太郎さんを知ったのはニューギニア奥地の現住人と共に真っ裸になって、同じ暮らしを体験する番組だった。
真っ裸だから、体をよく鍛えているのが解った。言動もきびきびしていて、体当たりで原住民の生活に溶け込もうとする姿が爽やかだった。
あそこまで体を絞り込むのは普段の節制、鍛錬がなければできる事でない。なかなか気合いの入った今のタレントさんとしては貴重なキャラだな~と想った。
しかし、普段、全くと云っていいほどTVを見る機会がないので太郎さんは記憶の底に沈んでいった。
俳優、山本太郎の印象が強烈に焼き付いた。
このV シネのコンセプトはこうである。
その男気からついつい弱きを助け強きをくじく羽目になってしまい結果的に毎回「正義」を演じてしまう。
このストリーの中で警察力を利用した懲罰は一切登場しない。
一封変わったやくざ映画ともいえる。
>この準主役にさらに重要な隠れた役目が追加している見る。
そこで、準主役の社員演じる役者に力量が要求される。
演技力、個性のある役者がわきを固めなければ、主役の竹内の大根役者的絶大個性が浮いてしまう。
山本太郎さんの準主役振りは抜群だった。見方を変えると主役の竹内のキャラを食っているともいえる。
そこに奇妙なバランス、バリエーションが生まれ、ストーリーのエンターテイメントとしての完成度が高められている。
太郎さんは純関西のヒトだから、関西弁は板についている。関西弁の柔らかさを巧みに使いこなし、場面のシビアーさをユーモアで緩和している。そういう太郎さんの雰囲気に、身のこなしのしなやかさが追加してさらに演技に磨きがかかっている。
俳優として完成度の高い役作りと演技である。
>しかし、太郎さんの役作りと演技は何処かで見た記憶がある。たった一例。
そうだ!
映画黄金時代末期の大映映画「悪名シリーズ」で八尾の朝吉を演じた主役、勝新の子分、「モートルの貞」こと清次を演じた田宮次郎の、緊張をユーモアに変える関西弁の言い回し、柔らかい身のこなしにコンセプトが生き写しのようだ。
この映画の中での田宮は主役を引き立たせる準主役のわきまえと主役に対抗するキャラを演じ切って、エンターテイメントとしての幅と奥深さをもたらしている。
今の俳優さんで日本映画黄金時代に観衆を沸かせたスターたちの凄みのある役作り、演技を再現できる人はいない。彼らは時代が作った人たちなのだから。
勿論、太郎さんは悪名シリーズでモートルの貞を演じた田宮次郎に学んでいる事は云うまでもない。
ただ解っていてもそれができる人とできない人がいる。こればっかりは努力してできる範囲を超えていると想う。
役者稼業の難しさだろうか?
山本太郎さんはモートルの貞の田宮次郎を現代的に再現できた役者さんである。
>なお余談になるが「悪名シリーズ」は勝新がまだ独身で役者として昇り竜の頃の作品であり、男としての色気を醸し出している今では隠れた名作といえよう。
(この前、TVで明石家さんまがうれしそうに「悪名」シリーズの田宮次郎を語っていた。多分、あの演技が田宮次郎、最高の演技じゃないだろうか?)
