反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

大事に至ると、日頃の知識教養一杯の分析の底にある本当が暴露される。佐藤優、丸山真男。日頃の知識は商売道具。

 世の識者の中には、日頃、イロイロいうが、一般的に、その底にある立場が解り易く透けて見える人がいる。
ネット上で批判されている識者は、この部類に属して、バカにされ、怒りを買っている。
 
 日頃、変幻自在のち密な論理的思考、博覧強記を披歴する人がいる。
しかも、この部類の識者の数は希少。
 
 となれば、私の様な理論信仰の強いモノは、なんとなく、彼らに幻惑される。
 
 最近、丸山真男に凝っていて、連日、著書に蛍光タブをベタベタ貼って、学習している。そればかりでなく、その論理を使って、ブログ上で応用練習まがいのことを意図的にやっている。
 
 今日も、「軍国主義者の精神形態」1949年という、アチコチで識者から応用された論理の詰まっている論文を読み込んでいた。例によって蛍光タブを貼り付けながら。
 
今日はこれをもとに記事を書こうとしていた。
 そこで、タブを貼った処を再度読み直して、日頃のボッーとした頭で何とかしようと想いを巡らせてみた。
 
 すると、「これはいくらなんでもおかしいんじゃないかな」と気付いてしまった。
 
 思想として、足元がぐちゃぐちゃになっている、と。土台がキチンとしていなければ、その上にどんな荘厳な家を建てようが、グラグラになる。いやと云うよりも上に建っている家が立派すぎるほど、崩壊必至の家を知らず、幻惑される人が多くいる。
 
 「軍国主義者の精神形態」における丸山の執った方法論は日本の軍国主義指導者とナチスドイツの指導者を戦勝国の行った裁判における陳述などをもとに比較することである。
 そして、1930年代の満洲国樹立、日中戦争拡大に至った軍部指導層の偽ファシストとしての文武官僚の無責任体制下での矮小さ、分裂、自己欺瞞の言い訳を伴う悪事を事細かく分析し、ならず者がならず者として戦争指導者になったナチスドイツの指導者たちをその意味で対局に描き出す。
 
しかしふと気付いた。
 
 こういう方法論を採用すると、本当に戦時体制への鋭い反省、批判になるのか?特に行動を伴った。
 
 あれでは、読みようによったら、ナチスドイツ的戦時体制が美化されかねない。
読者は丸山の様な近代主義的知性、感性で戦前の日本軍の指導者をナチスドイツの指導者に対比してそのファシストとしての偽物性をカリカチュアライズし、民主主義の大地の上に踏みとどまっていられるとは限らない。
 
 単に軽く見て、馬鹿にして、日本の戦前体制が何よりも民主主義を力で踏みにじった、と云う肝心なところ確認できない。
 
 丸山の思想的本質はここのところを基本的視座に置いて、「軍国主義者の精神形態」ととらえていない。
 
 文武戦争官僚どもの天皇の権威を頂点とする無責任体制の精神構造の根幹は反民主主義であり、破たん必至の戦時独裁体制であり、丸山の提出するような精神形態は官僚体制共通の普遍的なモノに過ぎない。
 
 明治維新から経過した中で絶対主義統治機構が初期の血塗られた内戦から生まれた独裁としてのそれなりの責任性を放棄し、金融資本的国家官僚制に変質し、その特質が政治目的を明確にしない手段としての戦争政治の論理にずるずると引き込まれた。
 
 だから、丸山の挙げる文武官僚の偽ファシスト性は官僚の本質が世界戦争と云う極端な政治を用いるときに
満天下に明らかにされたのである。
 
 ナチスドイツ指導者はそもそも官僚ではなく、民間反革命政治家が戦争指導者になりあがったのだから、戦時の政治軍事判断に日本の様な官僚制の本質が露呈しないのは当たり前のことである。
民間ファシストの悪漢が悪漢の倫理と論理のままなりあがった。
ポルポト軍もジャングルの軍の掟をそのままプノンペンに適応した。
 だから、ファシストは初期のうちに打ち殺さなければならない、と云う原則がある。
 
 結果はどちらも云わずと知れている。
 
 丸山の云っている事は日本のファシストはそこまでしないと代わりに弁明している、と意地悪k見ることもできる。
 
 従って、丸山のそういう方向からの軍国主義者の精神分析は要するに日本は遅れていた、との確認に留まる。
悪い場合はキチンとした現代的翼賛体制なら緊急時は有効、と云う様な幻想が生まれる。
現に今、民主党や識者の大連立論理はこれでないか!
 
