評判のベストセラー本が手に取ってみると案外だったり、題名だけみると大したものでないと、想ってた本がページをめくっているうちに、その世界に引き込まれてしまう、そういうことはよくある。
日本の大きな書店の良く目の届くところに陳列されている本は概ね、腐れ本だ。
確かにそれらしい知識の羅列はある。
でも本とは、そういうものでもない側面がある。そこに展開されている世界の問題だ。オリジナルな世界が開示されていれば、読者の心にズシント来る。
以前紹介した、「在日の女の子」(朝鮮の女の子、と再論する時誤記)は地味な本だけど隠れた傑作である、と今でも思っている。
文章のうまい下手は二の次。あくまでもオリジナリティがあるかどうか。
この本を大きな図書館で題名だけみて借り出したとき、てっきり、カルト教にはまった一家の過酷な物語りなのかな、と早合点した。
「HARD TIMES IN PARADISE」これを適当な日本語に置き換えるのは難しいのではないか?
翻訳者もあとがきの冒頭で題名に苦慮したとふれている。翻訳者によれば直訳すれば、「過酷な日々」だが、「つらい日々」としたと述べている。翻訳者にセンスがない。もっと別の題名にすれば、中身を想像できるタイトルにできたはずだ。出版社が農協系のモノで編集がうまく云ってない様な気がする。
著者のデビット、コルファックスと妻のミッキは僻地に小さな農園を開拓しだし頃の推定年齢は30歳半ば、か後半。長男は日本でいえば、小学校高学年。次男と長男が実子であと二人は養子。
二人の実子がいてなおかつ、施設から、養子を迎えるという、心のワイドさは日本人にはお目にかかれない。
人間として普遍的なものがある。
単純な反米はダメだってこと。
日本の独立と云ったって、文字通り、日本帝国主義の独立と云う意味になる。
独立しても多数の国民の境遇は変わらないということもある。
必ずしも、より民主主義的、より格差がなくなるとは限らない。
個々のところを問わない奴は今まで何をやってきたのか?自分と他人を誤魔化している。
保守的な中西部セントルイスの比較的進歩的と云われた大学を公民権運動、反戦運動の急先鋒となったことで追われる。自宅と子供が地元の「ミニットマン」(同名の有名な核搭載ミサイルが当時あった)と称する地元の反共テロ組織に狙われ、町を脱出せざる得ない立場に追い込まれた。ここら辺りは、「KKK」のまかり通る南部を想像すると、日本との違いが理解できる。
草の根、反共極右、人種差別団体と警察などの治安当局とのなれ合いがあるのだろう。
銃所持が合法化されている国で、一方が「野放し状態」になっていれば、それと戦うということは、即、命を投げ出すことにつながる。家族の安全を守ろうとすれば、逃げだすしかなかった。アメリカでは平和運動さえ、命がけでやらなければならない事情がある。言い換えると、そこで戦っている人たちは、本物と云うことだ。
デビットの専門研究分野が渋い。
なかなか、問題意識の鮮明な人だとわかる。
モロッコ辺りをキャンピングカーでウロウロして、帰国し、思いきって、サンフランシスコの北200kmの20数ヘクタールの山奥の土地を買い込んで、開拓農民を志す。
この辺の金銭事情を考えると、1972年当時のニクソン、金ドル、交換停止=ドルショックはあっても、現在とは大きく違う、USドルの対外的強さ、一般国民の生活のし易さが良く分かる。
セントルイスのたいして豪華でもない自宅売却と大学放逐の慰謝料と多少の借入金で外国をうろうろしたり、僻地とはいえ土地購入から、資材購入、一家の数年の生活費が賄えている。
もっとも、開拓生活に入ってからの一家の事情を規定しているのは、倹約。
このため、作業道具の購入も最小限度に抑えている。
ただ、開拓をできるだけ周囲の自然を壊さないように、自分たちの力でやっていこうとする姿勢は一貫している。
そのため、重機を入れた作業は絶対にやらないという方針である。
雑木の生い茂る傾斜地の道路敷設、自宅建設の敷地の地ならし。全部、スコップ、つるはし、チェーンソーなどの素人の使える道具で一家総出でやる。
サンフランシスコの北200kmの気候、風土は日本とはまるっきり違う。
5~10月は全く雨が降らない。雨季と乾季のはっきりした気候の様だ。
特産品の聞きなれないアカ杉って、何だろうと調べてみると、ジュラ紀、中生代から西海岸地方に繁殖している巨大杉で、幹の太さが数十メートル、高さが100mにも達する。杉と云わずに、セコイヤといったほうが解りやすいようだ。戦後、発見されたメタセコイアという原始時代の樹木に近くて、日本の杉とは姿かたちが大きく違っている。
