反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

グローバル資本制に翻弄される世界のただ中で、現代日本に蘇る江戸中期、後期の封建停滞社会の様相。統計数値、資料から、第一回。

 今現在、野党第一の自民党谷垣体制は憲法改正?草案を発表した。
森永卓郎さんのネットマガジンによれば、従来の主張である「日の丸、国旗。君が代、国歌。自衛隊国防軍。」はまだしも、基本的人権の規定条項である肝心の21条、12条に次の様な注釈が加えられている処が「一番、気がかり」だと云う。
 
 それによれば、
第21条の現行憲法。「集会、結社、及び言論、出版その他一切の表現の自由はコレを保証する」との現行規定に対して追加条文として
「前項の規定にもかかわらず、公益及び公の秩序に害する事を目的とした活動を行い、並びにそれを目的とした結社をすることは、認められない」としている。
森永さんは「コレだと権力者が公益、公の秩序を害すると判断したら、表現の自由は許されなくなってしまうことになる。ファシズムの甚だしい」としている。
 
 また、現憲法の第12条「憲法が保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、コレを保持しなければならない。また国民はコレを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにコレを利用する責任を負う」
の箇所は「自由及び権利には責任義務が伴う事を自覚し、常に公益、公共の秩序に反してはならない」と改正?されている。
 
 結論として、森永卓論さんは「結局、公益、秩序優先で、権力者の意向次第で、国民の基本的人権は制約されると云うファシズム、極右の<世界観>がこの憲法草案の基本理念だ、としている。
 
>が、自民党が半ば運命共同体の様に勘違いしている米国。その合衆国憲法における人民の基本的人権の該当箇所は第1~10の修正条項に明記されている。
 
 修正条項第1条。信教、言論、出版、集会の自由、請願権。
この修正条項は日本人でも知っているヒトは多い。
 
 マッカーシー旋風が吹き荒れた時、委員会で証言を求められた私の尊敬する作家ダシール、ハメットはこの修正第1条を基に一切の証言を拒否する。結果、法廷侮辱罪で刑務所送りとなった。
>しかし、マッカーシー旋風は報道番組の逆キャンペーンによって、収束し、後世の当該のハリウッド関係者を含めた多くの民衆から歴史的に否定され、ハメット等の志を貫いた人たちは、リスペクトされている。
今のアメリカでも当時のマッカーシーが正しかったと云い切れる国民は一部に限られているだろう。
 
自民党憲法草案の様に基本的人権の中核条項に制限を敢えて追加しなくても、冷戦構造の深化と云う世界情勢や世論の動向によって、国家基本法は権力者や煽動された市民たちによって恣意的に解釈される。
だから、証言拒否をしたダシール、ハメットは刑務所に送られた。
 
>>が、自民党憲法草案の追加条項は<マッカーシー旋風に対するマスコミ報道番組の逆キャンペーンによる収束>という<社会の社会自身の力による復元力>を失わせるものだ。
 事実上、そういう事になってしまう。
 
 そして結果として、また外国の力による国体の変革を待たねばならない事に繋がっていく。
その辺の思慮が全くなされていない。過去への自主的反省がないのである。
 
>>それは、森永さんが云う様な「ファシズム、極右の世界観がこの憲法草案の基本理念だ」と云う以前の浅はかな次元の問題である。
 
 ヨーロッパのファシズム、ナチズム、現在の極右は各々もっとそれなりの歴史的背景があって登場してきている。全部ひっくるめて論じるのも間違いだし、単純に自由の抑圧、人種差別、大量虐殺に一面化して、日本の自民党等の政治傾向を論じても少なくとも私には説得力を持たない。
 
 自民党等の政治傾向は、本質的にグローバル資本制をバックにした少数派に過ぎない自分たち(支配層の秩序)さえよければ、他はどうなってもいい、という浅はかな低次元が透けて見える。
ファシズムやナチズムは階層間のギリギリとした闘争の中で「大衆」を巻き込んだ運動として生まれてきたのもであり、彼らとしても多数派獲得のために多数の民衆に生活と労働を補償する必要があった。
 
