらせている。
どうしてそうなっているのか、解らない不思議な自伝私小説の傑作だ。
 
 ただ、この著者の自意識は自虐気味ではあるが自分を突き放したところにいつも置いている。
自分を取り巻く周囲の描写も自分を突き放して見える著者の視点があるから、客観性があり、不思議な説得力がある。言葉足らずだが、足りている。
 
誰にもかけないオリジナリティーが際立っている。
 
多分、この著者がその後の波乱万丈の人生の歩みを書いてもうまくいかないだろう。
 
その気配は同棲相手の若い海兵隊兵士の別れを描写しているところに現われている。
その気になって、書こうとしたら、平凡に流れる。
 
 この本の本当のいいところは3分の2ほどでおわっている、とみた。 
 
 
  <追記>
芸術に一貫性、思想性、政治性を求め、その方向から裁断するのは完全な時代錯誤。
戦前ならそれは世界環境を根拠に正当性を持っていた。
 人類を滅ぼす核兵器の軍事的均衡が世界政治の動向にたいして基本的な大枠を入れている。
大国同士が正面戦を戦うには軍事技術の発展により、リスクが高くなりすぎる。
その意味でアメリカの力の過大評価は間違いだ。
 
かといって、特定の国の軍事的優位は均衡を破壊するので軍事開発はとどまるところがない。
 
ただ、庶民が参加する「戦争と内乱、世界革命」はその意味で物的根拠を失っている。
 
第二。世界的貧困から抜け出る道は世界戦争と世界革命のリスクををとらなくていいとだれでも思える時代になっている。人類の最低限の生活維持のための世界的な物的蓄積は否定できない。
要は分配の問題になってきている。世界暴力的破壊によって再分配するる時代は過ぎ去った。
 
 この再分配は短兵急でなくて、複雑で時間をかけて進行する。
 時間をかけた、複雑な内外の政治軍事過程を認識する立場を獲得する必要がある。
 
従って、このような世界情勢にあって、芸術やあらゆる表現活動が戦争問題やある一定の重要問題へのその時々の態度によって断定される割合が少なくなっている。
 
なくなっているということではなく少なくなっている。
換言すれば、政治的文化的表現領域は広がっている。
 
 特定の立場からの規制や圧力、裁断は今を生きる人間の感性を豊かにしないものであり、判断する領域を狭めるモノである。イロイロな選択肢があって、一つのモノを選べる世界が好ましい。
 
>この意味で日本文化、芸術、政治は成熟していない。その経済規模との段差は余りも大きすぎる。
 
 この記事で取り上げた在日の方なんか、わざわざ、北欧に移住しないで日本や韓国で生活できて十分に才能を発揮できたらよかったと想う。イロイロな立場の感性や才能を包含し、発揮させる条件の整った社会が総合力で最後には上に行く。
 
 日本社会は違いを包み込む社会ではなく排除の論理の優先した社会であり、新帝国主義的世界競争では先細って行く。
 これから、将来、国内から優秀な人の海外流失は避けられない。
行き詰った、刺々しい、うっとうし社会には才能の開花はない。