反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

東電破たん処理について。天災人災。橋下の様な上からの開き直りの政治災には、<路傍の石路線>で開き直る。

 久し振りにブログ更新。推認って、ヤツでほとんど憶測混じりの内容になった。
ただそれでも間違ってないと。何か推認裁判官めいているが。
 
 東電を破たんさせたら、気分は壮快かもしれないが、国民が余計な混乱を背負い込むだけだ。
重要案件は、いくら庶民といえども、感情に走ってはだめで、政策的合理性と云う面で考えないと。
 中途半端な考えはダメだ。革命をやるならやるで、徹底するが、やらないならば、政策的合理性を最優先して判断する。
 
 原発事故現場の廃炉作業、福島現地の被災者、最優先だ。
その為に、どういう方策が現実的なのか。
 こういう方向から考えると、とてもじゃないが、東電を破たんさせてしまえ!は現実的でない。
 
 潰そうが、どうしようが、東電を矢面に立たせる、というのが、政府の方針だ。
 
 みん党が政権に入っても、自公政権であっても、国が責任を持って、と云う小沢さんであろうが、今の日本の統治機構を前提にするとそういう手法になる。
 
 「民主主義」の統治機構では簡単に国は国民の矢面に立たないようにできている。 
国の中枢とは中央官僚機構であり、政府だ。
 
 コレが戦争事態だったら、国が前面に出てくる。
 この次元の問題が発生したら国が前面にたって解決する。
 
 そもそも、日本の様な最悪の原発立地条件の国において、原発を稼働させる主体は国でなければならなかった。
 また当時の日本の政治経済の成熟度からしてそうすべきだった。
元々、核分裂作用のエネルギー利用は大量殺人兵器として開発されていくのが常道でまた容易い道でもある。
日本の様な工業国がそういう道を歩めず、いいとこどりの様な経済利用だけに特化した処にも、原発村の不当な安全神話の暴走の原因がある。最初から安易性があるから、目先の経済効率を追い求めてきた。
 
 しかし、日本国土の置かれた条件で原発を林立させるという事は戦争をやっている様なモノだった。
 
この自覚が支配層に全くなかった。
ここもアメリカによって、去勢されて、今度は、戦前とまったく違った方向の経済幻想をでっち上げた。原発安全神話はその中の一部だ。
 
 現実を真正面からリアルに見つめないで、得手勝手な集団政治幻想をでっち上げて、ひと塊りにさせておいて、間違った方向にまい進させる。
多元主義と云うモノが、元々民族的に欠けている。
危機的自体にはこういう民族性が前面に出てくる
 
現時点やTPPを含む将来から振り返ってみると、こういう総括も成立する。
国家、民族としてのしかるべき合理性から、だんだんかけ離れて、オカシナ方向に漂流している。
 
 日本の原発は民間会社が戦争の主体になっている様なモノ。だから国は原発事故で東電の背後にいる。大間違いであるが、自然の流れである。破たん処理とは、国の関与を薄める方向になる。市場原理主義の匂いがプンプンする。
 
 >大震災も起こるべくして起こった。それに付随する原発関連事故はまた確実に起こる。日本列島の組成からして。
 
 もっと短いスパンでも、大地震は繰り返されてきた。
日本列島の東北半分の太平洋側でプレートの巨大な軋みが発生して、直近の江戸時代には、東海等南海大地震に4年程して連動している。
 
 元禄時代が終了したのは、天皇が死んだわけじゃない。関東に大地震が発生して、縁起が悪いから、将軍が年号を勝手に、<宝永>に変えた。 
 
この宝永に変えた4年後に、日本有史以来最大の<宝永大地震>という東海、東南海大地震が発生する。このとき富士山も一緒になって爆発している。中腹にある宝永噴火口がそのあとだ。地震も火山噴火も同じ地球の営みとして連動性もあるだろうが、コレと台風の通り道が重なって、世界じゅうでここまで天変地異の激烈な処はないだろう。
 従って日本人は有史以来、環境に逆らわず、概ね静かに仲良く、暮らしてきたのだが、そういう民族に限って、一端外から刺激を受け出すと、自分を見失ってしまう。外部刺激に過剰反応を引き起こす。
 
