2月に入ってから、朝のウォーキングを始めることにした。
今まで、寒中の早朝、出歩くマイナス面を危惧して自重していたが、2月3日の節分の日を持って、大阪では暖かくなるとのシルバー世代の生活に知恵を信じて、断固として?出歩くことにした。
イヤ、本当に。あのヒトの云っている通りだった。
2月3日の節分を 境に暖かくなってきたような気がするから、不思議だ。
暦の上では3日の次の日の2月4日を持って、立春とする。
だから、節分。冬の最後の日と云う意味で季節の分かれ目=節分なのだ。
ここ大にはここの季節感があっていい。全国に合わせる必要はない。
ま、コレに関連して、地球の地軸の傾き具合だとか、グルグル自転しながら太陽の周囲の公転を説明し、さらには、自転公転の物凄いスピードと万有引力との関係。
さらにさらに、太陽系に限っても、地球の最終局面=ジエンドの絶対性を考えると、日本列島における季節なんか取るに足りない。究極的に些細なことなのだ。
そして日本人の個々の天寿は絶対に限りある、天文的季節のそのまた極々限りある一部に過ぎない。
とすれば、冒頭のタイトルに掲げた行政、統治機構の問題など、所詮、もっと限りある、どちらかと云えば、人間の欲の欲が生み出したモノ。究極は少数が多数を支配する政治のハッキリとした一形態。
>この間、今までほとんど関心のなかった分野に的を絞って、イロイロ考えてきた。自分にとっては、究極どうでもいい苦行の様だった。
道州制の本を読む都合で、ヨーロッパの主だった国の歴史をネットで調べられる限り調べてみて、正直な処、愕然とした。
東アジアの極に位置する日本の歴史とあまりにも違い過ぎる。そのダイナミックさにおいて。
宗教も新しくなればなるほど、人為的要素が強まっていく。
そうすると、人間の歴史を戦いの歴史とみると、強烈な一神教の生み出した排他的で強烈な宗教幻想とそれに基づく、領地などの実体を伴った権力との戦いや、領主たちの民族を超えた争い中での近代的国家形成、国民意識の形成、
を経てきたヨーロッパ諸国と日本とでは、現時点に至るまでの歴史的条件があまりにも違い過ぎる。
21世紀の今を持ってしても、この差異は埋め合わせることができない。
この時自分の中で、心情的に大きな落胆が生まれてしまった。
今の日本の持っている歴史的要件の中では多数派国民は救われ様がない。日本国民多数は日本を超えなくては救われないだろう。すでにグローバル資本は大きく日本を越えようとしているが、支配層は日本人の多くを日本にしばりつけようと画策している。コレとの戦いを日本国民に与えられた条件の中でどうやって形成していくか。
日本を肯定する事から始める。
しかし、今まで無知なるがゆえに、ボンヤリトしか想像しなかった事を隅々まである程度、解ってしまい、日本全般への関心が萎えてしまったことも事実。どうにもならないんじゃないか。
これもあって、ブログ更新ができなかった。
尤も、今年は去年と同じ様なペースで更新するのをやめようと、昨年末に強く想っていたこともある。
私の政治経済関連のお粗末な記事の最大の眼目は、この先、どういう推移を辿っていくかと云う、予想行為である。だからこそ、現在の寄って来る由縁としての過去にも、結構、精緻に拘る。そして現在の中に将来がある。
こういう面から、今までの拙い内容において、一応、大きな段階の役割を終えたと認識している。
自分のこれまでの流儀で、大きな状況のそれなりの把握が完成すれば、もう、それ以上はアレコレ踏み込まないことにしている。後は次々に発生していくディテールをその大枠の中に収めるだけでいい。
素人として、この辺にしておいた方がいい。
>今、行政、統治機構と云う今まで未知の分野を読みこんでいる。
もうこれを終えたら、やることはなくなる。面倒なことはこれが最後だと想ってやる。
しかい、こういう分野の研究は学者さんがいくらやっても、所詮、大きな限界があるという事を知っておかねばなるまい。
行政改革などいくらやっても所詮、日本が今与えらて歴史的条件をどうこうすることはできない。
どうにかなるなどと云うのは、政治家の大法螺である。煽動のためのデマだ。
上部構造を多少弄ってもどうこうなる訳がない。こういう瑣末なすぐ眼の届くような方面に解決の糸口を見つけ、これができたら全てが何とかなる様に幻想するのが日本人の政治性のない処。