八尾の朝吉の勝新は強いばかりでなく、男のはにかみ、羞恥心を巧みに演じ分けている。
酒席に招かれて、酒が一滴も飲めないので申し訳なさそうに断って、場違いにジュースを飲んでいる姿が毎回登場している様な気がする。
大酒のみの勝新が演じ切っているところが、役者として凄い。普段酒を飲みながら、そういう人の存在を何気なく観察ししていたのだろう。繊細な神経の人である。
やしきたかじんの様なけたたましい独りよがりの人物にわざわざテレビで遭遇するのは避けたいので一切見ないことにしているが、彼自身、今はもう関西に住んでいない。住環境が悪過ぎて最初、函館に移住したところ、そこも地球温暖化の影響からか、夏は結構暑くて、今は札幌在住らしい。
テレビ画面で云いたい放題の事を云っているようだが、実生活は結構、繊細でしっかりしている。個人主義者だろうな。
京大の小出さんは原子炉実験所が大阪泉南の熊取にある関係上、大阪に住んでいるらしく、「大阪の夏は日本一暑い」とか云っていた。もっとも彼はずっとクーラーなしで夏を毎年、やり過ごしているのだから、日本一暑い夏になるのは当たり前なんだけど。
結局、今年の夏も早朝、ウォーキングし続けたが、帰宅すると体重が1kgぐらい減っている。涼しくなった今、同じコースを歩いてもほとんど汗をかかない。
夏の早朝、ストレッチして筋トレ、ウォーキングの毎日にフト想う。「こんな事やっているのは体に良くないんだろうな~」
それでもやってしまう毎日だった。
高温多湿そのものの大阪にも人によって其々の夏がある。
>>今回の原発事故。
しかし、人によって其々の原発事故はある。
>近所のスーパーに福島産と明記したキューリが山積みになっているのを何日も見た。
ここは大阪。わざわざ福島産を持ってこなくても産地はいくらでもある。
経営者の心意気で陳列している、と想う。そういう経営者である。
が、福島産のキューリの前に買い物客が立ち止まっているのを見た事がない。いつ行っても積み上げた山のかたちは変わらなかった。福島産キュウリは客の話題の端にも上ることなく、無視され続けた。
みんなナィーブな事なんだと解っているから、忌避するような態度をとっているのだろう。
論理じゃなくて情緒で忌避している。
論理的拒否ならば、買い物客は福島産キュウリを話題にする事を厭わないはずである。その結果の買い物拒否である。
忌避している根拠が情緒だから、みんな阿吽の呼吸で押し黙って避けてと通り過ぎていく。誰かが思い切って、立ち止まる事もない。私も福島産と云う表示に目をやっただけだ。
良い悪いは別にして、大げさにいえば、これが日本人のサイレントマジョリティーの姿が表出した瞬間じゃないか。
結局きゅうりは一切売れなかったのじゃないか。全部廃棄処分だろう。
ただそれでも、福島のキュウリ栽培農家は助かる。
しかし、大阪のスーパーでは福嶋産キュウリは全く売れない。
其々の暑い夏がある大阪で、この粛々とした忌避感は広範に広がり、強いモノがあると云わなければならない。風評被害などと云う範囲を遥かに超えている。
事は命健康に直接突き刺さる問題だとだれもが肌身に感じているから、粛々として、断固、忌避する。
戦後の日本人は命と健康を大切にしてきた。人間にとって一番貴重なモノを人生、社会の中心においてきた。
大震災、原発事故は、そういう戦後の日本人の大切にしていたモノを直撃した。
強烈な拒否感が国民間に充満するのは当たり前であり、国民の多くがその地平に踏みとどまって、国家にモノ申すのはこれまた当たり前のことであり、この事態の中で権利としてそうする必要がある。国家益の中に国民の生の生命、生活を解消できない。
いやむしろそうしたベクトルに国民の多くが身を委ねてきたからこそ、戦前の日本は敗北した。
情緒的判断を嫌う私も絶対買いたくなかった。科学的見地から暫定基準値が正しいと判断したら、誰も買わなくても一人でも買う。
実際、基準値については今でも、どの説が正しいのか判断できていないが、一つだけ確信めいたモノはある。
当局の云うことは信用できない、安易に信用したら酷い目に会うと云う事だ。
その証明は原発事故当初の現場状況の判断において、自分がネットで調べた結果とTVでの識者の発言、当政府や当局の発表があまりにも違い過ぎることである。
私は現場状況をある程度理解できる知識と経験を持っていると自負していた。
その結果、自分を信じることにした。
彼らはあくまで、国家や会社保守の立場に立っている。
それと我々、生活するモノの立場は違っている。
向こうは超緊急事態だからこそ、膨大強力な機構を保守する立場。
こちらは生身の人間の立場。
見解、判断が異なるのは古今東西当たり前にことであった。
これが解らない、理解しようとしない人は人、自分の立っている足元も見つめず、一つのイデオロギーの虜になった人たちである。
福島や、もっと広い範囲で今進行している事態は一種の人体実験である。
しかし、その結果は灰色に塗り込められる事を当局は熟知している。
巨大国家機構、を相手の裁判で勝利することは気の遠くなるほどの時間と労力金銭を必要とする。
が、そうしなけらばならない様な暴走が不可避な原発事情が日本に厳としてあると云うことである。
だから、自分で自分を誤魔化し、信じることでみんなを説得するしかないのだろう。
>>俳優、山本太郎さんはオカシイことをオカシイと公然と言い放っているにすぎないが、そのために自分の俳優としての生命と生活を犠牲にせざる得なかった。
これが今現在に日本のリアルな政治状況である。