昨晩は、グーグルでノラ、ジョーンズの経歴を調べてみた。NHK、ラジオ深夜便で、江戸から明治期の日本文学専攻を東大生に教えているアイルランド系アメリカ人のセンセイが彼女の唄をリクエストしていたので気になっていたからだ。
名前程度はどこかで聴いたことがあったが、唄に全く接したことはなかった。
あのセンセイはなかなか音楽趣味が良いヒトでチェット、ベーカーの「マイファーニ、バレンタイン」もセンセイのリクエストで初めて知った。
ラジオから流れてくるノラ、ジョーンズ。
小粋なジャズぽい音楽だなと、想った程度でどうと云う事はなかったが、
センセイの推薦なので調べてみると、ノラジョーンズはまだ30歳過ぎた程度のピアノの弾き語りで、全米でかなり人気があるのか、ユーチューブのアクセス数も多い。
日本で云えば、アンジェラ、アキ風だが、ジャズ畑をカバーしているヒトなので、さりげなくジャージィーにピアノ伴奏ができて、テクニックなど数段上。アキ風オーバー、アクションはなく、実力で聴かせるタイプで、若いのになかなかノーブルな雰囲気がある。
何曲か聴いてみて、ああいう、小粋な格好付けは鼻について好きではないが、なるほど、ジャンカールの血を引いているのか、音楽としてレベルは高い、と認めざる得ないなと。
レベルの高い実力派のヒトが売れる。
あたり間の事なのだが、そういう音楽環境がある処とない処がある訳で、日本ではどうなのかと。
また、それを押し上げていく環境がある。
>>そのノラから、フト、「ジョー、スタッフォード」が気になった。
日曜夜、8時の「大人のジャズタイム」でかかっていた彼女をこの際、徹底して聞いてやれと。
グーグルには人物紹介はなかった。
コレは自他共に認める、ファーストレディー、オブ、カントリーミュージックのタミー、ウイネットの場合と同じだなと。
実力と人気を兼ね備えアメリカでの評価は高いが、今の日本では多くのヒトの興味をそそる存在ではない、と。
>ジョー、スタッフォードは1950年代初頭2500枚のレコードを売り上げた初めての女性歌手として顕彰された。
元々、ジャズ、ビッグバンド全盛時のトミー、ドーシー楽団の専属歌手として出発し、独立してから、売れっ子になった。
ま、経歴的にも、歌唱のバックボーンも同時代のフランクシナトラと似たよう歌手と想えばいい。1970年代を待たずして、引退しているが、2008年90歳で亡くなっている。
その彼女の唄を昨晩、聴き続けていると、正直、コレはついていけないな、と。
何かオペラ歌手が押し出しのいい、歌い方でポピュラーを巧妙にやっているいる感じで、聴いていて疲れる。
>一夜明けて、今日。
ジョー、スタッフォードには日本人はついていけないという、テーマで久々に記事を書こうとして、彼女の最大のヒット「ユー、ビロング、トゥー、ミー」をイロイロナ歌手と聴き比べてみた。
パティーペイジ。ビング、クロスビー。などなど。
ジョー、が一番上手いと認めるしかない。
原盤の音をクリアー化したモノを聴くと、彼女の歌唱の幅と深み、伸びが抜群なのが手に取る様に解る。
原盤の方がよく聞かれている様だが、バックのジャズぽい演奏が前に出て、彼女の歌唱の特徴が消されている。多分ジャズ全盛の時代背景の所為だろう。
>そうしていくうちに、我がカントリー界の女性歌手で今でも一番上手いと云われる伝説のパッティー、クラインの「ユービロング」に行き着いた。
上手い!
ジョーに肩を並べている。
何より、カントリー調のこぶしを効かせている事でジョーと肩を並べることができている。
>が、パッティーのスムーズなカントリーフレイバーを聴くうちに、不意に感じた。
>もしかしてこの曲の元唄はカントリーなのではと。
>そうするとユー、チューブコメント欄に、ジョーで有名な「ユー、ビロング」はスー、トンプソン版で発売され、ジョーがカバーしてヒットしたとあるではないか。さすが、ご当地のヒトはよく知っている。
グーグルに登場している日本人による記事には、そこまで書いたモノは一切見当たらなかった。
>スー、トンプソン?
今まで全く知らない歌手。
取りあえず、聴いてみると、ベビーボイスの女性歌手でよく聴くとカントリー調の匂いがして、ジョーの歌唱とは全く別次元。
>そこで、別のトンプソンの唄を聴くと、コテコテのカントリーだった。
カントリー歌手、トンプソンも「ユー、ビロング」を本来ならば、パティー、クラインの様に唄いたかったが、カントリーフレイバーを上手く出せなくて中途半端に終わってしまって、対して売れなくて、カバーしたジョーが大ヒットしたという訳だ。
しかし、ジョースタッフォードはデビュー当初のスタッフォード、シスターズの時代にはカントリーを唄っていたそうだ。
先日加山雄三さんがラジオで大学時代にはカントリーバンドを組んでいたと語っていた。
そういえば、あの唄い方にはカントリーの影響がうかがえる。
石原裕次郎はデビュー前にハワイアンをやっていた。
やっぱり彼の唄は聴き方によったら、その匂いがするモノが多い。
>NHkラジオには「いとしのオールデイズ」と云う長寿番組がある。
>最近、首をかしげてしまうのは、<オールデイズ>の定義を厳密にやっていない事だ。
例えば、ゲストが45歳ならば、その人にとって「オールデイズ」は1980年代以降の洋楽となるが、果たしてそれでいいのかと云う事だ。
ポピュラーミュージックの古典と云う意味で「オールデイズ」を位置づけると、基本的に限界年代はビートルズまでと云う事になりはしないか?もっと厳密にいえば、60年代中期までが、「オールデイズ」。
もう大体そのころまでに、テクニックレベルは出尽くしている。
>それをキチンと古典と位置づけることで、新しいモノが生まれると。
>コレは音楽だけではなく、どの分野にも当てはまる。
例えば、経済学。
古典と意識できるのは、どこまでか、考えて見るとよく解る。精々、遡ってもサミュエルソンまでだ。
>ま、そういう訳で、現在、どの文化的分野でも、新しいモノが生まれない、質の劣化が云われているのも、古い普遍性のあるモノをキチンと位置付けない、方法論に問題がある場合がある。
目の前に見える範囲、想像の及ぶ範囲の今に流され過ぎている。
急がば回れがなくなっている。昔が今と分断されている。
ジョースタッフォードダメだ、今の日本人の感性に合わないで終わらせて、しまいそうになった自分が立ち止まった原因がどこにあるか?漠然としているが、それではダメだという事だけは解る。
>過去のブログ記事で何回となく北野武の「HANABI」は小津安二郎、成瀬巳喜男、ジョンヒューストンのパクリばかりじゃないかと批判してきたが、方法論的に北野武は、やはり行きつくところまでいきついた、映像作家としての問題意識を持っている監督なんだ、と理会する。
そこから先のオリジナリティーの発揮は容易じゃない。
>政治論でもコレは云えるな。
お題を貰っての批判は容易いが、それ以上に自分の独自性を出そうとすれば、必ず壁にぶつかる。
今こうして、書いていることそのものが、自分の限界を誤魔化している作業そのもの。正直言って。