反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

橋下圧勝劇から一夜明けて、植草一秀、天木直人さんが持論の核心を展開しているようだ。検討に値する。

  橋下圧勝劇はすでにずっと前から織り込み済みである。
 
>まず天木直人さん。
 11月28日付の記事、「今、橋下、渡辺、小沢に云いたい事」
 
小沢さんの政治活動は国家権力とマスコミに力で封じ込められて今日があり、明日がある。
小沢さんは裁判闘争と政治活動を両立しなければならない立場にある。
 
 そうした、当たり前のリアルな実態から、アカラサマニ指摘すれば?
小沢さんが裁判で有罪判決を受ける可能性がある。今までの秘書たちの判決内容を検討すれば、そういう結論も出鱈目でないことが解る。
 
 こういう政治のリアルな実態を前提として論を立てずに、橋下、渡辺などのマスコミに祭り上げられたような風評政治家と同列に並べたてアレコレ持論を述べる立場こそがいい加減な抽象論、政局好きの政局知らずだが、そのシビアな自覚が乏しい。
 
 戦う立場の確立のない、実体的政治論のない、個人主義的な大所高所からの一方的見解表明スタイルがこの人の特徴である。
 その絵空事、支離滅裂振りはこの記事の中でも一貫して発揮されている。
 
>「橋下、が公務員や労働組合とどんなに激しく戦ってもかまわない」
が、「日の丸君が代に拘った教育を推し進めるなどといった右翼、軍国主義的言動を繰り返すようではお終いだ」
 
 大阪の諸問題を公務員職員の所為にする事と教育の場に余計な強制力の持ち込みは橋下の中では思想的に統一されているから、ハシズムと云われる。
 尤も、天木氏は橋下教育政策を切り縮めて理解し、その実態を十分暴露できていない。
 
記事を読む限り、天木による橋下の問題点は「日の丸君が代云々」に尽きている観がある。
 
ところが、
橋下にとって日の丸君が代市場原理主義世界日本にするための単なる一アイテムに過ぎない。
市場原理主義政策を押し進めるとあらゆる分野で格差が拡大するが、それに対する鬱積する不平不満を<日の丸君が代の排外的国家幻想で解消>させようとする明確な政治戦略が橋下らの新自由主義政治家にはある。
従って、本物の憂国の方々も異論があるはずだが、天木の論調ではこうした人たちとの連携を護憲主義の観念の枠内用語で語る事で寸断する。
 
 立場いかんにかかわらず、誰でもが知っているこれまでの橋下政治の実態を日の丸君が代の強制に切り縮め、橋下本人の心がけ次第では、是正可能な条件の如く、あえて描き出している。
 
天木氏のその様な言説は「戦う立場抜き、リアルな実体政治論の欠如した個人主義的な大所高所からの一方的見解表明」だ。
 
 自分の論点を状況変化しても絶対に傷がつかない抽象的な高みに観念操作して押し上げている。
 
 対米従属からの自立、対東アジア諸国との過去の歴史清算憲法第9条にもとずく、傲然とした平和外交の推進。
 
 天木の核心に沿って、考え、それを政治の場で具体的に実行することは大変なパワーを要する。
これを国民のピープルズパワー的決起抜きに優秀な政府と官僚で成し遂げられるような誤解を国民に与える言説が特徴である。
 
が、それにしても、天木の橋下への批判は弱すぎないか?
 
橋下の政治はそれなりの一貫性がある。
 
徹底した市場原理主義政策の本性を隠すため、日の丸君が代の排外主義的国家幻想を煽る一環として、民族排外的な対中強硬論も位置づけられている。
 
 だから、橋下の様な悪質極まりない詐欺師とは徹底的に対決すべきであって、渡辺、増して小沢氏が
「それを改めない限り手を組む事はできないと云うべきだ」などとい云う政局次元ではない。
 
橋下問題は目先の政局次元の問題ではない。国のかたちの問題にかかわる次元を政局として騒いでしまう腰の軽さがある。
 
 なお、渡辺と橋下は強烈な市場原理主義において同根。全部の政党が橋下政治に反対した訳でなく、「みんな」とは共闘してきた。
 
 何でも既成の政党が反対に回っているから、政治的価値がある訳でない。
 
要は多数の国民にとって、その政策のもたらす利益である。
対米自立した日本が、ファシスト政権だったとい事も考えられない事はない。
戦前の日本がそうだったではないか?
 
