反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

レーニン「国家と革命」を今の日本の政治状況の立場から読み解き、常識に痺れて固くなった頭の中身を解す。

  ようやく、体重調整がほぼできた。
標準体重より、4キロ程度絞り込んだ状態維持を心がけている。
食事面のカロリー制限は全くやらず、有酸素運動をしながら絞り込んでいくから、最終的に変わった行動をとらなくていけないようになる。
 
 大きな図書館の階段を繰り返し上り下りする。額に汗が出てきて、下着がぬれて来る。1000段以上を目標とする。
 気温が低下していく季節に適度に利用させてもらうことにする。
やっぱり、冬でも効率よく汗をかかなければ。
 
 冷房が効いている真夏に何回かやったことがある。閑散とした大きな地下街も利用する。
夏場は汗が邪魔になる。
 
 基礎代謝を高いところに維持しておくことが肝心。
と云うことは、全身の筋力をつける事。柔軟性、俊敏性を維持する事。
加齢すると、軽い筋トレも欠かせない。
広い道路の横断歩道をダッシュしてみると解る。スッパッと体のキレのある状態維持が大切。
 
 ウォーキングの姿勢は腕を競歩状態にしていたほうがいい、と解った。みっともないから、やらない様にしていた。やはりやるべし。
胸が張って、肺に酸素を無駄なく取り込みやすく、姿勢が理想的になり、余計な負荷がかからない。速度も無理なく上がる。
 
 今年の夏は体調を崩し気味になった。
慣れない読書に集中したからだろうか。必要なモノはノートを取りながら、読みん込んだので時間がかかった。
 
 その中にレーニン「国家と革命」がある。
レーニンはこう云っているようだ。
 
思考は柔軟を心がけて、頭を使え!
 
 レーニンを読み込むと、実に柔軟思考、リアリズムに徹して、{原理原則を創造}している事に感心する。
{原理原則は創造}したモノでなければ、本当の力を持たない。
ただ無から有は生まれない。
自分なりに過去の貴重なモノを再構成する必要が生まれる。
 
 彼のモノは、読むモノから、行動しなければ、と云う切迫感を引き出す。
釈迦の説法や啓もうはない。
 ただの知識の拡大、深化は何になるのか?
学者さんじゃあるまいし、邪魔になるだけだ。
 
 >さてと、今回から、連日、借りてきた本の大切な個所の抜粋と再構成に突入する。
 
 こういう作業を放棄すると、本当に前に進んだことにならない。
アジ、ビラみたいなモノを何回かいても自分にとって、進歩はない。
 所詮、人様に云うべき事は何もない、自分をわきまえよ!
いかし、やろうと、想っていても、結局地道な苦労はしたくないモノ、安易に流れる。
 
 >>「国家と革命」。
 翻訳者は防衛大学準教授。1994年~1996年在ロシア大使館勤務とある。まだ若い人。
この方は佐藤優さんのような専門職試験で外務省に入省した人と想う。
ま、情報収集官、解りやすくいえば、スパイ。
 
 防衛大学の学長に猪木正道と云う有名な学者さんが昔いた。反マルクスの立場から、真面目?にマルクスを研究している学者さんだ。丸山真男対談集にも登場する。この方はその系譜に連なる人だろう。
 
 研究すべきところでは、今でもキチンと研究すべきモノを研究しているのだ。
世間が流行りを追って、やってないだけだ。
 
 「国家と革命」は血の流れる政治を前提とした本である。本質論がそこにある。
 
この本の著者の環境から、佐藤優さんの様な、マルクスやらなんやらをごちゃ混ぜに論じるバックグランドが解った。彼はこの「国家と革命」の翻訳者の様な環境で思想?を成長?させた。
 珍しがっている世間が浅いのだ。 
 
 ただ、私はこの翻訳者があとがきに長々と書いている様なロシア革命と官僚制肥大の必然。議会と官僚制との政治バランスという、抽象的な議会制民主主義肯定の現代的視点に関心はない。
彼はその意味でマックス、ウェーバーを評価している。
 
 >ところが、この視点でマックスウェーバーを点検してみると、ナント彼の基本思想にヒットラー登場の露払いの様な処を発見した。私の様な論点は珍しい。
 
 ドイツ官僚制への対抗物としての議会の役割の決定的重要性を論じるウェーバーが議会政治の中で訓練、選抜されたカリスマ政治指導者にドイツ帝国の興隆を託している。
 
 この意味を問題にしてこそ、本当のロシア官僚制批判である。
彼にはそれが全くない。
従って、通俗論、今の役に立たない。先進国では世界的傾向として金融寡頭制が進展し、議会制民主主義が空洞化している。空洞化させるやり方には各種ある。アメリカのティーパーティー。日本の大都市首長の政治。
 世界的な時代基調としては先進国で民主主義は対抗し、後進国で前進していく。
民主主義は先進国内において偏在していき、世界的には不均等発展している。
 
 ワイマール議会政治の様な民主共和制の中から、ある条件は整えば、ヒットラーのカリスマが登場する。
これはリアル日本の政治問題に通じる?
勿論歴史は螺旋的に発展して同じ事は繰り返さないが、衆愚政治を伴った事実上の非民衆政治への展開の条件を我々は冷徹な視線で見据えていく必要があるまいか。 
 
 学問世界も移り変わりが激しい様で、この前、大きな図書館に云って、マックス、ウェーバーの著書を借りようとして検索したら、在庫になかった。仕方がないから、彼を評論したヨーロッパのモノを借りてきた。
物凄くレベルが高かった。日本のカン、サンジュンさんなんか足元にも及ばない。
 
 レーニンのモノもこの「国家と革命」だけが偶々、あっただけ。
 
 しかし、読み込んでみると、年の所為か、大昔に読んだ時は全く気付かなかった新しい発見ができる。
そういう処は、革命に逸った昔、読み飛ばしていたと想う。
今の日本に昔と違った、新しい課題が持ち上がっているともいえる。
 
 それがまた、今の日本を読み解く事に応用できる、様な気がする。後は自分にその力があるかどうかだけど。
 
 原典になるモノが事実上、絶版状態では、芯のある政治思想は出てこない。
 
 所詮、みんな先達のモノを参考に自分のモノを生み出しているのだから、固い核になる原典は確保しておかなくちゃ。浮つたモノしか生まれない。
日本の現状は、外国思想の輸入屋、紹介屋、剽窃屋に過ぎない、と想う。
民衆の間に政治思想の核、独創性が希薄だと、結局、時代の洪水に流されてしまう。
そしてまた、一に近いところからの民衆思想ー政治の再建になってしまう。
インターネットの時代だからこそ、浮つきやすい。
 
 強く、現体制に反対し続けるモノには思想がいる。誰が何と言おうと、それが真実である。
 
   >時間不足により、この項次回に続く