反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

3月2日。戦闘態勢整った。欧州主要国近現代史、「公務員制度の研究」「日本行政史」「道州制」を読了。区切りをつけるために今開催されている日展に出かけた。

 去年の暮れから、年が明けたら、更新回数を減らそうと決めていたが、ついだらだらと書き過ぎていた。
私のブログの様なレベルでもそれなりに、自分の貴重な時間を犠牲にしている。
今年はそれを少なくして自分の時間を大切にしようと考えていた。
 社会や経済の状態を書く基本の目的は何より自分の勉強のため。
その次は、社会や経済の基本動向がどこに向かっているか、予想行為として確定する事。
 
 その為には、今まで未知な分野も知る必要があった。
ヨーロッパの主要国の近現代史を大まかにイメージできる程度に知っておくことは、今現在大切になっている。
なんだかんだ言っても、そこに政治と経済の最高の到達段階があり、EUの今現在抱えている問題も人類の統治機構の最先端を実行したが故の矛盾の大爆発といえる。それを深く解ろうとすれば、主要国の歴史を押さえて必要がある。
 
 EUの今現在の混乱の底にはドイツ問題が横たわっている。ギリシャなどはそこから派生した一現象に過ぎない。
 ヨーロッパレベルではドイツの傑出した経済力と相対的に見劣る政治的覇権の格差がヨーロッパ戦争=世界戦争を二度に渡って爆発させてきた。
 ドイツはこの格差を早急に埋め合わせようとしてきたから、イギリス、フランスの旧体制の既得利害と衝突した。今回のEU危機もこのレベルの問題がEUの大枠という形を変えて、爆発している。
 
EU結成には東西ドイツ統一への恐怖心とUEの大枠への封じ込め、がイギリス、サチャー、フランス、ミッテランに働いたと云われている。
 ただ、この問題の行き着く先は、今のままだと、戦後のヨーロッパ市民が獲得した社会民主主義既得権益のはく奪になるしかない。
 ヨーロッパ金融寡頭支配の様相が一層強化される方向にある。
それによって、ヨーロッパ規模で供給と需要の不均衡はさらに拡大し、世界に拡散する。
日本、アメリカも同じような傾向にある。
 中進後進地域の発展も不均衡的発展を根底に置いているから、先進国の過剰資本過剰生産を吸収することはできない。
 技術革新のニューフロンティアによる市場拡大も頭打ち。
 
と云う事は今日本の目の前にある事態は、大きくならないパイを巡っての争奪戦。数で圧倒する国民は支配のための要所要所を占拠するモノどもに騙されてはダメだってこと。
 
 「道州制」「日本行政史」「公務員制度の研究」
 よく出回っている本には全く興味なし。あんなモノは複雑な事情を絵空事の様に単純化しただけだ。
著者の政治的意図に沿って書かれているだけだ。
 
今の日本の政治経済の現状は歴史的到達点がもたらしたモノであって、政治的上部構造を弄ってどうこうなるモノでない。
 
 地方分権にすれば、公務員制度を変えれば、ナントカなるなどと云うのは政治家のデマ宣伝の最たるものであり、言っている本人からして、心底信じている訳ではなく、己の政治的野望を達成するための手段として、吹聴しているだけである。
 この方面で物事を単純化して、吹聴する政治家こそ、一番怪しい政治家であり、警戒する必要が増している。
 
危機の時代の政治主導、リーダーシップには裏面が多過ぎた。間違えるととんでもないことになる。
 
 日本は民主主義の度合いからすると中国北朝鮮と欧米の中間、程度。
リーダーシップに強い条件をつけなければ、裏面に出る可能性が、余りにも高過ぎる。
 
 今の政治にグローバル資本制の動向を規定する力は、全くと云っていいほどない。
いや、と云うよりも、グローバル資本制の利益、動向に沿った政治的上部構造を甘言を要して、ナントカ住民
国民に強制しようとしているだけだ。
 
 結論。
今これらの分野で世間や日本の政治家などが盛んに議論している内容は何ら目新しい内容ではない。
ほとんど、外国の事例や日本の過去の議論の焼き直しだ。
道州制などは戦前から議論されてきた。
 
 ただ日本のそれらの議論の特徴は上からの統治の要請、あるいは企業の利益追求による効率一辺倒の議論であり、住民国民のコンセンサスの形成、様々な立場の反映を行政、統治機構の改革で、どうやって実現していくかと云う視点に乏しい。
 