 丸山の曖昧性は<むすび>の部分は今でも識者によって使用される有名な戯画的政治的人間像の類型のカリカチュアで終わっている。
 「神輿」=権威、神輿を担ぐ「役人」=権力、「浪人」=暴力
誰かさんが言ったとか云わないとか。
「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」
 
 結局、丸山の方法論で軍国主義者の精神形態を分析していくと、最後はこういう、間延びしたカリカチュアに終わるしかない。
それは今でもマスコミ方面で通用している。政治を軽く見てコケにしている人たちには丸山真男の一貫して使用している論理、西洋の先進、日本の遅れは今もってテーゼである。
 
 >>さて、佐藤優
 おかしいと想って、翼賛体制を検索したら、佐藤優の大震災原発事故の緊急事態に「暫定的国家翼賛体制を樹立せよ!」とか「管首相は「管首相を大和魂で支えよ!」という5月16日付の記事に行き当たった。
 
 彼の日頃の評論活動の守備範囲はとても広大。
小沢一郎「支持」からマルクスキリスト教原理、国家機構分析、外交安全。執筆範囲もフジサンケイGから新左翼雑誌「情況」まで実にバラエティーに富んでいる。
 
 どうしてそういう大活躍ができるかと云えば、その分野分野、時々、ところ、において、評価に値するそれなりに魅力ある知識を披歴できるからだ。
 
 ただ知っている事を並べているだけにしては手が込んでいて、日頃の言動一般からは、佐藤優の実態は理解し難い。
 存在感、迫力ある見解に知っている事を並べているだけと云う事実はかき消される。
これはなかなかできる芸当でない。才能と外務省と云う国費での訓練の賜物である。
 
 しかし、大震災、原発事故の超緊急事態に至るとさすが、日頃の博覧強記の実体が明らかにされる。
 
「暫定翼賛体制」や「大和魂」で困難克服を主張する彼は、やはり、歴史的スパンの長い判断力の欠如、日頃の知識の表面性を露呈した。
 
 読書家の彼ならば、私と違って丸山真男の有名論文は頭に入れている。
 
 今は被告人になっている衆議院議員石川ともひろ、さんとマックスウェーバーの学習会をやっている事からも、
多分、この記事に取り上げている丸山の論文は念頭に置いていると考える。
丸山の戦前文武官僚の本質分析にウェーバーからの長い引用が出て来る。
 
 私に言わせると、丸山の様ないい加減な戦時体制分析が幅広く流通し、他はマルクス主義国家主義者の分析だけという寒い思想継承の現状から、佐藤優の様な緊急時に後先も考えず、思い切って「国家翼賛体制」や「大和魂」に舵を切る輩が出て来る。
 戦前もこういう類の転向者を輩出した。
 
 しかし、佐藤優に心配してもならなくても、大震災、原発事故では日本国家は滅びない。
 
むしろ、佐藤の様な緊急事態に血迷って極端に走る国民や政府によって、国家じゃなくて日本国民が酷い目担う。
 
 佐藤の弁に譲ったとして、今現在、将来の日本政治にアメリカ1930年代の様なニューディール体制はあり得ない。
 
 翼賛体制は貧欲、グローバル資本と金融寡頭支配の翼賛体制とならざる得ない。
翼賛体制で市場原理主義が解除されるわけでもなく、むしろ強化される。なぜなら、それは戦時体制のある種の兵士と後方の「平等体制」ではなく、大資本の跋扈する彼らのための体制だ。
 大震災、原発事故、国際政治軍事経済環境は戦争事態ではない。
しかし、そういう口実を国民に煽って自らの利害と多数国民には窮迫を貫徹する輩がこれから一杯出て来る。
 
国民多数派そのもとに組み敷かれる。多数国民は貧窮する。
 
 一端敷かれた、翼賛体制はその下に付属物が生じるから、都合によって解除されない。
ましてここは官がいったん決めたことは継続する宿命の日本。
 
 佐藤は外務省勤務時代鈴木宗男さんにロシア案件で近づいて、失敗させている。
信じた宗男さんも甘かったが、信じさせた方は悪い。
佐藤の分析は根本のところで間違っていた。
 
 今回の「国家翼賛体制」も深く考えない間違いである。
 
しかし緊急事態に佐藤の様な輩に引きずられる政治構造があると云う丸山真男の指摘は正しい。
 
 丸山のいいところは摂取して悪いところは捨てられるが、佐藤優の場合、究極のところ断定すると、同志社神学部の口八丁手八丁の学生活動家、政治ゴロの範囲は出ていない。
 
 なるほど初期の本は面白くて独創性があったかもしれないが、後のモノはほとんどが借り物の知識の羅列じゃないか!
 
 もっと言わせてもらうなら、石川ともひろ、さんは特捜検察に逮捕前、佐藤に頼ったから、まずかった。
 
当時の石川さんの様な動揺激しい人には特捜と会話すること前提とし、やたら理屈っぽい佐藤のアドバイス
間違っている。彼は自分と石川さんが、人間として、立場として別だと云う肝心なことが本当に解っていない。
彼は主観主義者、妄想癖のひとである。
 
 外務官僚が彼を遠ざけたのは、正しいかった。