反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

4月24日(火)大阪下町、自転車一日旅。新世界ー山王町ー飛田遊郭ー釜ケ崎ー四天王寺ー鶴橋商店街ー猪飼野、御幸通り商店街、コリアタウン。

 今日は一日自転車旅行をしようとスケジュールを決めていた。
通天閣の下まで行って散髪をする。
頭洗って900円。所要時間を計る予定が到着した時、ど忘れ。10分程度か。嫌味が過ぎると想っていたが。
 
 山王町ー飛田遊郭
山王町は大阪市内の中心部に南から北に細長く突きだした上町台地の一番南のターミナル、天王寺から西側のかなりキツイ傾斜面に位置する。下り坂の国道を南に入り込んだところが山王町。そのまた続きが飛田遊郭。下り国道を直進すると釜が崎に至る。
 
 山王町大阪市内の中心部にもかかわらず、大空襲の難を町内丸ごと逃れて、大阪の下町の風情が徹底して残っていたところ。
 表通りから細い路地が入り組んだ両脇には古い小さな木造住宅や長屋、アパートがびっしりと軒を連ねている。庭のある贅沢な家には絶対にお目にかからない。
 
 このあたり一帯は戦後間もないころに漫才師、落語家等々の庶民的芸人が多く住んだところであり、その記念句碑が立っている。
 その当時のこの一帯の風景や庶民生活の様子はフランキー堺森繁久弥主演の邦画(この邦画は一応名作に数えられているが題名監督を特定できない。若き日の藤本義一さんの脚本?川島雄三監督「貸間あり」だと想うが?)に描かれている。
 
 >自転車でぐるっと界隈を一回りすると、昔、携帯に撮った年代物のアパート、長屋の超密集地帯は一掃されて、無残にも?在り来たりのマンションが当たり前の様に建っている。
{風情}はなくなった。木の住宅は風情と歴史が簡単に一掃されてしまう。それにつれて心も移ろいやすいという事か。
 
>山王町には一軒の映画館が頑張っている。
 映画館が想った場所にないので、想わず「映画館は潰れたのか?」と声にすると、それを聞きつけた建設現場のガードマンのおちゃんが親切に「映画館ならその向こうにあるよ」と教えてくれた。
 
 >飛田東映、トビタシネマ。
割と新しいビルに入居しており、前者が邦画専門、後者は洋画専で同じ経営であり、ガタガタボロボロの閉鎖寸前の場末の映画館を想像するとかなり、的外れで、<採算の合う特殊経営>をしている。
 
以下の如し!
 通常料金ー一般800円。 学生シニアー500円。 火、金ー500円均一。
 毎日オールナイト興業。 夜間割引ー夜7時より700円。 夜10時より500円。
 毎朝9時開場ー午前中700円に割引。
<飛田東映>上演作品。
 極道三国志         主演 清水健太郎
 賞金稼ぎ           主演 鶴田浩二片岡千恵蔵
 女トバク師、花の切り札  江波杏子、天地茂
<トビタシネマ> 
 ブリッツ
 華麗なるアリバイ
 インプレッション
 
 お客さんのイロイロナ趣向、利用の仕方に即応しているのである。機動的柔軟対応である。しかも800~500円。
 私なら、清水健太郎の方は耐えきれないので、トビタシネマ700円。
 
 釜が崎。
労働センターという日雇労働者労働市場並びに様々な付帯施設のある巨大高層ビル(上階は公営住宅)に行く。
 釜が崎は精神的に云えば<緊張と緩和>の両極端が隣り合わせの街である、と想う。
 
<労働センター求人>
 警備員ー6件。8~17時6500円。食費自己負担。宿泊費、月12000~3600円。
 鉄筋工ー日給10000円。交通費自己負担。
 造船所作業員ー時給1000~1700円。雇用期間定めなし。愛媛県今治。宿泊費5000円。
 ドライバーー月18600円 食費、自己負担。交通費、10000円まで支給。
以上は多分、就労希望者が少ないため、残ってるモノと想定される。
 
<センター便り>掲示物。
 >メインタイトル。震災復興現場の現状と労働者の心構え。
 原発事故現場ではサッカートレーニングセンターが復旧作業の前線基地のなっており、ここに集合して、放射能防護対策をして現場に向かう。
被ばく線量の限界があるので、交代要員にかなりの全国的求人が今後想定される。
 >自分を守るポイント。
放射能障害は5年、10年先になって出てくるモノがありますから、そういうときのために」と先に念を押して、
毎日キチンとしたメモ(元請け、雇用主。現場作業内容。一緒に作業したヒトの名前。)を残しておくように指示している。
後々のために証拠をキチンと残しておく事が自分の身を守る。
 