>そういった意味で、現日本のこの種の政治傾向はファシズム、ナチズム以下であり、即自的(先を急いで危機感煽りで目暗ましも彼らの特徴)に多数派民衆から仕事を奪い、生活苦に陥らせ、貧乏にする急進的なグローバル資本制の走狗の保守主義アメリカの手先になって国民多数を共同支配する政治路線だ。
 
しかも、宗主国アメリカ以下的な次元の低い、浅はかな基本的人権概念しか持ち合わせていない。
いうなれば、戦前の帝国憲法への幻想と長年の現日本国憲法によって、国民多数を騙し、支配してきたボケが彼らの中で同時進行してきた結果、生み出されたモノが自民党権法草案に過ぎない。
 
 >>長期停滞社会の江戸時代、中期、後期の幕府の自らの支配秩序を維持するための目先のな云い目で見たら人民に負担ばかり強いて停滞社会を再選するしかない{改革}がこのグローバル資本制の現代に蘇ってきている、とでも二重写しにした方が本質が解り易い。
 
 修正第2条。人民の武装権。
>コレは民兵武装力を基盤とした国軍の在り方を規定したモノである。
ブルジョア市民革命は市民の武装決起によって勝ち取られた、歴史的事実を憲法の中でしっかりと踏まえている。
 自民党が云う様な他所の国に与えてもらった軍事力、しかも朝鮮動乱の後方兵站という恵まれた出発点に育まれた、自衛隊の国軍への昇格規定とは次元が違う。
人民の武装の肯定であるばかりでなく、それを基礎とする国軍である。
従って、論理上、現自衛隊は解体せねばならぬ。しかる後の国軍である。
 
自民党等の憲法改正の核心点は、問題意識として、現イタリア憲法ファシズム(王政は二度と復帰しない共和制)、現ドイツ憲法のナチズム(ナチズムの行為、活動、団体は憲法違反)の過去を踏まえた規制条項にある、<規制の具体的対象>がが見当たらない。
ならば、憲法の中核部分に対する規制対象の明示がなければ、<権力者の恣意>によって、どうにでも解釈できる。
 >>日本国憲法の最大欠陥は占領軍による日本支配をより有効に貫徹させるために、米軍事当局と残存宮廷支配層が日本国民の預かり知らぬところの宮廷政治的交渉によって、統帥権の最高責任者である昭和天皇天皇制の延命と引き換えに、<人類史の経験から生まれた一方の科学的国家の側面である階層暴力支配、国家暴力装置としての国家論に無理矢理目を閉じて、政治的国家共同幻想としての側面だけを取り上げた空理空論にある。
>>この様な片肺憲法は東アジアの戦後史の観点から見ると、日本戦後史上に実際、機能していたのは、朝鮮半島の膨大な流血を伴う政治的軍事的対立が深化するまでの1947年以前、と云わねばならぬ。
日本の具体的な重大政治事件としは1947年2、1ゼネストへのGHQによる中止命令が転換点であり、そこに置いて日本国憲法第9条の国家論的片肺矛盾は噴出していたとみる。
理論上、米軍事力統治がなければ、2,1ゼネストは全国の警察力では抑止できず、決行されていた。
 
 言い換えると日本国憲法第9条はアメリカ支配層による敗戦帝国主義日本の天皇制残存利用、日本の国民統治、アメリカナイズ化=東アジアの政治的軍事的拠点化の政治過程で、日米層の双方の支配層にとってぜひとも必要な法的実体的な構造物であった。
 
 アメリカとしては天皇制を支配の道具化するには、日本の国家的非武装の担保は必要。
敗戦、武装解除された日本支配層としては朝鮮半島、中国大陸の軍事的政治的情勢も加味して、全面的に米軍事力の要求に沿って、コレに乗っかって、当面、雌伏して、自らの日本国民への支配力を回復する道しか選択肢はなかった。
 
 その場合、戦前の天皇制への国民的帰依はGHQにとって、日本国民統合による政治支配の幻想的道具である(昭和天皇が自らの命乞い=どうして日本の武人の伝統に沿って自らをさばかなかったのか?と天皇制延命のためにアメリカに屈服すれば、日本国民はまとまって、屈服する)と同時に、統合した力による自らへの政治反抗の道具ともなる危険性を抱いた。だから、その最高点の統合した武力反抗を解除する項目を国家基本法に挿入せざる得なかった。
 
