反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

4、18。小沢一郎単独インタビュー内容への意見。賛成できる処できない処、不明点。

 1、原発再稼働問題。
この問題に関しても小沢さんは徹底した情報公開の必要性を訴えている事に大賛成!
「情報公開が果断な政策実行の前提」であると、政治の実行主体の目的意識性も明確。
 
 政府による徹底した情報公開ー国民間の活発な議論ー果断な政策遂行。と云うのが小沢さんのこの問題に関する民主主義と政治主導の立場であり、大賛成。
 「政府が電力不足と云うならば、その計算方法も明らかにして国民の批判を仰ぐべき」もこれまで、イロイロオカシナ情報操作を原発村及び、政府がやってきてた事を考えると当然である。
 
 小沢さんは別の処で「産業用の電力は不足気味である」として部分的再稼働の理由にしていた。
私もこの点については厳しい見方をしている。
 
 この問題を論じる場合の大前提は日本の送電周波数が中部電力を境に東と西で違っているとことから、事実上その間の機動的な電力融通は利かないことである。さらに原発依存度の高い電力会社とそうでない処がある。
従って、全国一律に一般論で論じるのみでは、無理な部分がある。
原発事故を受けての昨年、全国民的節電対策で夏場を乗り切ったが、工場など大口需要先は、かなり無理な節電対策をやっていたはずである。
 
 原油価格の高騰。今、ガソリンの1L当たりの値段は250円近くまで上昇している。
ガスの価格もパイプライン施設ができず、足ももと見られがちな日本は、ヨーロッパよりも2倍の高く買わされている
 
 もとより、資源原材料の高騰は中国ロシアも含めた帝国主義の争闘の激化による、それらを巡る争奪戦の激化から、歴史的趨勢となっている。
 
 以上は日本と日本国民の生活を取り巻く客観的情勢であり、反原発に「人生観や価値観を問う」人々もこの客観情勢のただ中にいる。
 
 従って、結論として、原発推進の支配層と、反原発派はどこかで折り合いを好むと好まざるにかなわず、つけることになる。
 
 その場合、小沢さんの云う民主主義の手続きと政治主導が求められている。
勿論日本の将来ビジョンの問題である。
 
 太古より不安定な地球プレートの境目に位置して激変してきた世界屈指の地震国日本では、原発立地には最悪であり、東日本大震災の様な地震はまた起こる。
現に江戸直下の元禄大地震(この大地震を受けて元禄が宝永に代替えしている)の4年後には日本歴史史上最大と云われる宝永大地震(東海、東南海地震)が発生している。宝永大地震の記憶が人々から完全になくなった幕末に再び東海東南海大臣が襲っている。
 
 原発は日本に不適合でなくさなければならないが、全原発すぐ廃炉を決定すると、おそらく油とガス市場に膨大な投機資金が流れ込み、価格は高騰するであろう。
 
 確かに地勢的には薄氷を踏む感があるが、原発の一部は小沢さんが云うと通り、民主主義的手続きと政治主導によって最小限度、再稼働した方が良い、と考える。
私が反原発の集会には参加するが、デモに参加しなかった理由はこういう考えもあっての事。
昔からそういう人たちとは肩を組んで戦ってきた。同意できるところとできない処が当時からあったが、同じ仲間と今でも思っている。
 
 ただし、橋下徹の様な原子力安全委員会の安全宣言のコメントがないから、再稼働反対は他人任せ、形式的法律論に問題をすり変えている論法で日本国民としての主体、責任、本質論に基づいて議論することを阻害するモノである。他者の判断に下駄をあづけてはいけない。
 
 原子力安全委員会がこの期に及んで安全宣言を出すはずはない、と考える。
こういう論法はかつての安保反対闘争時の社会党議員の国会論戦や有識者安保反対論の手法を思い出す。
そういう非主体的形式論、法律論をやれば、確かに己の心の底からの意見を述べないで、法律や他人に下駄をあづけることができる。
 その結果、状況が大きく変わると、自分がない分だけ、引きづられれ、また新しい意見に簡単に衣替えする。
所詮、揚げ足取り、自分の実存の奥底を問わず、他人に下駄をあづける日本独特の論法である。
 
 ドイツは10年でやめる。その場合、小沢さんはドイツは日本と違って資源のある国と、小沢さんは指摘している。
コレもキチンと事実を押さえて意見である。ドイツが日本よりも資源に恵まれた国であることは関連グラフを参照すればすぐ解る。
燐国オランダはドイツとの国境地帯に豊富なガス田を持っており、国内消費分3分の1以外は輸出に当てている
 
 なお、日本の一般家庭のガス料金はまず、世界一(コメの価格どころでない)と云っていい。
大口需要家に低価格で供給している煽りを食っているのだが、それでも、総合したガス料金は韓国の1、3倍ほどである。
 
 日本はインフラが高く着く国柄なのである。
従って、国内高価格体質の日本ではよく経済力の目安としてGDPをあげているが、購買力平価に換算すると、中国の半分程度になっている。
 この面でも慢性的デフレ傾向と合わせて、国内の産業資本は海外流失する趨勢が避けられないのである。
 