 
 >>次に植草氏の記事への検討。
天木さんの様な穴だらけの論理はない。一貫性がある。
 
「主権者国民」と云う、日本の民主主義の現状を踏まえ、自覚を即す意味合いを込めた、積極的政治主体の設定は「政官業外電」に手短にまとめた癒着構造指摘と並ぶ、植草さんのヒット作である。
学ぶべき点がある。
 
また、今後の政局の進展における、基本的判断基準を3つ挙げている。
国家による強権政治。
対米隷属政治。
 これら三点が不可分一体なモノとして、一挙に多数派国民の頭上に覆いかぶさろうとし、政治の大きな流れが生み出されている。
 
こうして手短に整理された、敵の総攻撃、総路線に対して、どうやって、幅広い戦線で連携し戦っていくかと云う政治課題の設定は全く正しい。
 
>しかし、植草さんの地方自治に関する議論は納得できない。
 
 全国地方自治体を300程度の人口40万人程度の強い権限を持つ地方基礎自治体に再編する。
人口40万人程度の大きさでなければ、住民の声は自治体執行部に届かない、としたうえで、人口の多過ぎる大阪市を40万人程度の基礎自治体に区分して、其々公選制の首長と議会を持つことに賛成するという意味で橋下大阪都構想に賛同を示している。
 
 これでは何の事はない、東京都ー特別区の大阪における再現である。
以前冗談で廃藩置県の昔に戻った意見と揶揄したことがあるが、本当に「藩」の様なモノと規定している。
 
 私はこれが間違っていると一貫して主張している。
 
そもそも、橋下大阪都構想においては、そうした都ー特別区の関係は単なるリップサービスに過ぎない。
 
橋下の大阪都構想の本音は財界の一貫した主張である、道州制にあり、植草さんの思い描くような、強力な自治権をもった基礎自治体などと云う経費と手間のかかる公選制の首長、議会の民主主義は念頭にない。
 以前、比較的まともな、小沢支持で参院選民主党候補に立候補した、流通業界の経営者の地方自治論を目を通したが、現状はカネがかかるから、スリム化するため道州制導入を!に尽きると想った。
そこには植草さんの様な民主主義と地方自治の手間とカネのかかるきめ細かい観点はなかった。 
 
仮に公選制の首長や議会を東京の様に認めても、現時点の東京都ー特別区の関係において、特別区側の自治権がどれ程認められているだろうか、甚だ疑問である。権限権力は都側に持っていかれているのが現状jじゃないんですか?
 
 そもそも、東京府東京市の関係を都ー特別区に転換した時点の内務省官僚側の画策として、権限、権力の都への集中。そしてそこにおける、権限強化した地方官僚支配(これは内務省天下りにもなる)と中央内務官僚の癒着が実体的に形成された。
 
 言い換えると都ー特別区の成立によって中央内務官僚の権限と権力は強化された。これが行政の中央内務官僚による上からのコントロールと治安警察行政の一体的推進と相まって、軍部と並ぶ、戦前日本強権支配体制の実体的基盤となったのである。
 
 橋下の地方自治政策は、このような観点から、批判しなければ、必ず足元をすくわれる。
 
橋下の本音は市場原理の跋扈する世の中で数少ない公共空間として保持しなければならない、地方自治体行政に民間の競争原理を導入するに尽きる。
教育政策にもその観点が貫かれており、日の丸君が代は一アイテムに過ぎない。
人間を市場原理に屈服させ、愚弄する真意を見抜いているからこそ、怒りがわきあがってくる。
 
