何度も書いている様に、仮に自分が福島原発事故の直接影響の及ぶ範囲に生活していたら、この問題は自分で納得できるまで調べ、実生活に適応できる意見を必ず、持つ。
科学性、客観性を大切にする。
間違っても、「暫定規制値のほうれん草1キロを一年間、食べ続けても、CTスキャン1回分程度」などという、当時の政府スポークスマンの言に疑問を抱かず、こうあってほしい、こうあるべきだ、と云う、予断を判断材料にしない。
CTスキャンって、口から体内に入れる食品だったっけ?内部被ばくではなくて、外部被ばくだ。
ま、イロイロな角度から総合的に判断しなければならないのだろうが、事が科学的分野。
予め、特定の意見を証明するために都合のいい事実をピックアップするのが一番いけない。
政府、当局、官僚、学者などはこういう作業にたけている。
国家益と国民益は根っこのところで違いがあるとしなければ、国民大衆は酷い目に会う。
世界戦争に負けたのは、明治の正しい進路を軍国主義が横から出てきて、抑圧し、進路変更したわけではなく、明治の日清日露勝利から、敗戦までは必然の一連の歴史過程だった。
国家益と国民益を直結幻想させられてきた国民側の敗北ともいえる。国家主権に対し国民主権が及ばなかった、ともいえる。
認識の同心円的拡大=啓蒙の果たせる役割と限界がある。
漫然と正当性の主張を繰り返している時代ではない。
国民の政治的経済的要請に我々が心底、答えなければ、現代のファシストが台頭する。
その場合は、労苦する国民は鉄格子の見えない労働監獄の住人になろう。
>>福島原発事故発生間もなくになるが、自分のブログ記事で「人体実験が行われている」と書いたことがあった。
この言葉をどこかで見かけたから、使ったわけでなく、とっさに頭に浮かんできたモノだった。
その後アチコチにこの言葉が散見されるようになったようだ。
自分の今いる立場からは、そういう無責任な表現が精いっぱいだった。
今もその立場に変わりはないが、
人体実験の結果は、時間が経過すれば、ハッキリする。
その時、自分の側から、被害がハッキリしたつもりで国や当局を責任追及をしても、ハイ解りました、何とかしましょうとは国家は自分からは絶対に云わない。
裁判で争いましょうと、堂々と開き直る。
この瞬間から、国と云う非人間的な機構のシャッターが閉ざされる。
結局、裁判で争うことになって、告発側は生身の人間として時間も体力も金銭も消費することになるが、
生身の人間が云わば超巨大メカを相手に戦いを挑んでいる様なものだ。
ここに、国家=社会、家庭、個人とはいかない段差がある。
日本人の一部の度し難いところは、大きな非人格的組織、機構によって引き起こされた不幸、痛みはその対象が大きければ大きいほど、天変地異の様に受容してしまう処にある。
強いモノ、大きなモノの要請、圧迫にキチンと反抗できず、それを仲間内の争いや下位への抑圧として委譲転嫁する。
上から御抑圧に委譲する事が出来ない立場にいる社会の底辺、隔離層からは東アジアの国家民族への連綿として続いてきた「古くて新しい」差別、排外が沸き起こってくる。
「古くて」と云う意味は明治期の国家意識の乏しい民衆に、
A) 「明治政府が特権階層の主導する民衆疎外の変革であったために、民衆の間からの自発的能動的な国民連帯意識の成長に依存しえず(国民主権の萌芽であった自発的自由民権運動への弾圧)、しかも、不断の対外的危機感から、急速な愛国心の喚起に迫られて、国家教育によって上から急速に組織的に作り出さなければならならないという事情があり、
B) その内容として「国家意識の注入は<家族や村>に対する非合理な愛着と、何よりも伝統な封建的な家父長的忠誠(忠君愛国の観念、皇室の国民の総本家の家族的国家観)を大々的に動員し、これを国家統一の具象化としての天皇に集中することによって行われた。」