技術的に容易にできる事を何かおおごとの様に宣伝する真意が知りたい。
いや、むしろ、こういう停滞局面で、足掻けば足掻くほど、より悪い選択になりがちだ。
コレだったら、究極の処、何もやらない方がマシ。
>そういう今の日本の悪循環を日本にはない別な視点で浮き彫りにすることが大切。
坂本勝「公務員制度の研究」ー日米英幹部職の代表性と政策役割ーにはアメリカ、イギリスの官僚制度と日本のモノをリアルに比較できる珍しい論点がある。
日本語に訳すると、代表性と云う言葉しか見当たらないようだ。
多分、日本語の代表性に相当する英語には政治的経過も含めた多義的な意味が含まれていると想う。
出身階層、それに基づく価値観と社会に支配的な価値観のズレ、政策形成における官僚価値観による規定性。これは、日本の今はやりの効率性、一辺倒の公務員批判にない観点を提供している。
先回りすれば、橋下等のやっている事は、公務員に曲がりなりにもあった中立性、公平性の金融支配層の利害への集約へと、結果しよう。
彼らの政治的矛先はそこ向かっているのであって、決して、グローバル資本の跋扈を規制しようという方向には向かわない。
こんな大きな政治課題の立て方からは、多数の国民にとって、望む結果は生まれ様がない。
格差社会があらゆる分野での進行を基盤に高級公務員になるモノの出身階層が上層に固定されれば、当然、高級公務員になる前にその階層のイデオロギーの染まっている訳で、その傾向が昇進すればするほど、強まっていく。そういう人たちが政策形成を準備し、執行する。
さらには、一方の政策形成者であり、立法する政治家に国民各階層の状況が反映されない、特定階層出身者の占有されていれば、どうなるか?
今読みこんでいるのは、このような問題意識において、アメリカでは早くも1883年ペンドルトン法として、行政の中立性を維持するため、方策が建てられていた、と云う処。
ここから先は、リアルな状況の解説もある様で、その意味でも面白い。
が、そのアメリカでさえ、上部構造の公務員制度を早くからいじっても、1%が99%を支配する体たらくである。
言い換えると、こんな処に、政治の焦点を求めるのがいかに間違っているかと云う事だ。
日本と同じ同じような官僚制度の発達した国においても、日本ほど政治焦点化していない。
カネの儲けの企業経営と行政運用は次元の違う問題。
政治家が粛々と行うべき事を何か物凄い事をやっている様に自慢して、それをマスコミが伝えている。
日本でこの分野の分析の文脈は、何か弩つぼにハマっている様な気がする。大局観がない。
そして最終的に効率一点張り論に終始する。
アメリカの様な多民族移民国家の場合、公務員採用などに国民各層の要素を反映させようとする視点がある。 イギリスの官僚制は日本と近い様だが、サッチャー、メジャー、ブレア政権による具体的な対応を検討しているようで、楽しみである。
さらに自分の予てからの問題意識として、公共空間の維持がこのグローバル資本制による市場原理主義の世界的跋扈の進展中で、庶民にとって、ますます大切になっていくという読みもある。
公共空間、本来の公共財の資本制的私物化で庶民の基本的生存、人権は狭められていかざる得ない。階層分解が大きく進展する時期には必ず、こういう現象が発生する。
先進国内の経済動向の行く末も粗方結、論が出ているのじゃないか。
多数の国民は貧乏になる。ヨーロッパ、アメリカの金融不安騒動も煎じつめれば、より一層の金融寡頭支配の強化、庶民貧窮化の大きな階段に過ぎない。
だから、小沢さんが云う様な世界に飛び火するから、おさまって欲しいとかの問題意識は激動する情勢への認識はあっても、保守的対応に結果して、金融寡頭制強化の先兵となって、危機的情勢に竿指して、支配機構構築に邪魔なモノの破壊に狂奔する橋下等への後押ししかならないだろう。
彼の先日、ネットで行われた世界情勢への最新の認識については回を改めて批判しておきたい。
そうすると、結論的に庶民が何に依拠して生命、生活、健康、労働を確保していけるのか?
世間の動向んに左右される政治一般ではなく、リアルな身近な実体を明らかにしておく必要がある。多数決や多数派形成に政治や民主主義を矮小化してはならない時代が日本ではやってきている。
世界の中の日本人だ。