 >危険は放射能だけでない!
アスベストなど有害物質の中での解体作業の様な作業が想定される。
 
>そして最後に結論付ける。
<一つでも不安な要素があれば、就労すべきでない>
なかなか適切な指導である。
 
>さらに別項目に被ばくに関し知っておくべき事、とある。
<晩発障害>には
「いくら以下なら障害を起こさないという境目がない。
つまり被ばく線量が少なくても、将来的に障害が出る可能性があり、しかも<晩発障害>には数年と云う近い将来起こる可能性がある」
政府が何を云おうが末端行政は状況に適応ししている。上に政策あれば、下に対策あり。尤も今の日本は上にも下にも対策だけしかない。
が、上から下まで固く一体の戦前の様な硬直したシステムだと危機の時代に柔軟対応はできない。この点を今後よ~く考える必要があるのだが。
 
 以上は当地行政の労働者向けの原発放射能関連注意情報だが、
全港湾西成分会ビラのタイトルは、
<10年たっても戻れない福島第一原発近郊町村>とある。
チェルンブイリは30年たっても戻れないが、政府東電はメルトダウン発表をほとぼりの冷めた3カ月度に発表した様に、みんなが諦めだした頃を見越して、10年たっても戻れないと云いだしている、と。
>そういえば、先日の単独インタビューの小沢さんも原発事故避難民にこのまま、先の見通しを明らかにしないと、永遠の流浪の民となってしまう、速く情報を明らかにして、彼らのこれからの人生を支援すべきだと言っていた。
>その26日の小沢判決の判決いかんが政治の流動の「切っ掛け」になる、とビラにある。
ま、淡々と評論家風によくビラにできるな。
 
別の団体のポスターは北朝鮮金日成生誕100周年祝賀の出席とあるから、元毛沢東主義者系のモノ。
この点だけは?だが、他の部分は昔のビラ風で目線、感覚が平らで良い。
 
 四天王寺で持参した昼飯。
広い休憩所で食事を終えて持参の本に集中していると、腹の出っ張ったおじさんが、有名な四天王寺西門の脇で托鉢を挙げていたお坊さんに、食堂の昼食弁当を買ってあげて、ユックリ椅子に座って食べなさいと言っているようだ。
 
 若いお坊さんは手を合わせて一礼し、一人で椅子に座って食べ始めた。
菅笠と荷物をわきに置いて、お坊さんらしい行儀で旨そうに食べる。その様子を見ていると、かなり腹が減っていたんだろうなと思った。
 
 この辺になると、どうしても本から目を反して、坊さんの様子を観察してしまう。
 
すると、食事中の弁当の前にもう一つの弁当がある。コレいかに?
菅笠と荷物の脇のビニール袋に包まれた弁当は解る。あのおじさんが晩御飯用に買ってあげたモノだ。
 
今食っている弁当の前にある、もう一つの弁当は少し離れた所に座っているオジサン用?。
 
ところが、おじさんは一向に坊さんの席に来るようすがない。
 
ということは、一つの弁当では足りないだろうと、買ってあげたモノだ。
腹が減っているのか坊さんらしい行儀のよさは崩していないが速いスピードで平らげて、もう一つの弁当箱を開けて同じようなスピード食いだした。
 
全部、食すのだ。久々にこういう食欲を目の当たりにした。
 
と、坊さんの箸が急に止まって、弁当箱に蓋をした。
が、遠目でもまだ中身がかなり残っていると解る。
 
二つの弁当箱セットはそのまま、調理台に運ばれ、坊さんはそのまま席に戻った。
 
荷物を残したまま、トイレに立ってしばらくして戻ってきて、支度をして出ていった。
 
弁当カンパのおじさんはもうとっくにいなくなっていた。
 
日本はまだ飽食の時代であることは間違いない。
坊さんは食い切れなかった弁当を調理のおばちゃんに包んでもらわなかった。
 
 鶴橋、猪飼野コリアタウン
JR鶴橋駅下車、駅前の鶴橋商店街は東京御徒町の雰囲気をもっとレトロで雑然とさせた碁盤の目のような路地のアーケイド商店街である。
 日本の昭和の商店街の雰囲気と在日韓国朝鮮の方々の生きんがための商売のエネルギーが混淆した日本で二つとない場所である。この在り方自体が文化財のようなきがする。
 