 その点については、アメリカ、イギリスの公務員制度改革の問題意識を研究した「公務員制度の研究」に詳しい。
 
 公務員制度を男女を含めた国民各層の代表、そのことによる中立性確保、社会的統合、住民国民の政治参加とみる視点がある。この視点を踏まえて、官僚機構の機能論をしているから、官僚機構を過大視も過小視もしていない。だからこそ、官僚機構へのフレキシブルな対応が日本より可能なのだろう。
 
 ただ、政治主導と云う観点から、官僚制を見ると政治任用、2000人のアメリカは大統領の政治的意思が実現しそうで良い様に見えるが、問題も多く、特殊アメリカ的条件もあり、日本が参考にできるのはせいぜいイギリス止まりだろうと想う。
  橋下は首相公選を主張しているらしいが、浅はかもいいところ。それを深みがあると評価する小沢さんも遂に馬脚を現しつつある。あの方の云う民主主義とはイギリス的制度、多数派原理と住民同士の共生感程度じゃないか。裁判の被告になって、あの年で解りだした民主主義観では、所詮、橋下には厳しい姿勢はとれまい。
 
 しかし、どこに問題を解く、糸口を見つけるか?と云う問題はある。
 
資本移動の自由、経済のサービス化による労働組合の組織困難性から、陰に陽に大資本の発言権が増して、協調主義による経済社会コントロールと云う北欧に特徴的なコーポラリズムの観点に糸口を見出す事も困難になって来ている。
 しかし、資本制を前提にすると、困難はあってもそういう政治方向しかない。
 
 
 >3月2日。
 
 日本画会員賞受賞作。THE、BRONX。中田力。
ニューヨーク、の下町ブロンクスの灰色にくすんだ地下鉄高架下の淀んだ風景画を日本画で描き切った大作だった。アメリカの寂れ具合が何とも言えないいい味出している。日本の大都会では、何やかやとメンテナンスされてああいう寂れた風景はめったにお目にかかれない。
地下鉄高架の支柱は細くて、頼りなげ。コンクリート面の汚れから、年月の経過が明らかで、全画面が灰色に薄汚れている。高架下の歩道の白線はほとんど剥げ落ちている。その向こうに古いレンガの倉庫らしきものが垣間見える。
灰色の世界を影法師の様な存在感希薄なヒトが横断している。
あたり一面、長年手入れされなくなってほったらかしのされてきた世界である、とヒト目で解る。
見た瞬間、良いなと思ったら、受賞作とあった。作者の志を感じさせる作品である。
 
 よく有名芸能人などが入選しているのが二科展。
日展は一応い日本では戦前の「帝展」を引き継ぐ最高峰になっているとのこと。
それでも、美術館に常設されている名画と比べると、見劣りすること甚だしいな。絵って、下手な作品を見続ける事によって、良い作品の良さがはじめて解る、と想っている。
油絵はみんな同じような風情がしている。デフォルメが足りないから、絵からそれ以上の想像の羽ばたきが消えている。だから、目の前のありのままの状態で、鑑賞するしかない。
それに抽象絵画が全くないのはどうしてなのか?
抽象の方が想像力が働いて見飽きない。
間違いなく日本人は日本画の方が旨く表現できている様だ。
彫刻、書、工芸品は全く解らない。
昔の人の方が美意識が発達していたんじゃなかろうか?現代は絵と描くことそのものへの作家の執着心を失せさせた。自己表現の多彩な方法が可能になっている事が却って、一点集中が乏しくなって、鮮烈な輝きが失せている。
絵画だけではなく、映画、音楽も昔の方が質に置いて、ハイレベルだった。
仕方のない事だったら、古典として大事にし、常に接することができるようにすべきだ。
それも精神的に豊かになれる方便だ。
この前、アメリカンニューシネマの「ファイブ、イージー、ピーセス」ラファエルソン監督が見たくなってTUTAYAにいったら、在庫なしと。
商売だから仕方がないが、図書館などの公共施設では時代を象徴したり描いたりしている作品は収集しておくべきだ。
あの時フト思った。
政権交代時に無駄の象徴のように揶揄されていた「アニメの殿堂」も良かったのではないか!と。
経済が成熟すると、文化力は大事な経済力の要素になるとは、新年のラジオ番組で持永卓郎さんが熱く語っていた。少子高齢化もあって、これからの日本国内経済は外国向けに高付加価値を売っていくしか、潤っていく道はない。ここが戦略として、ハッキリしていないから、人間を大事にしない、市場原理主義の目先にの論理が跋扈する。急がば回れ!を蔑にする。