反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本と世界の状態は複雑。政治の力ではどうにもならない、という事が多過ぎる。

 政治関係のブログはよ~く考えると、非常に難しい側面がある。
 
突きつめて、考えていくと、政治や経済の素人なりに、壁にぶつかる。
 
 日本の国、日本国民が歩んできた歴史、と云う限界がアリアリと眼のまえに立ちはだかる。
 
中央、地方の政治家なら、実行の立場に立っているから、<その壁>を言葉で大衆を巻き込んで越えようとする。
 
いつも書いている、政治の本質を言い当てた有名なフレーズはこうだ。
 
 「奴は敵だ!奴を殺せ!」
 「政治家は世の中の森羅万象をすべて解っているがごとく語る」
 
橋下徹の政治に見事に当てはまっている。
それだけ、原始的で野蛮な政治を実行してるという事だ。
 
 日本の近代的文学思考の世界からすると、政治的人間はパターン化されるようだ。
 
 若い頃も今も、プロレタリア文学に興味がある。
 
庶民の労働、生活、そのただ中で、過酷な戦いに決起する人間像に吸い寄せられる。
 
が、日本のプロレタリア文学の一読者として、どう考えても、今では小説として無理な作品が多過ぎる、と想う。
 
 例えば、小林多喜二の「蟹工船」「工作者」。
 
 未成年の頃読んだ記憶では、小説としてあまりにも陳腐で一種の精神的拷問を受けている様に読了した。
白黒二律背反の世界に小説の深み醍醐味を見出せなかった。
 近代的自我と云う小説作法がそこに含まれていない。
それだったら、エイゼンシュタイン監督の「戦艦ポチョムキン」の方がはるかに芸術性と面白みに優れている。
不朽の名作ってやつで、「蟹工船」は戦後精神にはそぐわない、と云う事だ。
 
 同じような、戦前の共産主義とその運動を題材にした椎名林蔵の作品。
 
 コレが実質的にあの時代を描いた多くの作品群の中で、最高傑作だと想う。
と云うか、他に今風な感性に訴えかけてくるモノは見あたらない。
 
 日本のプロレタリア小説は結局、一種の風俗小説だった、と総括している。
 
 椎名林蔵の非合法共産党時代を扱った自伝的小説は、小林多喜二にある善悪二律背反の白黒視点で行動を正当化する処がなく、主人公が自分を取り巻く世界に躍動的にかかわっていくさまが、他のプロレタリア小説にない、一種の悪漢小説風になっている。そこに妙な明るささえある。
 
 作者の実体験の差だろうと想う。
 このヒトは物凄い頭のいい人で、家の事情で中学校を中退して庶民に交じって生活していく。
当時の高等学校卒業の検定資格を働きながら難なく、とるほどの若者が周囲に被れた思想を怖いもの知らずの様に即行動に移していく。
 
 当時の対権力関係は用意周到に活動し様が、無鉄砲、未熟であろうが、組織行動をしている限り、遅かれ早かれ当時は捕まる。
潜入したスパイは当時の共産党にはウジャウジャいたから、動けば、内部通報から、そのうち捕る実情がある。
 
 こういう事情から、ほとんどのインテリ出身の共産党員の活動は特高警察から逃げ回るのがまず先決で、相互に連絡を取り合うのが精いっぱいの状態だった。
 
 そんなビビりまくりの生活を描いたプロレタリア小説が実にたくさんあって、読んでいて正直、情けなくなる。
 
処が、椎名の作品は思想の絶対視、神聖視する視点はなく、フットワークが軽い処がすがすがしい。
 戦後、共産党を離れた処で、戦後文学派として出発した作者だからこそ獲得された地平である。
 
 戦後になって、時が経つに従って、共産党系の文学者は党指導部との方針違いで粗方、除名されているが、私としてはピンとくる作品は見当たらない。
 
 中野重治佐多稲子。正直、何を言わんとしているのか解らない。自らのかつて所属した共産党への絶対視、神聖視の感情を前提とした世界は、陰鬱で退屈である。
 
 九州の貧窮活動家時代を題材にした作品を書いたヒトの作品に描かれた共産党群像も、一体作者は何を言わんとしているのか解らない。
革命を目指すモノが、貧窮し、自制的生活し、壊れていくのは当たり前でそれをもって、党を告発するのは筋違いだろう。
 ロシヤのナロードニキの姿がそこにない。
 
 
 >「政治はヒトを醜悪にするが、崇高にもする」
 
コレは一般に全く知られていないフレーズだが、なかなか含蓄は深い。
 
 解り易く云えば、政治活動家は単なる世話役活動の延長線上ではなく、別の次元に生身の人間として存在しているという事。
 
膨大な個人、家庭、地域、会社の集合する世間には矛盾や問題、課題が集合悪として発生する。
 
 コレを専門的に日常で扱うのが政治家の仕事だ。
 
 例えば医者ならどうだ。
病気に対する処方箋はある。打つ手なしも、処方箋の一つである。
 
 警察官ならどうだ。
法律がある。権限も確定している。
 
会社員ならどうだ。
会社と金儲けがある。市場の法則がある。
 
そして、政治家はどうなんだ?と。
立法権が備わっている。
 
 しかしそれは、医者や警察官、会社員の個人が役職において日頃行使している実行力と次元が違って、
個人としての立法権に大きな限界がある。また、議会制民主主義の社会ではそうでないと困る。
 