そんな大木が加工しやすくて腐りにくいので当地は戦後伐採ブーム沸いた時期があった。
一家の土地も昔は生い茂っていたセコイアを粗方、伐採されて雑木林になっていたから、手作業の開墾でも通用した。
一家にはものすごい集中力、根気、連携力がある。しかし闇雲に体を動かしていない。大きな作業をするときは、本で知識を蓄え、計画を立てて、一家で意見を出し合って、やっていく。
大切な労働量の子供たちの意見も聴き、全員が納得して、分担して作業する。
ただ、食事係はどうも、妻のミッキに任せられている様子だ。二人しかいない大人としてデビットと作業してから食事を作るのだから、この女性の存在が一家を支えだった。セントルイス時代は国語教師である。
本の最後のところで、デビットは心筋梗塞で倒れるが、この女性はずっと元気なままだったようだ。
訳者がその後渡米して、農園に訪ねたときのミッキの印象をこう記している。
「テキパキとした動き、良く通る声でテンポよく話す彼女は若々しく、見るからにエネルギッシュです」
本文中でも明るくてしっかり者で、感情を内にこもらせずに、外に発散できる良い意味での典型的なアメリカ女性の様だ。
昔、NHKで「大草原の家」と云う連続テレビドラマをやっていたが、あのドラマの開拓一家に通じるところがコルファックス一家にはある。
祖父母はともにアメリカ中西部の平凡な農民であり、デビット、ミッキも農場生活の体験から、その素朴で厳しい実態を知っている。
この本の主題は学校に通っていない息子たち3人をハーバードに入学させた教育話ではない。
両親が息子たちに勉強を教える場面などは一度も登場してこない。息子たちは自分の身の回り自然を知りたいという欲求から、勝手に字を学び、自主的に学習していく。長男がまず先に学習の道筋をつけて、次男以下は、彼がつけた道筋に沿って、合理的に学んでいく。
ただ、ハッキリ言って、生まれつき、理解力が群を抜いている。競争心も旺盛。兄弟間の相乗効果があったようだ。テレビも何もない、すべてを自分たちで一から作りだしていく生活において、考えること、集中すること、持続することは不可欠なことだった。
学校と云う場ががいかに教育という面で無駄や無理が多いか。
ただし、子供は4人、上二人の年齢差が離れていない。兄弟間に社会ができる。
ボーイスカウトの農村子供版の様な4Hクラブに積極的に参加して、自分で育てた家畜を品評会に出したり、会報に投稿したり、様々な活動をしている。
日本の農漁村の子どもたちは、地域で自分たちの生活に密着した子供組織を持っていない。農民や漁民から抜け出す、事ばかり教えている。足元にせっかくいい環境がるのに生かせていない。
ノーベル賞、スーパーコンピューター世界一、アスリート世界一。そんなに素晴らしいことなんかな?
じゃ~、コルファックスの大学生の次男は恋人とアフリカの砂漠の奥深く分け入った旅行をし、ついでに依頼された学術調査をやっているのはどうなのか?
以前、「荒野へ」という本を読んだ。
クリス、マッカンドレスの最後はアラスカ奥地で身動きできないようになって、衰弱凍死していまう。
持ていった植物図鑑で丹念に調べて口に入れたはずの、野草は瓜二つの猛毒が含まれてたモノだったのだ。
が、あの本を読んだ後、感動した。
あんな若者は日本では育たないと。
ちょうどその本を読んだ頃、早稲田大学の探検部が南米アマゾン奥地を探検していてゲリラに拉致されたと、マスコミは報じていたが、クリス、マッカンドレスに比べて日本人らしいなと想った。
クリスマッカンドレスはアラスカから無事帰還していたら、それなりの人間になっただろう。一番になるとか、有名人になるとかそういう次元ではなくて。それだけの独立心、勇気、パイオニア精神、自分をかけるという冒険心がある。
最高レベルで頭のいいとされている若者に、そういう精神が宿っている。
>この「楽園のつらい日々」の一家の様な人は日本に生まれない。
確かにアメリカの自然も含めた豊かさには圧倒され、そこでなければできなかったことである。
しかしこの話は、子供を有名学校に合格させた話は副題の様なもの。
主題はだ自然の中での貧乏生活に頭と体を使って家を手作りし、家畜を殖やし、慎ましい農園をひり開いていく話。その意味の描写が大半を占める。
スケールが大きな大自然物語である。
クリス、マッカンドレスの話を読みを得たときと同じような、一種の挫折感を日本人として抱いてしまう。
アメリカには凄い人間がたくさんいる。生まれる環境がある。
日本にはない。