 さらに話を進めると、今の日本に、植草の様な300の強力な自治権をもった基礎自治体に再編するような時間、カネ、政治的余裕、民衆の意識レベル、はないと考える。
 
 そういう国家に基本組成に関する中央ー地方の関係や其々の中身は、識者がただ今現在、頭の中であれこれ考える問題ではなく、民主主義闘争の発展の中で具体的に浮上し、構想されるべき事だ。
 
 >これは、資本主義勃興の地イギリスにおいて、市場原理の進展とともに、歴史的経過を持って導入された制度であり、その場合、イギリスはヨーロッパ大陸の様に中央集権的官僚制度の発達はなかった。
 
 封建領主の支配が地方分散されていたという、歴史的条件の下に資本制における地方自治が市場原理の矛盾を補うために形成されたという歴史的側面を無視できない。
 
 従って、徳川の中央集権的封建支配が前提となって明治維新の中央集権国家が形成された日本において、いくら、戦後民主改革があったにしても、現状の民主的中央集権制を敢えて覆す事はないと考える。
 
 あるとすれば、ただ唯一、革命が起こって、本当の民主主義を担える国民的実体が生まれたときである。
 
その前提がないのに、強力な自治権をもった300全国自治体への再編は絵にかいたモチだ。
権限権力を権力維持、物欲達成のために利用する輩が後を絶たないだろう。
 
 従って、敗戦時に形成された現状の象徴天皇制と中央集権「民主共和制」の制度を中身を濃くして運用していくことが求められていると考える。
 
処が、橋下、財界らがアレコレこの次元の問題に口出し始めたのは、進展している最中の自分たちの金融寡頭支配に戦後民主主義制度が邪魔になってきたからだ。
 
 それまで外面だけ保って、中身を改変してきた戦後保守政治が資本のグローバル展開と国内経済の長期停滞の中で、より自分たちに都合のよい、機動的な「国のかたち」を模索し始めたからだ。
どうしたら、国内において、これ以上、大きくならないパイの分け前を獲得できる政治システムを構築できるかと云う処に奴らの最大の眼目がある。
その為には、奴らはあらゆる手を駆使する。
橋下政治はその1形態に過ぎない。
 
よって、橋下の様な奴に300基礎自治体論で対応しても、橋下と一緒になって、庶民に目暗ましをかけている様なものである。
 橋下の様な奴はあくまでも打倒しければならない対象でしかない。
 
  <追記>
レーニン「国家と革命」1917年から、引用しておく。
「1871年段階における英国は純然たる資本主義の典型であったが、軍事機構を欠いてたし、官僚制についてもかなり同じ事が云える。英国では当時、<既存の国家機構>を破壊するということ前提条件なしでも革命は可能に見えた。実際にまたそれは化のだったのである。」
レーニンはそれに続く記述で、今は1917年である。最小の大帝国主義船頭の時代であるとして、次のように述べている。
「軍事機構と官僚制がないという云う意味で世界最大にして最後のアングロサクソン的{自由}の体現者だった英国も米国もヨーロッパ全体を覆う血塗らてた官僚軍事機構の泥沼にすっかりはまりこんだ。」
  住民参加型のアングロサクソンとその植民地における<<地方自治の発展と市場原理主義の政治的均衡関係、その反面としての中央官僚制の未発達による、社会勢力間の国家的調整能力の不足>>、に関しての問題意識が乏しく、全部、帝国主義時代の中央集権的軍事機構に解消している。
 アングロサクソンとその植民地における住民参加型の地方自治の独立性はドイツフランスの中央集権的官僚民主制と違っているが、経済社会の市場原理の貫徹を中央で統制するか地方で統制するかの違いは大きいとみる。
地方で市場原理を規制すれば、より住民の任意に委譲される。中央統制の場合は国家権力統制になるから大きな規制を市場原理は受ける。
 日本は戦前戦後、中央で統制してきた。またイギリスと大陸移民国家の事情は異なっている。
この辺から考えても小沢氏らの300の強力な権限を持った基礎自治体論は絵空事で結局、多数派国民を道州制の方向に連れていく、政治の流れを作る出す助演者の役割を果たすだけだと考える。
気分に流されず、良~く考えて、欲しいモノだ。