5、TPP問題。
「TPPは日米構造協議の総決算。要するに日本のシステムをアメリカと一緒にしろと云う事だ」
貿易摩擦によって日米の経済対立による緊張が続いた時期の日米構造協議を日本の政治家として最先頭で担った小沢さんは、TPPをこのように手短にまとる。
 
 構造協議における、携帯電話の周波数をアメリカが全部よこせと云ってきたと、具体例を挙げ、対米交渉の毅然たる姿勢を説いているが、この言葉のみ鵜呑みにすると単なる精神論である。
 
 が、この時の小沢さんは何よりも実務家として際立っていた。
交渉の事前に官僚の情報を自分で咀嚼し、現場で交渉し、相手の言い分を即時に手短に文章化することができて、また交渉に臨める。そして決断する。
こういう実務能力が当時の自民党政治家の中では際立っていたと云う。
 
 こういう能力が備わっていないと中身のある政治主導はできない。結果、事務処理能力に優れた官僚がジワジワと主導的位置を占める様になる。
 
 ところが「今の政府ではアメリカのいいなりになる」ばかりか、役人世界の官僚に政治判断力は培われているはずがなく、「役所も、特に外務省はアメリカに主張できない。」
 
 官僚、政治家、財界人、有識者アメリカ流に取り込まれる底には彼らがこの日本の国で上層階層を代表していると云う物的事実が意識に反映している面が大きい。勿論個々人の意識性の問題だが、究極的には階層性と云う、<存在が意識を規定>しての結果である。
 
 アメリカ流に寄りそって、ある時期までの上層階層の生活はやっていけたのであり、どうやら危ないかもしれないとぼんやり自覚し始めたのは、日本バブル崩壊の失われた長い年月であり、とりわけ、アメリカンバブル崩壊と中国など新興諸国台頭以来であり、歴史的時間は経過していない。
 
 従って彼らに本当の危機意識は薄弱で、従来のアメリカに寄りそっていく流儀のぬるま湯につかったまま、世界を予定調和で解釈したいのである。
それと世界における相対的地位に低下するアメリカ側の帝国主義的思惑がぴったりと寄り添っている。
 
 そこで両者は取りあえず、自国民多数を生贄の羊にして、共通の階層利害を守ろうとする。同時に、台頭する世界の新生事物に主従の共犯関係を取り結び、力づくで対抗しようとする。
 
 こうした一連の内外基本動向において、橋下徹の様な支配層の先兵となる勢力は形態は違っても日本だけでなく、先進国共通に存在している。
 
 彼らの口先に騙されれ、感情、情緒で重要な政治判断を国民多数が下すようになれば、生活、労働、命と健康の陣地さえも気がつけば手放している事になる。
 
>>小沢さんの橋下認識には誤りがある。
 
 どうしてそうなっているかと云えば、小沢さんの状況認識に階層性の視点がない。
国民の生活が第一」の国民とは富裕層も含まれる。
富裕層が悪いと云っているのではない、それがグローバル資本制に置いて、どういう政治反動の役割を多数の内外の国民に果たすか?と事実分析から問題視している。
 
 小沢さんにはこういう視点が乏しいから、橋下の全体像が見えない。あまつさえ、自分の政治改革の一動因に取り込もうとさえしている様だ。
 
 そういう政治姿勢が故郷岩手の戦前の大政治家、原敬の肖像を掲げて尊崇の念を持っている処に表れている
 
時代錯誤と云ったら個人の心の中の事だから、失礼だが、戦前の軍部台頭は世界的時代潮流の日本的表れであり、民間政治家の力は無力だった。
 
 そればかりか、軍部台頭のハッキリしていた時代背景を読み切れず、20年代後半、原敬政友会は中央集権から地方分権へ、などと時代基調から民衆を目暗ましさせる様な空理空論をスローガンにしている。
 
 こうして、日本民衆は一挙に政党政治に失望し、力強い、一見黒白ハッキリした、モノにどっと己の意思を付託したのである。もうその時は情緒、感情任せであり、その行きつく先に任せるしかなかった。
 
私の小沢批判の根幹は彼の中央集権から、地方分権へと云うもっともらしい主張が空理空論であり、実現不可能性から民衆を絶望させ、現実の支配層の強権支配への展開を覆い隠し、最後はその従属下になだれ込ませる役割を果たす可能性が大きいとみているからだ。
 
 小沢さんの中央官僚制批判は橋下徹のデマ政治に収れんする可能性が高く、その陸続きには日本支配層の国民多数を市場原理主義の支配の檻に閉じ込めようとする基本動向がある。
 
 小沢さんは日本には議会制民主主義が未だ定着していない厳しく指摘している。
 
 ならば、橋下の様な輩に財源の権限を大きく委譲したらどうなるか?
規制する権限が地方に移譲されると弱体化して、グローバル資本の格好の餌食になる。
事実、独立性に強いアメリカの州では、そういう傾向が顕著である。金持ちや大企業は規制のあるウルサイ東部の様なところから、南部を目指す。
コレがアメリカの市場原理主義の中身の一端である。