 >大阪のある橋のたもとに、幕末安政時代の記念碑が建っている。
 
当時の大阪の街を大津波が襲って、備えのない人々に多大な被害をもたらした、として、死者を供養すると同時に後世への警鐘を鳴らしている。
 
そこには、150年前の宝永大地震の悲惨な記憶を人々は完全に忘れてしまって、また同じ事が起こった、との
 推定によると、このときの大津波よりも、宝永大地震の時の大津波がズット大きかったはずだ。
 
>居住地の周囲を見渡して唖然とした事があった。
海岸線の防潮堤は、土がコンクリートになっているが、江戸時代の方がかなり高い、と解った。
 
 どういう事なんだろうか?
自然条件に翻弄される生活を送っていた、江戸時代の人たちの方が、自然の脅威に恐れを持って、その分警戒心が発達していたのじゃないか、と。物理力がなかったから、それが具体化しなかっただけで。
 
 >現大阪市長の橋下は、大阪湾に突き出た辺鄙な埋立地大阪市が建設した、テナントの全く入らない大赤字の高層巨大ビルを府知事時代に買収した。交通アクセス最悪の処である。老朽化した府庁舎に変わってここを府庁舎にすると華々しぶち上げた。
 
 ところが、問題はそれだけでなかった。
 
この高層ビルは今回の東日本大地震の様な海洋性地震の横揺れに対しての耐震性が不備で、基準値を満たしてないことが判明した。
 
 こうして、橋下の新府庁舎構想は完全に破たんし、巨額の買収費だけが残った。
 
にもかかわらず、今度は知事職を任期途中で辞任し、手下を府知事にして、ダブル選挙で市長に当選した。
 
 今度は大阪都構想をぶち上げている。
 
 コレは政策的合理性から考えると、事実上の経団連自民党の云う、道州制に行き着くモノであり、住民から地方自治権を取り上げ、官僚支配を強めるモノでしかない。
究極の市場原理主義型の中央ー地方の在り方である。
グローバル資本制の荒波に揉まれ出した脆弱な支配層は戦後アメリカが作った中央ー地方の在り方さえ、統治機構として邪魔になってきている。
 
 要は統治機構として上意下達スムーズな戦前型が居心地がいいのである。
 
 こういう統治機構市場原理主義的合理化=住民疎外と経済基盤の大きな改変をもたらすTPPを一体に考える。もちろんそこに橋下大阪都構想も結局は包摂される。コレが政治の力学である。
 
 橋下の大阪都構想は高層ビル買収の失敗の経過からしても、大失政隠しも含めて橋下一味の思い付きに過ぎず、中身は混とんとしており、今は口先で何とでも云ううが、本質は権力掌握の単なる方便であり、次回の総選挙で自公が政権に返り咲いた暁には道州制に衣替えする、その程度のモノである。
 
 かなり話題が横道にそれていいるが、まだこの男の出鱈目証明は続く。
 
ナント、この欠陥高層ビルの最上階で新年の首脳会談を持って、ワザとマスコミの話題になった、というではないか。
 
 大阪府民によって、辺鄙な埋立地買収によって生じた巨額の損害を賠償訴訟されている事への、あの男流の開き直りである。勿論現時点でこの男は府知事をやめて市長になっているのだから、老朽化した府庁舎移転問題=破産した巨大ビル買収失政は手下の府知事にマル投げして、直接本人は追及されることはない。
 
 これが橋下のやり口である。
疑問を抱かず、大阪都構想を真に受けている方は、論理的思考をストップさせているというほかない。
 
政治権力をもったモノの、上からの幼稚で野蛮な開き直りだ。
 
 こういう政治手法に喝采する人間も確かに多くいるが、徹底的に毛嫌いする人もいるのは、当たり前である。
ヒトの感情の領域まで踏み込んだ政治手法を取っているのだから、仕方がない。
 
 だがこういう政治家こそが、一番、人々を惨禍に陥れるパターンである、と歴史が証明している。
コレが解らなければ、過去の政治思想の本いくら読んでも、肝心なことが解っていないと断定する。
 