 路地の奥まったところにある、鶏肉専門店兼焼鳥店頭販売は旨い(カシワ肉の甘さコクがある)安い(一本73円)量(ネギ間の肉500円玉の大きさ)が多い。
店内の大きな調理台では数えたら5人が手を休めず、鳥をさばいている。
 
 鶴橋駅前商店街を通り抜けて国道を横切って数分歩くと、
 
ウィークデーなのに多くの人。ほとんどが他所から来た若い女性客。
こんな事は前回訪れた数年前のはなかった。
商店街のところどころに挟まったどの韓流ショップも若い女性客が建てこむようにいて、一種のワールドになって中に入り辛い。
 加えて、奈良観光バスのガイドの先導でおばちゃんたちの群れがゾロゾロ商店街を行く。
ウィークデーでこれだから、休日は大変な人出だと想う。
 
 数年前と変わった処は、韓流ショップだけで、押し寄せる日本人の側に変化があった、と云う事か。
 
商店街入り口の御幸の森神社にはこういう句碑が建っていた。
 
 難波津に咲くやこの花冬籠もり 今や春へと咲くやこの花
 
>なかなか良い和歌で、<咲くやこの花>のフレーズは、難波津=大阪の浪花を連想させる。確か大きな公的イベントでこのフレーズが使われた様な気がする。2度つづけたテンポもいい。
 
>約1600年前の百済からの渡来人王仁(ワニ)博士が当神社の祭神である仁徳天皇の即位を春の到来になぞらえて祝った際に詠んだ句と説明されている。
 
>この句の万葉仮名で書かれた木簡が出土している。(見ると日本語の発音に適当な感じを当てはめたモノで今でいうかな文字とは全く違っている)
 
>それを中世の藤原定家が「古今和歌集」にほぼ全部、かな文字で収録した。
 
>>江戸時代、12回訪れた朝鮮通信使対馬藩の通訳、{雲明}がこの和歌をハングル語に訳して送った。
 
>1994年、そのハングル訳の和歌を朝鮮通信使研究家の辛基秀さんが兵庫県竜野市の旧家八幡家で発見。
 
 以上様に古代、中世、江戸、平成と朝鮮、日本の言語、時空を超えた和歌の立派な句碑がコリアタウン入り口の神社に建立されている。
 
一番近い国、国民同士が仲良くしようという想いをくみ取りたい。
コリアタウン若い女性やおばちゃんが訪れるのはよい事だ。
が、周回遅れは否めない。
日本人はアメリカには遅れまいとしてきたが、東アジアの情勢にはアメリカの都合の目隠しをされているせいか適応しているとは言い難い。
 
 <追記>
一言多い自分は云わずにおれないな。
本当にこの句、ワニさんが作ったのか約1600年も前に。
朝鮮半島の白村江で倭と百済連合軍が新羅、唐連合軍に惨敗したのは663年。
400~500年代にこんな立派な句を作れる百済のヒトが列島に上陸していたのか?
彼らが大挙して列島に訪れたのは新羅唐連合軍に国を滅ぼされてから。
さらに、その時代に倭の国は存在しても天皇を頂点とする大和朝廷は日本に存在しておらず、単なる地方有力豪族の域を出ず、倭の国とは北九州にあって、コレが滅んだ後に大和有力豪族の全国的支配力が成立した。
だから、そもそも仁徳{天皇}と云う方は存在したのかどうか?
中国の国王が皇帝を名乗ったから、大和朝廷天皇としたのだから、天皇と云う呼称は大和朝廷の支配力が全国化した時以後のはずだ。
故に天皇の家系に仁徳天皇の存在は歴史上、確定しようがないのだが、「日本書紀」「古事記」などのズット後の編者がそれ以前に遡って天皇家の家系を書かれた歴史に位置づけた。
今やその視点がハッキリとしてきたから、堺市仁徳天皇稜と称していたモノの名称は外されている。
日本書紀」「古事記」は律令制のほぼ確立した後代の摂関、藤原系の有力者が自己の権料の在り様を正当化する意図も含んで編纂した。故に天皇家の歴史的栄光を遡り威厳神秘性を付与し、それに寄りそう自分たちの権力も大きく見せる必要があった。