反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

青春の城下町。懐かしい昭和の原風景。が、日本の人的資源の配分と云う立場から教育システムと産業の肥大化とコストの問題を指摘せざる得ない。教育もデフレ再生産の要素。

      <青春の城下町>
 流れる雲よ 城山に
 登れば見える 君の家
 灯が窓に ともるまで 
 見つめていたっけ 逢いたくて
 
 ああ、 青春の 想い出は
 わが ふるさとの 城下町
  
      唄 梶光夫  作曲 遠藤実  作詞 西沢爽
 
 日曜の昼下がり、寝っ転がってラジオを聴いていると、笑福亭仁鶴と女性アナのディスクジョキーで、懐かしい昭和の歌謡曲が流れてきた。
30分程度の短い番組の流れる曲は全編、日本が高度成長に向かおうとする時代の曲ばかりだった。
 
 上方落語の重鎮、笑福亭仁鶴が青春時代に街角で、ラジオ、テレビで流れていた歌謡曲の数々をゆったりとした独特の語り口で、当時の自分と歌謡曲の生の触れ合いを懐かしそうに回顧していた。
 
 いいなぁ~。落語家は。
長い年月を掛けてその道に精進すると、いぶし銀の様な味わいが出てくる。
まさに存在そのものが芸術の域に達する、とでも云おうか。
30分のラジオ番組そのものが、究極の癒しの空間になって、仁鶴落語を一席、聴かせてもらった様な気がした。
 
 <青春の城下町>
 その仁鶴ラジオの冒頭に流れた唄だった。
掴みとしては最高のインパクトがあった。
まさに自分にとっては癒しの衝撃。
今どきのテレビの懐メロ番組でも、あのように昭和の原風景をピュアに、爽やかに、そして何より丁寧に歌い上げる歌手にお目にかかれない。
昭和の城下町のリアルタイムな青春の空間を見事に唄声、曲で切り取って提示した当時の所謂、青春歌謡である。
 
 ラジオから流れるその唄は何時とはなしに、当時の原風景と共に自分の身体の中に沁み渡っている。
唄を聞けば、田舎の青春時代の原風景は蘇ってくる。
 
  確かに街の真ん中の駅の裏に小さな城山があった。その周辺は閑静な公園だった。そこから、少し離れた高校に自転車で毎日通っていた。
 
 自由と云えば聞こえがいいが、放置された青春時代だった。
後ろから、決められた明日に向けて焚きつけるモノもいなければ、上から枠に閉じ込めようとする体制もなかった
 
 >今、在る切っ掛けで母校の後輩たちのツイッターを時々拝見する。
 みんなよく勉強に励んでいるのには感心する。
というか、頻繁に繰り返されるテスト、補習、塾、家庭教師の受験体制、おまけに一部学力に特化したモノ以外の凡人はクラブ活動にも精を出した方が内部評価を高め、有名大学にフリーパスで入学できるシステムが完成している。
 
 でもなぁ~。
申し訳ないけど、コレら御子たちのツイッターを拝見する限り、
私らの時代に比べて、基礎学力が向上しているとはとてもじゃないが想えない。
それに、当時に比べて、本質的に無邪気、素直すぎないか。
反抗、反撃の機会も周囲に見当たらないようだし、その萌芽の機会があったとしても真面目で優秀とされている子ほど、内省して、自分を周囲に環境に適応させようと努めている様だ。
良い子であることを長く続けていると体質化している様だ。
ま。私に言わせるとこの時点で早、世界の複雑、多岐な一部を知らず知らずのうちに人生から排除している。
 
 
 この様な心と体の回路を馴染ませていく事に、結局、この教育システムは集約されている様だ。
露骨に云えば、目に見えない<将来の服従の檻に順応するタイプの人間像を型枠整形する行程>。
これが、今や義務教育化されている高校までの労働力商品の生産工程。
 そして、その先にある大学は悪し様に云えば、小羊の群れの牧場。
そしてその先は牧場の柵は取り払われているが、羊の群れとしての市場原理主義の見えない服従の檻が待っている。
 
 結局、日本の市場原理主義服従の檻に順応し、その枠内で能力を発揮できる社会人、企業人と云う最終到達点から逆算された教育システム、教育産業がこの日本の中に根付いて久しい訳だから、それ自体が生命力をもって、拡大再生産されている。
 
 人的基礎要素は昔とちっとも変ってないと想う。
むしろ、アンチがあり、それへのアンチがあって、ジンテーゼに至る回路が途中で、一切遮断されているのだから、長い目で見たら、矮小化、硬直化に結果している。
 
 冒頭に挙げた笑福亭仁鶴の様な長い年月を経たいぶし銀の味わい深い光沢を放つ世界は、そういった教育システム、教育産業からは生まれ様がない。
説得力、想像(創造)力を育む余裕、余地の絶対空間が欠乏している。
 
