昨日の記事の内容。
織田信長の桶狭間出陣前の舞唄「平敦盛」、当時の庶民の小唄「閑吟集」まで挙げて、戦国時代の武士と庶民の、この世、夢幻=永遠の時空、天上界への転生という、捨て身の虚無的行動主義の心魂を、今を生きるモノの立場から、とらえかえそうとした。
書かれた歴史は支配層の歴史である。
全国的支配層である武士の武装力に抵抗し、決起し、統治した宗教勢力のリアルな地方的戦いは、過小評価されている。
しかし、その集団的な結束した戦闘力を支えた精神は信長の「敦盛」庶民の「閑吟集」に表現された世界観と同じ位相にある。
それはまた、中世ヨーロッパの血なまぐさい殺戮の宗教戦争の世界と共通する匂いがする。
日本戦国で仮に宗教勢力(神権)が武士勢力(俗権)に徹底した殺戮と抑圧の果に、終いには支配の道具にまで落とし込められなければ、神権は俗権から独立性を持ち、そこに集う民衆も封建軍事貴族=武士階層から精神的物的な独立性を保っていたかもしれない。(こういう仮説を立てなければ、論点がはっきりしない)
であれば、徳川封建支配の様相も違っていたかもしれない。
徳川封建、被支配層は神権の独立性と云う民衆集団的拠り所を失い(寺院は封建権力の住民統治の末端行政機関の役割を担わされていた)、個々人に解体されて、徹底した身分制に絡め取られた。
さらには、絶対主義新政権は封建時代の俗権に個々人に解体され、絡め取られていた民衆の上に君臨し、収奪することを国内の支配の柱とした。
>明治絶対主義軍事政権の廃仏毀釈の様な天皇制への民衆の急速な一元的統治、統合を可能にしたのは徳川封建権力の民衆の身分制による民衆の集団性の個々人への解体を前提とする。繰り返すすが、その前には戦国時代の武士階層の俗権の神権に対する軍事的勝利と支配の道具化=神権壊滅=民衆の集団的拠点喪失ー民衆の弱い個々人への解体があった。
明治天皇制絶対主義権力の国内政治支配の経済下部構造は=日本資本主義の原資蓄積である。
原始的蓄積(本源的蓄積、アダムスミスによれば、資本主義成立に先行する蓄積)の内容は煎じつめると一方における資本家の創出と他方におけるにおける賃労働者の創出なのだが、国内外で血塗られた経済外的強制力や封建的規制の緩和を伴った、各国の置かれた歴史発展段階に応じたリアルな政治過程でもある。
<明治の日本近代化についての各論者の主張を「資本の原始的蓄積」論を武器に批判する>
日本人の多くは司馬遼太郎などが描く明治時代の物語に胸を熱くする。
どうしてそうなるのか?
1)明治維新以降の日本近代化の歴史的歩みを全面肯定するのが、保守派論客、著名文学者、福田さんの立場である。
-ただし、田母神の主張する様なニッポン枕国<F層>限定の乱暴、粗雑なアジテーション的アジア侵略肯定論ではなく、それなりに精緻で高度な議論であり、ある意味説得力があり、限定品でない。
2)丸山真男支持者の丸山流明治近代化肯定論を擁護する意図で欧米民主主義理念の世界的普遍化の裏の血塗られたリアルな歴史を突き出しての反発。
この観点は各国、個別発展段階史観とでもいうべきモノで、丸山の明治国民国家形成論は容認される。
現在、この立場から、欧米民主主義普遍理念化、世界化に反論する意見はよく見受けられる。
たちの提出する日帝植民地支配を大きく視野に入れた論点に丸山擁護の立場から、反論している。
3)カン、サンジュンの立場。
彼の問題意識はこうである。
「日本の独立が同時に後発的な帝国主義国家の誕生であったという両義性。植民地帝国としての欧米列強の中でいかにして独立を保つのか腐心するとともに、日本は独立国家としての治外法権撤廃や関税自主権を得るために明治期の全てを使いました。と、同時に日本は日清戦争以降、ミニ植民地国家としての道を歩んできた。
こうした二重性、両義性を持つ近代国家の歩みは、ドイツを除いて、少なくとも欧米ではなかった歴史」
