反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

1951年、丸山真男「日本におけるナショナリズム」の認識から60年経過した現在。当時の問題意識、課題を再検討してみる。

 「阿修羅サイト」において思想雑誌、月刊日本に発表された亀井静香さんの発言が採録されて、最近では珍しいほどの膨大ともいえるコメントが寄せられて居た。
 ただ、気になったのは、亀井発言のトピックとでもいうべき彼独特の歴史哲学が披歴された冒頭部分へのコメントが少なく、国民新党や民主政権など生々しい政治行動への賛同なり評価が続いていたことである。
 
 主要論旨は今日の日本国民の政治意識の歪みである拝金主義、ミィーイズムの貧欲、市場原理主義に侵された日本人としての共生喪失に対して歴史を遡って、日清日露戦争勝利における朝鮮、中国、ロシアへの根拠乏しい反アジア脱亜入欧の時代限定的、排外主義的偏狭民族主義の今現在までの継続に、求めていくものであった。
 アジアという磁場を喪失したアジア蔑視の帝国国民意識の思考体系が敗戦を契機に払しょくされず、国民の底辺に根付いていたから、欧米思想の一部でしかない経済効率第一主義に我を忘れて盲従した結果、今現在の様な袋小路に自分たちを追いこんでしまう。
 
 亀井氏が小泉郵政改革の時、多くの潜在的党内反対派に比べて、離党に踏み切って、苦しい選挙戦を戦い抜いたのは彼自身の歴史哲学が大きく影響している、とみなせば、冒頭の日本と日本国民論は絶対に見逃せないモノとなったはずで、この点に関しての意見も多数寄せられて、当然だったが、
どうも現実政治に釘づけになった様な意見ばかりだった。これだったら、足元をすくいわれる危険性がある。
 
 ただ、亀井氏の歴史哲学から入った全体の見解を流れる、熱い思いには多くの反応があった、ということか。
 
やはり今日、大震災原発事故、その底流にある、日本の後退の大状況の中で「がんばろう日本」とか「絆」の強調とかの緊急事態的なマスコミ報道もあって、日本国民の底辺から必然的に国家意識、社会意識が強まっていると、見なければならない。
 
 しかし、問題はそれが結局、多くの国民にとって、天に唾する行為に終着せざる得ない、必然性を日本のナショナリズムは敗戦と日本国憲法をもってしても内包していると云う事実である。
 
 その角度からの分析は、今もって丸山真男が最高峰であると認めざる得ない。
 
引用。
 
 「それはそのままの形では決して民主革命と結合した新しいナショナリズムの支柱とはならない。
まさにその発酵地である同族団的な社会構成とそのイデオロギーの破壊と通じてのみ、日本社会の根底からの民主化が可能になる。
 伝統的ナショナリズムが非政治的な日常現象の中に微分化され生息しうるということ自体、戦後日本の民主化が高々、国家機構の制度的=法的な変革に留まっていて、社会構造や国民の生活様式まで浸透せず、いわんや国民の精神構造の内面的変化には至っていない。
 
 それが達成されるためには、やや奇矯な表現ではあるが、<<ナショナリズムの合理化と比例してデモクラシーの非合理化>>が行われなければならぬ。」
 
>>最後の<<ナショナリズムの合理化とデモクラシーの非合理化>>部分。
丸山の政治感覚から発せられた言葉なのだが、彼は理性の円環構造の住人。
 
 ファシズム観、明治初期の自由民権運動観、大正時代のアナーキズム観、全共闘ファシスト視にもよくあらわれている。彼の社会変革を主導する原理、論理は理性一辺倒に近い。
 
 その対局として歴史における「無法者」、行き過ぎの歴史を推進するダイナミズムとして運動の内側から、評価しきれていない。
 逆にいえば、無法者、行き過ぎたモノを恐れすぎている。彼のファシズム論がそれである。
 
 ファシストと戦うためには合法的理性だけでは無理。
大きく言えば、ナチスムッソリーニ軍国主義は戦争で、戦闘によって打ち殺されて、はじめて打倒された。
そこにおける言論戦の役割は限定されていた。
 
 戦前ファシストを打倒できなかった、との痛烈な反省を戦後の出発と確認する丸山の見解は日本軍を打倒した米軍軍事力に依存した机上の、あるいは、気分的なロジックに過ぎないと云われても仕方がない。
 
 ヨーロッパの反ファシストレジスタンスは丸山の様なロジック世界に留まらなかった。
これを日本の立ち遅れの問題に論理的に解消する傾向が丸山に一貫している。
 
明治初期の自由民権運動への低評価もそこに無法、行き過ぎ、間違いがあったが故だろう。
福沢諭吉を評価する立場からはそういう意見になる。
 
 その他への否定的評価からは、<ナショナリズムの合理化デモクラシーの非合理化>が単なる思いつきに終わっている事を示している。
<非合理なるが故にわれ信じる>。これも反面の真理である。
 
 次の引用
「社会底辺に還流した旧ナショナリズム感情は、再び政治表面に姿を現して古い帝国的シンボルに向かって再動員されることがあれば、その構造原理からして溝を流れる水の様に全て反動的な方向をたどるであろう。
 この意味で最近の日の丸掲揚や君が代復活、さらには神社参拝と云うような傾向、特に国民教育における旧シンボルの再台頭激しい論議も的になっているのは当然である。
 
 それが、警察予備隊増強とか、日本の再武装とかの文脈の中で考えられる場合には、そこ見ある政治動向の萌芽を認める」
 
 次も引用。
「この政治動向は簡単に戦前のナショナリズムのそのままの復活とも目しえない。
経済的にも軍事的にも日本がかつての植民地帝国時代に持っていたような実力と威信を国際社会において復活しうるということはほとんど考えられない。
 今後、天皇君が代や日の丸のシンボル価値がどんなに回復しようと、もはや戦前の様な{万国に冠たる国体}として表れるのは不可能であろう。
 
 伝統的シンボルを担ぎ出して、現在まだ無定形のまま分散している国民心情を、これに向かって再び集中させる努力が今後組織的に行われることがあっても、そこに動員されるナショナリズムはそれ自体独立の政治勢力となり得ず、むしろヨリ上位の政治力のーおそらく国際的なヨリ上位に政治力ーと結ぶつき、一定の政治目的ー例えば、冷戦の世界戦略ーの手段として利用性を持つ限りにおいて、存立を許されるだろう。
 
 <<日本の旧ナショナリズムの最も目覚ましい役割は一切の社会的対立をを隠ぺいもしくは抑圧し、大衆の自主的組織の成長を押しとどめ、その不満を一定の国内国外のスケープゴートに対する憎悪に転換することにあった。>>
もし、今後において、国民の愛国心が再びこうした外からの政治目的のために動員されるならば、それは国民独立という、およそあらゆるナショナリズムにとっての至上命題を放棄して、反革命との結合と云う過去のもっとも醜悪な遺産の身を継承するモノに他ならない」
 
>>今現在の日本のナショナリズムの役割と限界が示されている。
丸山の指摘するヨリ上位の政治力に利用され、その枠に立つ限り、存在を許されるナショナリズム
のヨリ上位の政治力の意味は今は内外に渡る利権癒着勢力になろう。彼らも成長した。
ナショナリズムを利用する政治目的は冷戦構造の維持からグローバル資本の内外の資本蓄積構造とその寡頭支配の維持に変わってきている。新市場原理主義、TPP、増税、資本流失、あらゆる格差拡大、そういう大きな政治方向の中に日本のファシストナショナリズムは埋め込まれている。