 私の専門分野?で云えば、レーニン毛沢東。見事な開き直りのオンパレードである。
 
しかし、今もこれからも、レーニン毛沢東の様な人物は全く必要ないし、いてもらっては困る。
尤も橋下はレーニン毛沢東と全くレベルが違うが。
 
ただ、日本の特殊性として、橋下の様な開き直りの野蛮人物は、出世の階段を上に昇っていくに、従って、変身して、統治機構の一部に溶け込んでいかなければ、野心はかなえられない様なシステムになっている。
 ここが肝心な処だ。
 
 日本の統治システムは橋下主導でどうこうなると云うのではなく、出世するに従って変身した橋下的人物を取りこんで、住民にとって悪い方向に、なし崩しで組織的に変わっていく。
 
 橋下的人物は出世するに従って、握る権力が大きくなって裏面として、システムに溶け込んでいくから、個人として政治責任を取らなくていい様になる。
 日本の反国民的な統治機構の特徴である大きな権力行使の各々の主体の無責任性の連鎖体制である。
 
具体的に云えばこういう事実がある。
 
 私が橋下批判のために引用した植草一秀の2008年当時のブログ記事では痛烈な橋下批判をしている。
 
処が、大阪ダブル選挙の結果が判明した当初の20011年の記事では橋下に実に融和的な記事を載せていた。
 
 どうしてこういう事が起こるのか?
 
単に小沢さんの政治的都合の目からみて、橋下に融和的になっているとばかりは言えない。
彼は、出世の階段を登る最中で変身中の橋下の言動を周囲や社会の状況から取り出して判断しているからそうなる。
 橋下をファシストと云う人が多いがマスコミを通じてみる最近の言動はそうでもないじゃないか、と。
 
ところが、私はブログで橋下を批判する場合、そんな単純、極まりない見方をしていない。
 
徳川時代の大阪にまで遡って、市場原理の跋扈した大阪、被差別部落多数存在、朝鮮人民、70万人居住していた大阪(差別意識ではなく、必要だから事実を述べている)、戦前戦後の年月をかけた経済力、日本一からの凋落し今日に至った大阪に橋下出現のバックグラウンドを見る。
 
 橋下を出現させる大阪(行政組織、マスコミ、住民過半数の意識)がなし崩しで住民に悪い方に、変わっていっている現実を直視している。
 
 上記の理由から、大阪がその政治傾向の最先端を行っているかもしれないが、日本全国がそれに近い事になっているかもしれない、と云いたい訳だ。
 
 政権交代後の激動の中で国民意識は、そういう処に立ち至っている、と。
 
今度総選挙をすれば、事態はハッキリする。
 
 こういう政治判断からすると、橋下に融和的であるという事は政治感覚が鈍すぎるという事だ。考えが甘過ぎる。
 
と云う訳で、、橋下個人がこれから政治力をどのようにして拡大していくのかどうかは私は関心がない。
 問題はああ云う男が、ますます政治力を拡大していく、土壌が国民の中に熟成して行っているいという事実である。
 
地震学は信用ならないが、統計上、大体今から数十年以内に巨大な南海地震は発生する確率だとか。
カネがあったら、橋下の様な奴もいるし、こんな処から逃げ出したい。大阪が嫌いと云う訳ではないんだが。
 
しかしここに骨を埋める。
 
 え~い!天災人災政治災!なんでもきやがれ!
無頼の覚悟で行く。ジタバタしてもしようがない。
 
上で幼稚、野蛮、大胆に開き直るやつがいる。
 
反対する住民側も、大いに開き直るべし。
全てよしとしよう!橋下徹が大阪の現実なんだから。
 
 >ところで、この前、署名したのは、原発の賛否を問う住民投票だったと、今頃解った。
先を急いでいたとき署名してください、と。てっきり原発反対運動の署名と勘違いしていた。
それにしては変わったこと云うなとは想っていた。住民票のある住所でお願いしますと、拇印まで押した。
役所が調べるのか?
 
 それで、一定数の署名が集まれば、議会の多数決にかけると。
 
う~ん。
 
 今の議会の人たちの選出はこの前の統一地方選で断固、拒否した。
 
今後、<踏まれ蹴飛ばされる路傍の石は強く固くあらねばならぬ>路線でいくと決めている。
 
 しかしそれにしても、政権交代後、イロイロナ事があり過ぎて、多くの国民には刺激が強過ぎた。
ここまで国民意識を弄んだ、マスコミの責任は大きい。国民多数にとって最大の戦犯だな。