反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本の国民的ナショナリズムの今度の在り方によって、日本国民の多数の命運は決する。これが結論。

 前日の記事の要点である、
<<日本の旧ナショナリズムも最も目覚ましい役割は一切の社会対立を隠ぺいもしくは抑圧し、大衆の自主組織の成長を押しとどめ、その不満を一定の国内外のスケープゴートに対する憎悪に転換することにあった>>
 の丸山真男1950年執筆論文の結論に至る論証過程を辿っていた。
 
 結論部分は「旧ナショナリズム」と云う限定はいらない、支配層が市場原理主義路線を選択して以降、特に顕著になったナショナリズムの生々しい政治的機能、現象である。
 
>>前杉並区長の山田のアジ本をザット読んだことがある。
 大阪のハシモトもどちらかと云えば、この部類を強烈にしたファシストである。
 
 今風、市場原炉主義者のリアルなところが、解説されていて参考になった。
市場原理主義者が日本の歴史(新しい歴史教科書)君が代、日の丸、天皇をどう扱っているかはっきり示されている。
 
 私の感触では彼らは古いタイプの国家主義者ではないし、民族主義者でもない。ましてや奇矯な国粋主義者でもない。
 どちらかと云えば、多民族移民国家、市場原理主義がいきわたったアメリカの愛国心、愛国教育のような軽さ、機能的な感覚を持って、日本の旧ナショナリズムのシンボルを伝授しようとしている。
 
 これは二重の意味で社会犯罪的行為である。
 
 その1。
アメリカの愛国心、国家意識はアメリカ流の民主主義制度、意識と対になって市民社会に定着している。
前者だけ取り出すのは片手落ち、もいいところである。
 
 市場原理主義に徹底している国は反面として「民主主義諸制度が曲がりなりにも確立」している。
日本の民主主義はマスコミが得手勝手な情報を流せる民主主義。
 
 マスコミに該当するのは重臣リベラリズム」と云う言葉である。
市場原理主義の反面の民主主義が乏しかったら、労苦国民多数にとって、鉄格子のない、働く牢獄国家ではないか。
 当該者にそういう意識をさせない為に国家や民族の様な政治的幻想のIDに自己を確認するしかない人間を旧帝国の使い古されたシンボル操作で生み出そうとしている。
 が、それは半ば、破たんする。
 
 その2。
軽い気持ちで、機能的に愛国心民族主義、国家意識を徹底した市場原理主義社会実現の政治目的のため
機能主義的に利用しようとしているが、そのため持ち出しているモノは戦前の軍国主義のシンボルであり、そこには旧ナショナリズムのオゾマシイ差別排外の属性が不可分のモノとして付着している。
 
 当然、内外への一定のスケープゴートに対する不当な憎悪が人為的にかきたてられ、本当の社会問題が隠ぺいされ、大衆の自主的組織が抑圧される。
 いま現にそういうことが目の前で起こっている。
 
 >従って、結果的に、今風の軽いノリや機能主義的旧シンボルの利用は自分たちが予め想定する予定調和の枠を超えて、国民意識を暴走させる。
 
 日本のナショナリズムには古い戦前の体質が染みついており、それは今でも国民の深層心理の中に根付いている。日常の生活労働場面で払しょくされなかったと云うことだ。
 
ナショナリズムは非合理な感情に訴えざるえないから、東アジアへの差別排外は、底から湧いてくる。
 
 
 言い換えると、日本の国民意識、実生活の底辺に、そういう処があったから、経済効率一辺倒で社会を回すことができた。その歪がバブル崩壊後の停滞、原発事故に立ち至っている。
 
 徹底した現代風の資本の論理に日本社会、経済を染め上げていくという彼らの政治目的の実行は(この方向にしか日本の道はないと信じ込んでいる。云ってしまえば、日本の韓国化だ)、今現在の日本の大資本支配の中での実行するしかないのだから、あらゆる分野で格差大拡大や諸問題が派生することは織り込み済みである。もうそれはしょうがないと冷血に割り切っている。ファシスト的民衆観が付きまとっている。
 
 そういう観点から、旧日本帝国の諸シンボルを利用しようとしているが、その意図が今風軽さ、機能主義的なところが、あからさまに透けて見える。
乗りは軽い、機能主義丸出しである。
 
 しかし、それを真に受ける人たちが若者層を中心に増加していく。
そこには古い帝国意識の付属物であった倫理主義、ある種の共生的国家使命感は乏しく、煽動され、洗脳され、刷り込まれた差別排外のスケープゴートへの憎悪がむき出しになっている。
 
 ドイツのネオナチ運動そっくりだ。完全にまねている。
しかし彼らはドイツ当局の監視、取り締まりの対象となっている。
 
政治経済状態が悪い時、緊急事態に国家主義愛国心に訴えるのは容易いが、日本の場合は一端火がつけば、燃え盛る条件があり過ぎる。
 
 ただし、限界点もある。
 
まず第一。
 今の日本、これからの日本の国家としての限界。
 国民を犠牲にして支配層はアメリカに尽くそうとする。世界中でカネを持って素直に云う事を聞いてくれる国は日本しかない。
 
 旧ナショナリズムには元々、攘夷思想から変転した反米の要素があった。
 
東アジアへの差別排外のナショナリズム一辺倒は矛盾を抱えている。余りにも架空性が強過ぎて、リアル現状にそぐわない。民族差別排外しようにも相手は戦前と違って、目下でない、事は余りにも明らか。
 
 実体化しようとすれば、東アジアでの軍事衝突の小劇場を何度も画策し、いわば、戦争相手の様に取り扱うしかない。
そういう「戦争」が日本のためにならないことは、誰にも解りやすい。
 
その二。
 日本のナショナリズムは戦前の軍国主義体制でピークを迎え、敗戦によって一端、没落している。
ナショナリズムのは民衆の間に分散してきて、再度かき集めて再興しようとしているが、敗戦国的脆弱性を持っている。
 しかしアジアのナショナリズムは反植民地、民族解放を経て、戦勝国として日本から独立した経過があり、経済発展を踏まえ、いまだ、勃興中である。
  
 古い寄せ集めナショナリズムは新しいナショナリズムと衝突する機会が増える。
しかし、東アジアの経済関係は今やアメリカを抜いて一番となってきており、互いに不可分の関係にある。
 
日本支配層は本当のところ、ナショナリズムをドイツの様に手の内に入れる仕組みを作っておかなければならなかったのに、歴史、環境から、それができなかった。と云うよりむしろ旧ナショナリズムを政治的支柱にしてきた。
 
 暴走不可避の政治構造にある国民のナショナリズム高揚が日本のアジアでの権益の喪失に繋がるだろう。
日本の政治的孤立は深まるだろう。それがアメリカ依存に引き寄せるアメリカの対日戦略である。
 
従って、ここでも、丸山真男の提出した命題はただしい。
 旧ナショナリズムのを新装して市場原理主義貫徹の目的に利用する画策はヨリ上位の政治力の利用物である。