本当は他の職種の様に白黒はっきりつけられない、グレイゾーンの世界を扱っているのに、大衆や多くの仲間を説得するために、複雑多岐にわたる世界を単純化して提示し、個的意識を集合させ、ひとつの方向性を与える必要が常に出てくる。
 
 内面的にどうにもならないと想っていても、対外的にはナントカなる様な期待、希望を抱かせなくてはならない。
絶望を集合した組織は最後には手ひどい破滅に行き着くしかない。
 
 一方で、単なる大衆啓蒙だけでは政治がリアルな場面で、十分機能しないことは、政治家なら誰でも知っている。
だったら、テレビタレント、池上彰でも務まる。
 
 ということは、政治家は、どうにもならない現実を、ナントカなる様に、自分で自分を想いこませる才能が必要だと解る。
 尤も近頃では、世間を几帳面に分析するはずの学者系の人たちも、<どうにもならない現実をナントカなる派>に転向している様だ。
 政治哲学と云う面が軽視され、人間を機能的な面だけで把握すれば、現実や将来への批判はどうでもよくなり、最終的に本質は「全体は野となれ山となれ、全てよし」となっているのに、妙な情緒論、感情論だけが突出し、現実を覆い隠している。
 
古今東西の歴史は政治家、宗教家から、発した期待、希望が最終的に裏切られてきた事を指示している。
その破たんが直近にあるか先延ばしになるかどうかの違いだけだ。
 
 以上の様な特殊領域を<継続的日常的>に扱っているのが政治家の世界である。
 
そうすると、どうなるか、
 
 普通のヒトに存在する個人が消却されて、公が個人の内面に代替えされてしまう。
そしてその公が特殊世界だから、内面が一般に対して特殊になる。
 
この点を指して「醜悪にもなるし、崇高にもなる」と云っているのだろう。
 
 しかし、この観念的現実を自覚しているかどうか、が政治家に本当は問われている。
泣いて馬謖を斬る」との自覚の在り様は難しい。
エエイ、面倒だとなれば、単細胞的に引き返せない、行くところまでいく。
 
政権交代後の民主党が必要以上に支配層の使用人振りを発揮しているのは、政治の醜悪な論理にからめ捕られ、<エエイ、面倒だ>とルビコンの河を渡ってしまったことにあった。
 
それを一般世間の人には余計に醜悪に映る。
 
が、支配体制をそのままにして政権に就くとは元々、泥道を這いつくばってでも、匍匐前進していくしかない、と云う事だ。
 
 逆にぶち壊す道は支持者も覚悟がいった。何もかも八方上手くまとまっていく、魔法の政策制度なんて絶対にあり得ない。
 
日本の国内経済に成長の起動力が乏しくなっている現状。しかも、先進国全体が、そういう傾向にある。
 
 結局、先に複雑な世界を単純にまとめ上げて、一方向に突っ走った国民多数派は負けることになる。
コレに尽きる。
 
困ったことに国民多数にとっての歴史は何度でも繰り返す。
 
 >ふとした弾みに母校の高校のリアルな今を知ることになった。
 
今の子供は込み入った本をまるっきり読まない。
 
受験勉強、遊び、友人関係、文化スポーツ活動。物凄く機能的な毎日を送っている。
 
地球が小さくなるほど、世界が身近にあるのに、日常生活の関心のフレームが小さく現実的具体的。
 
 今も昔もアメリカのハイスクールの大多数の生徒はあんな風だったんじゃないか。
 
 そうした子供時代を送ったアメリカ人の多数は世界の事情を知らなすぎる。
 
 素朴で、気が良い、と云えば云えるが、アメリカ自身と取り巻く世界の関係がうまくいっている時はそれでもいいが、持てる力が相対化して、世界のおかげで食っていくかないこれからは、そんな多数派アメリカ人気質はそのまま通用するはずはなく、やがて世界から見たら強烈な独りよがりとなる。そして、反動から、ついに、気のいい素朴さも消えていく。
 
 日本の今の教育現場の実態のアメリカナイズは著しい。
 
昔の母校では、教師や生徒の留学制度が実際に実行されていた。
今、全く見向きもされていない様だ。
 
アメリカの教師から、学ぶ暇もない。私もかつて学んだが、程度は高くないと想った。解ったことは、田舎の一般のアメリカ人がどういう考えを持っているか納得した程度だった。生徒をアメリカの普通の高校に留学させるなんて、とんでもない。
 
 今は日本にとってその程度のアメリカなのに、高校生の生活実態がアメリカ人の高校生に近くなっている。
 
教育指導層はそういう現実に漠然と危機感を覚えているから、各地で日の丸や君が代が催促されるのか。
 
この春から、日本全国の義務教育で武道を必修にすると云う。
 
 もう、いまさら何をとちクルッテいるのか。反動に作用する。
母校では「国家の品格」の藤原正彦の講演を生徒に聴かせたりしてる、方向違い、とセットになれば、どういう事になるか、大体想像できる。
世界を狭くしているのモノに、空疎な国家意識を詰め込んでどうなるか。
これから、世界に向けて理解を求めなければならないことが多くなるのに、そういう形式からはその方向は生まれない。