夜中にふと目を覚まして、NHkラジオの「ラジオ深夜便」をここ二日聴いた。
一昨夜は、男のアナウンサーが日本海海戦を戦った戦艦、三笠について語っていた。横須賀港に記念艦として停泊しているという。戦闘要員が狭い部屋で集団でハンモックで寝ていたとか、長官室のトイレ、バスタブが洋式だとか、解りきった事を感心したように伝えていた。
いい年をして、軍事オタクの少年並みの感性である。こういうのが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を見て、いい年をして、その気になるのだろうな。そういうのは中学生まで、せいぜい、高校生ぐらいまでに卒業しておくべきである、という持論から、ばかばかしくて、すぐ消した。
昨夜もまた眼が覚めて、「ラジオ深夜便」を聴いた。
最初から聞いていなかったが、アナウンサー相手に淀みなくしゃべる会話の中身に、想わず引きつけられた。
語り手は外国人とすぐ解ったが、それにしても、中身のある話題を流調な日本語で語り、言葉の使用に隅々まで神経が行き届いているのに感心した。そのまま文字に起こしても、文章としても通用する論理性もある。
話の中身は、幼い自分と母を捨てて、家を出ていった実の父親を捜しあてて、40年ぶりに再会を果たす事情を感情の機微を丁寧に表現しつつ、自分と取り巻く環境を、どこか突き放して、語っていた。
事が事だけに感情に溺れがちなのを、丁度良い具合に抑制できている。
分別ある中年の日本の大学で教える個性と、ニューヨークにアパートを持ち、郊外に自宅を構える実の父の個性が、血の通ったモノ同士の理不尽な離別のドロドロを引きずりながら、交流関係を結んでいこうとしている。
実の父から、日本に送られてきた5枚のCDから、2曲がラジオに流れた。
「マイファニー、バレンタイン」と、ビリー、ホリデイの唄だった。どちらも渋い、ハイクオリィのジャズナンバーだった。
語り手はロバート、キャンベルだった。
そういえばかなり前、同じ「深夜便」で同氏の語り口で江戸のある上層町人の教養の高さ、自由な気風をリアルに解説されて、なるほどと、感心させられた事を思い出した。自分の全く知らない世界だったから、新鮮だった。
昨夜も話の最後まで聴き耳を立てた。
聴き手のアナウンサーは最後に、親子関係の日米の違いと云う方向に話を振った。
キャンベルはアメリカは弱肉強食の世界だから、親は子供を一国一城になれるように、家庭から打ち出すと、云っていた。
これに対してアナは日本では最近、いい年になって、独り立ちしないで、親のうちから仕事に通い、休日も家でごろごろしているモノが増えている、とか嘆いていた。
キャンベルはそれを否定的なモノと云わずに、何やら、話をはぐらかしていたようである。
キャンベルは高度な知識人。
核家族を基本形とするアングロサクソン型の家族制度と日本の伝統的家族制度の戦後的変化における違い、をハッキリとわきまえている。日本の家族制度は変化中、アメリカと、本質的な処に違いがない、と。ここが曖昧に聞こえるが、実は尤もなことなのである。
一口にアメリカ人と云ってもヒスパニックもいれば、ユダヤ人もいる。金持ち、中流もいれば、貧乏人もいる。どちらは良いとか悪いとか、遅れているとかどうとか、問題がある、とか、簡単に語れない領域の問題である事十分承知しているから、含みを持たして答えざる得ない、のだ。社会と人類学の研究成果もある。
ところがこういう質問をしたアナウンサーは簡単な答えを明らかに期待していた。
戦艦三笠記念館に胸躍らせた一昨夜のアナと大して違いはない。
尤も、こういう質問を最後に用意したのは番組プロデューサーなのかもしれない。
>ロバートキャンベルWho?
結構、マスコミ露出の多い東大大学院教授。
マスコミ知らずだから、今までお目にかからなかった。
専攻は江戸から明治氏初期の日本文学。漢文の領域が得意らしい。
自分とはまるっきり別世界のお人だが、調べていくと、歴史をみていく視点において、何処か問題意識の共通点がある様に想う。
時代の底流を生きた庶民の中にある文化を抽出しようとする姿勢が一貫している。
>ある意味、日本人以上に日本を、解っている。
日本独特の「モノのあはれ」と云う無常観のよって来るところを、美しい四季の移り変わりと激烈な天変地異による生活破壊に求めている。日本人の精神に刻み込まれたDNAだな。
>>江戸時代の言葉に「こぼれ幸い」があるとは全く知らなかった。
意味も説明されて初めて解った。
「自分たちのいる世界が永遠でないのを知っているからこそ、偶然の出会いや巡り巡って訪れた小さな幸せを大切にする。そんな優しい感性がこの国のヒトにはありました。」
なるほどな。教えられた。
一神教の神の存在を前提とすれば、世界は永遠である。神の僕として大きな幸せ、大いなる正義を求めて行く。
そうすると世界はどうなってきたかと云う、新大陸発見後の歴史的事実がリアルにある。
日本人から、「こぼれ幸い」の小さな庶民の幸せに充足する心が消えた、意味も解る様な気がする。
戦前は日本帝国主義の伸長に日本人は個性を塗り込めていった。
その関係は今も日本人の精神の底流に残っている。
>日本人にこれまであった、内外の文化を積極的に<取りに行く>と云う姿勢、パワーが少し弱まっているといとも指摘している。
若い世代が自分の身近な事に閉じこもりがち、とも指摘している。大学で教えているから事情を知っている。
大人側の責任だな。
橋下の様に塾通いに補助金を出すなど、本末転倒、ますます、世界の狭い教育の推進。
>キャンベルの視点は単なる日本趣味が高じた日本研究でない。世界の動きと比較する視点が絶えずある。
「これからの日本人が、自分たちの文化の奥行きを、どのように広げていくか気になります」
<自分たちの文化の奥行き>を広げていくという点に賛同する。
>>コレは、世界を自分のモノとして獲得しないとできない。
<<追記>>
江戸時代の庶民の思考。
ロバート、キャンベルさんが指摘する「こぼれ幸い」
この言葉を自分なりにとらえた、記事文中の展開は今読み返して、足りない、浅はかだった。
自分の以前からの記事にできなかった、問題意識と大きくずれている。
お上の政治動向と庶民の生活実態が齟齬をきたしてきた、二重性を押さえていない。
コレは文学的領域を大きく含むモノだ!
以前紹介した、向井孝さんの詩。「出征」にその辺の事情は底深くリアルに描かれている。
野坂昭如の「アドリブ自叙伝」にも詳しく、大空襲下の神戸の庶民の生活が淡々と描かれている。
中国社会の実態を歴史を通してみていく場合、連綿とした官僚支配体制と庶民生活の二重性を、昔も今も押さえていくことは中国分析の基本認識となる。
コレは中国分析の常識だ。
日本の場合もそう云った二重性の側面が大いにある。
しかし、幅は中国よりかなり弱いが、庶民はお上の施政方針を翻訳して「小さな幸せ」を営んでいこうとする思考は一環としてある。苦難混乱に際した、日本庶民の生活の知恵だろう。
表向きの政治主張として、キレイ度との終始しつつ、実生活で簡単に妥協できる。
日本はミィーイズム、リバタリアン的傾向が強い。
しかしながら、自分たちの生命、生活第一の利個的思想が底流にあるにもかかわらず、この事態を社会変革の道具にしようとする急進政治の傾向が重なり、融合している。
この不自然な融合が政治領域を狭めている。
この恒常的かい離、二重性はアジア的社会の特徴だと理解する。