さらに彼は国内に目を転じて、北海道開拓や琉球処分の日本近代化の歩みとして押さえている。
>>カン、サンジュンの指摘は正しい。
明治維新以降の日本近代化の歩みを国内の支配と近隣民族への支配という厚みと広がりをもった把握をしている。
1、2)の観点の違いは近代化に果たした役割を軍に重きを置くか、福沢諭吉評価、自由民権運動評価で民に重きを置くかの違いだけである。ともに欧米民主主義の血塗られた裏側を隠した世界普遍化に個別国家の発展段階を重視する観点から、反発しているだけであるが、其々の国はそれぞれの発展の仕方、段階があるというだけでは、世界への普遍性、共通性の提出にはならない。
また民主主義諸制度、理念は民衆全般の労働生活生命を保障するリアルな制度、政策、運動の実体である。
民主主義のないところでは民衆は生活、労働の諸権利を支配層に訴えることができない。支配層の引き起こす戦争に力ずくで動員されてしまう。
>>論者のカンサンジュンへの批判はケチつけの様相がありありで論理破たんしている。
論者の様な立場は日本の狭い学会に住む学者の自己規制を吐露しただけである。
カンサンジュンさんは帝国主義論を念頭に置いているが、ハッキリ口に出せない。
これも限界だが、もっと限界がある、明治期は日本資本主義の原始的蓄積期でもあった。
この事実の観点から、論を展開しないから、中途半端な政治論のレベルに留まって、自分の提出した深さと広がりを持った議論を経済方面に根を持たせて定着しきれていない。
>>>カンサンジュンの提出する欧米列強に対する日本の独立の追及の明治近代史とミニ植民地国家形成の二重性とは
B)国外における日清戦争による賠償金獲得、
の様な経済外的強制力を伴った日本資本主義の欧米に非常に遅れた原始的蓄積期の特殊性、後発性のことである。
>>>1、2)論者の指摘する欧米民主主義などの理念の世界的普遍化の裏側での数々の内外での抑圧は
欧米資本の原始的蓄積期の主要な側面であるが、欧米の圧迫に抗して日本が独立と近代化を目出していたずっと以前に、欧米はすでに血塗らてた原資蓄積期を脱していた。
原資蓄積の時期を終了し、資本制を深化させ、資本蓄積構造を強化し、金融資本主義の段階に達していたのである。日本は原資蓄積期を脱するためには日清戦争が必要だった。
原資蓄積期に支配層が海外に進出し、強収奪するのは欧米と共通であるが、時期が余りにもずれ過ぎているから、侵略された方の歴史家の観点からみたら、一方に同時期の原資蓄積期を早くに終了した先進の列強の存在を想定し、自民族が文化水準の同程度の日本にに攻め込まれたように歴史を総括する。
こういう観点を単なる理論上の問題として批判するだけh、心魂を理解できず、、心が通じ合わない。
また遅れて原資蓄積の一形態として海外に兵を進める国に歪性、特殊性が刻印されるのは当たり前である。
欧米列強との当時の東アジアでの軍事的力関係を考慮して絶対主義権力の大陸への浸透を正当化しきれまい。一国主義的利害を出ない歴史把握は間違いである。
>>>原資蓄積期に日清戦争勝利で賠償金を獲得し、国内諸制度を整備し、軍備を大拡張し日本資本主義は
>>>日清戦争におけるアジアの歴史的大国清国への勝利と賠償金の獲得によって日本資本主義の原資蓄積と国民の国家との一体感が高揚し、諸制度が整備され国民国家が形成されたが、その裏側では激しいアジアへの煽られた民族排外主義が沸き起こっていく。
>>>日露戦争で賠償金を獲得できない、三国干渉を受けたと知った民衆は日比谷で焼打ち事件を起こしたり、警察署を襲撃する。
>>>その後の大正デモクラシー期はこうした民衆基底層の感情的あり様の上っ面の出来事であり続けた。
>>>だからこそ、日本資本主義の格差拡大的資本蓄積過程が進行すると民衆の不満に軍部への期待感となった。軍隊だけが汚れた政界財界から中立で国内諸矛盾から国民を解放してくれ、排外的気分のはけ口となった。