どうせこの世は、ホンダラホイホイ
だからみんなでホンダラ、ホイホイ
ホンダラ、ホンダラ、ホンダラ、ホダラダ、ホイホイ
あの娘に会ったら、ホンダラ、ホイホイ
この娘会っても、ホンダラ、ホイホイ
会っても会っても、ホンダラホダラダ
どうせ女はホンダラホイホイ
だから男はホンダラホイホイ
あっちへ行ってもホンダラホイホイ
こっちへ行ってもホンダラホイホイ
行っても行ってもホンダラ、ホダララ、ホイホイ
あれをやってもホンダラ、ホイホイ
これをやってもホンダラ、ホイホイ
やってもやっても、ホンダラホダラダホイホイ
三か月に一度通う大きな病院の長時間の待ち時間。
アルベール、カミユの「シーシュポスの神話」にズット目を通していました。
理解できなかかった。
若いい時は何となくわかったような気になっていたのに。
論理的に辻褄が合わないと。
確かに、シーシュポスを哲学のテーマに取り上げた着想は斬新だったが、中身がなぁ~。
アルベール、カミユの限界だ。
哲学方面は彼にとって、鬼門だった。
彼は小説家だった。
一般に云われている様な内容でサルトルに軍配を上げるのではなく、カミユの哲学論は論理を煮詰めていない。
これでは、哲学を渇望しているモノには納得できない。
具体的にいえば、落下する必然の巨石を頂上に押し上げる苦役を課されたシーシュポスが、ニィーチェばりに
「全てよし」と自らの宿命を肯定するところ。
自身の哲学的論証力のなさを、文学的表現で誤魔化している。
「彼を苦しめたに違いない、明哲な視力が、同時に彼の勝利を完璧なものたらしめる」
「人を押しつぶす真理は認識されることによって滅びる」
カミユはその論理を中途半端に拝借している。
サルトルたちがこの点にダメだしするのは当たり前だろう。
この後の下りで、「全てよし」を導き出す論理もスカスカだな。
「絶望した彼は、自分をこの世につなぎとめる唯一の絆が若い娘のみずみずしい手であることを知る」
そのあとに続けて、
「この時、途方もない言葉が響き渡るのだ」
「これほどおびただしい試練を受けようと、私の高齢と私の魂の偉大さは、私にこう判断させる、全てよし!と」
哲学論として全く、煮詰まっていない。
>苦役を課されたシーシュポスがその繰り返しの行為の中に意味を見つける要が哲学的主題になる。
カミユは上手く説明しきれていない。
「一点突破、全面展開」の世界だ。
カミユ程度の哲学論だったら、日本の仏教論を踏まえた哲学の方が上だろう。よく知らないが。
カミユのモノは小説も含めて青春の書であると、今頃わかった。
>毎朝、大きな橋の171階段を往復する。
6回往復すれば1000段。それが日課だ。
意味なんか大してない。体にいいとも、想っていない。
むしろやらずに済ませればその方がいい、とさえ想っている。
が、やらなくてはならないようになってしまっている。
苦行でなく、一日の事始めの習慣。橋から港を見下ろしながら、階段を上り下りしている時間の中で、早朝の結構忙しい出船入船の様子が観察できて楽しい。
こうして階段の上り下りをできる我が肉体があって、早朝のひなびた港の所業がある。
これが一切でいいではないか!
人間には人間の時間経過がある。それを歴史に記録されているが、忘れ去られるモノだろう。
この面で人は結局、自分の一生涯を基準としてしか判断できな愚か者の様だ。
そして、愚かさを正当化する手の込んだ理屈がズットはやってきた。