 しかし、敗戦直後の日本国民大半の茫然自失状態からして、日本天皇制は所詮、日本人、個々の個性、人格の実存に根ざしたものでなく、日本国家のアジアへの勝利的拡張に浮かれたミーハー心理によるものだった、と云わねばならない。だから、本土大空襲、原爆投下、軍事占領による米軍の物理力を目の当たりにすると、一挙に全国民的戦意喪失となった。日本君主制は所詮、日本国民大半にとって宗教の領域のような求心力のあるモノでなかった。天皇制は国民多数にとって心の内にあるものでなく外にある制度であった。
 
>ところが、日本国民大半の朦朧としたミーハー的意識状態とその先端の精華は分けて考える。
敗戦間際の米軍艦船に対する<特攻隊>の自爆攻撃は人類史上に稀にみる戦いであり、どうしてあのような戦いが、日本人の庶民の側から可能になったのか、受け止める必要はあるまいか。
従順に命令に従属するだけでは、組織的にあのような戦闘行動はとれない。大量の軍人の自己犠牲による国家と民族の共生への戦いの精神が近代化以降から今日までの日本の急速な発展の土台の一つなりはしなかったか、と考え直してみる必要がある。
次回に取り上げる敗戦を挟み、戦前戦後を通じた日本資本制の異常な発達(GDPが3倍以上になっている列強は日本だけ。)は時代と地政的環境に恵まれた、とだけでは説明しきれない。日本人を神秘化する必要は全くないが日本人が歴史の積み重ねの中から、大切な人間的要素を獲得してきたのは確かである。
 
 問題はそれを有効に生かす事だが、この点に置いて肝心な歴史的結節点で間違った選択をしている。せざる得ない立場に追い込まれている。
どうしてそうなってしまうのか、あからさまな処も含めて、民族の歴史文化、習俗を内在的に検討する必要がある。中国朝鮮の東アジア史の鏡を通じて自分のたちの実像を映し出す作業も必要だろう。
 
 特攻隊は明治近代化以降の富国強兵の制度や時代の空気だけに醸成されたとばかりは云い切れまい。
例えば、イスラム教徒の自爆攻撃は制度と社会的空気によってだけ、敢行されてきたのか?
発展途上に地域で民主主義が足りないからなのだろうか?それだけなのだろうか?
 そもそも、イスラム教徒の自爆攻撃は日本の若者たちによるリッダ=テルアビブ空港、突撃攻撃までは、戦術とされてこなかった。
 
 特攻隊は日本人に内在する精神として、この時代に置いて、検討したい。
経済面の成果に注目しないで、庶民レベルでの武装、戦闘行動の次元からとらえ返す、と云う意味もある。その積み重ねが民族の自立ー国家形成である。
 
>残存日本支配層にとっても、天皇制と官僚制は日本国家権力の日本国民支配と統合の中枢である=国体、と明治以来の近代史上、身をもって知っていたので、この政治的上部構造の中枢が温存されている限り、残存支配層は延命し、再構築できると確信していた。
 
 >要するに自民党等の憲法草案は現代のグローバル金融課と支配の進行のすう勢にあって、江戸時代の支配者の基本政治感覚で事に当たると宣言している様のものである。
宗主国アメリカにさえ見当たらない基本的人権の制約条項を設けようとしている。中国に憲法があるかどうあ知らないが、そっちの方に近いのじゃないのか?しかし、どう考えてもこの先中国は今より民主化する。処が日本の自民党憲法草案は非民主化の方向を目指している。
 
グローバル金融寡頭支配が進行する必然にある先進国日本にその意向に沿った単純な「改革」や「維新」を断行しようとすれば、必然的に現代に江戸時代の支配による長期停滞社会を蘇らせることにしかならない。
 
>今日は時間不足のため、それを証明する数値や資料を載せて論じる事が出来なかったが、数字や資料をヒト目で見れば、歴史的傾向は明らか。
 
>次回は数値を資料を挙げる。
行き成りやっても良かったが、挙げるモノが中長期の数値資料ばかりなので、現実との結びつきが乏しくなると想って、敢えて回り道をして、リアルな事を挙げた。
自民党等へのファシズム、極右は過大評価である。