C) 「こうして、上から促成注入された国家的忠誠と普通教育普及の最小限度の産業技術知識によって明治期の帝国臣民が大衆の間で形成された。
そして、この上から促成で能率的に作り出された帝国臣民、国家意識は相次ぐ対外戦勝と帝国的膨張によって強化され、」
D) 「自我の感情的投射としての日本帝国の膨張は、そのまま自我の拡大と熱狂的に支持され、」
E) 「市民的自由の狭隘さと経済性格の窮迫から来る失意は国家の対外発展のうちに心理的代償を見出した」
F) 「支配層は不断に対外的危機感を鼓舞しつつー19世紀末からの帝国主義時代はその格好の地盤を提供したー国民の動員に成功し、社会的分裂の兆しを一切回避した。」
以上「 」部分は丸山真男からの引用。
<新しいは熟考ちゅう>
現代政治論になる。先に挙げた丸山の戦前ナショナリズムの分析では、<庶民の中からわき起こる古い差別排外>のリアルさに絞った視点からは満足できない。差別排外が沸き起こる論理優先でを語っているのであって、実態を論理化していない。
尤も時代的制約がある。
日本の在来思想の枠内で日本の負のナショナリズムを批判しつくすことはできないと想う。
常套手段は先進の欧米の歴史と制度からの遅れ指摘だが、それで上手くいっていた時期は過ぎている様な気がする。
やはり世界の中に日本を置くことだろう。
簡単に東アジアの共同性と云えない歴史は丸山の新旧ローマ帝国の共同性などを引いた論拠で理解できた。
アジアはもともと分裂してきた。今も近隣で民族国家としての統一さえできていない。
キチンと、丸山の論拠を挙げたのは、新しいナショナリズムを考える土台にしたかったからだ。
しかし、ハッキリしている事は丸山の論理を他の論文で辿って云っても、現在の日本の新しいナショナリズムを理解する「枠組みがない」ではないということである。
冒頭に挙げた人はそういう日本国民にある膨大層の歴史上、連綿と継続してきた傾向を緊急事態に何とか保守し、その上に立って、己の特定の政治イデオロギーや立場、利害を貫徹しようとしているのだ。
<以下の記事は前後関係を無視したモノ>
<途中で挿入した丸山論点への深入りでおかしくなっている>
このような日本の悪い伝統的意識とそれに乗じた宣伝扇動行為は日本の内外を取り囲む環境が悪化していくとき、日本の政治をヨリ硬直化させ、ヨリ一層選択肢のない窮屈な処に追い詰めていく。
国民各層に巨大に潜在してきた情緒、感情に発露の道筋を一端、付けてしまうと、コントロールが利かず、独り歩きし、暴走していく。
それは必然的に東アジアの煮えたぎる民族主義と衝突する機会が増える。
向こうにも彼らの様な偏狭民族主義者が台頭する必然性があるし、当局は利用できる立場である。
敗戦によって没落し、再度、底辺から拾い集められた超民族主義と国家主義に対して東アジアの台成長する経済力を背景として台頭するする民族、国家主義の衝突は東アジアを個別分散状態で分裂、対立させて己の覇権の価値を高めようとする、太平洋を遠く隔てたところにに本国のあり、、日本韓国に駐留軍を置き、個別の軍事同盟を築くアメリカの基本戦略である。
アメリカや半買弁、利権癒着層の手先である。
しかし、あくまで自分の外側に自分に関係なく、どうすることもできない、進行の過程の中にある大きな状況をこうあってほしいという願望、予断で裁断すれば、自分的には当面、すっきりするかもしれないが、進行していく状況に最後には裏切られる、事が多い。
情況が大きければ大きいほど、自分の外側の状況へのコントロールは利かない。願望、予断通りにならない。
日本を敗戦に導いた戦争指導者やその追随者の基本思考パターンである。
今進行している事態は戦争による国家破壊と云う種類ではなく、国民多数の生活破壊なのである。
すぐ「国が滅ぶ」と何よりも、大声で煽るのは、進行している事態が国の破壊ではなく、多数の国民生活と生命の破壊である真実を国家機構と云うメカニズムの破壊に大きくすり替えている。