 こういった点に日本の将来を危ぶんだ文科省官僚がかつて突然、<ゆとり教育>に急旋回したが、従来のシステム、産業の拡大再生産機能とでも云うべき世論に跳ね返されて、失墜した。
私自身、ゆとり教育がどんなモノかは、知らないが、その推進者であった当時の文科省官僚の寺崎研さんの意見をマスコミを通じて垣間見ると、基本理念はこれまでの日本の硬直化し、非創造的になった教育システムを是正しようとする意図があったと、想われる。
 
 その神髄を卑近に云えば、
世間が云う様な悪平等教育ではなくて、各々の分野において、創造的能力を発揮できる才能を持っているモノ、
あるいはその志を持っているモノと、凡人たちを区別し、両方の能力が発揮される環境を教育段階で設定する、と云う事ではないか。
 
 云い換えると、机の前に長時間、座って将来の事務作業の訓練の如き作業をする事に向いていない子供に対して、教育システム、教育産業として、机の前に縛り付けることに本質的に何の意味があるだろか?と。
 
 この様なシステムは基礎学力不足云々の範囲を結果的に大きくはみ出している。
狭隘な枠からの徹底した疎外者、脱落者を生み出し、結果的にシステム、産業の肥大化に見合った成果を上げづらくなる。
 
 また、システム内で無理矢理机の前に縛り付けられた残存者凡人?にとっても自己鍛錬によって、上昇し様と云う志を萎えさせてしまう。
その弊害が顕著になってきたと察知したから、システムと産業の肥大化による縛りと無駄を解いて、基礎学力の不可欠なモノにはその方面に特化した教育環境を設定した。
 
 昔はアレコレ云わなくとも自然にそれができるシステムだった。
 
 そぐわない人的要素のモノに頻繁なテスト、補習、塾、家庭教師などをシステム、産業として結果的に強制する教育環境はなかった。
時間の無駄であり、創造的余裕、余地の喪失である。
ただ、意味があるとすれば、将来の<市場原理主義服従の檻>への適応能力を強制的に刷り込んでいるにすぎない。
 
 官が実施する一斉テストでその学校や地域の平均点が上がったの下がったのは、日本社会の将来の人的資源の適正配分と云う広い視野に立てば、関係ない、というか、むしろ逆行。
文盲率や単純計算能力と云う意味では日本社会は大昔から先進だったのであり、もうこれ以上、学力を持って底辺の底上げをする必要がない。
私が今まで体験している限り、日本人ほど様々な分野においてエキスパートが揃っていて、それ以外の人たちが謙虚、勤勉、効率よく働いている民族はいない。
コレを云い換えると、日本の教育環境がそういった日本民族の優秀性を育んできた。
 
 ところが、資本制ではシステム、産業はより多くの儲けを求めて拡大再生産を目指し、教育分野も同種のベクトルが働き、独り歩きの拡大再生産を遂げる。
結果、本来的に様のないモノに頻繁に繰り返されるテスト、補習、塾、家庭教師が周囲を取り巻き、不必要、非生産的縛りをする。
 
 大学も労働力商品の最終生産工程として、できるだけ市場原理主義服従の檻への適応をめざす。
この目的に沿って、最大限の人的資源を高校からリクルートしようとする。
 
 そのリクルート活動がシステム化されたのが各高校に割り振られた指名入札制度ともいうべき、指定校制度。
コレによるシステム化された縛りがあるから、本来の人的要素としては不必要な生徒と家庭、教師がシステムと産業の利用者、受任者に成らざる得ない。
 
凡人は学習の中身が身につかないにもかかわらず、兎に角、真面目にやっていなくては排除される。
関係者にとって、教育システムの段階で振り分けられるのは避けたいモノだ。
 
 この選抜過程を潜りぬけ、有名大学に無試験入学を果たしたモノの人的資源が昔より優秀とは思えない。
素直、従順にシステムと産業に沿ってきたモノを結果的に選抜しているにすぎない。
 
 以上を持って、日本国民が羊の群れになるのはただ今現在の日本教育の素晴らしい?成果である。
 
 が、繰り返しになるが、日本社会と経済の人的資源配分と云う大きな視点からみるとそういったシステム、産業の肥大化はコストに見合った成果をもたらさない。
なのに、システムと産業の自己増殖的肥大化が閉じられた閉塞の円環構造で日本社会経済文化の停滞を教育方面から拡大再生産している。
 
 最近の記事はデフレ経済問題を取り扱う事が多い。
日本のデフレはまさに複合要因によって発生している。
 
 その複合要因の中でどう足掻いても短中期的にはどうにもならないモノと、問題を解決しようとすれば、何とかなるかもしれないモノに振り分けられる。
 
 教育方面のシステムと産業の肥大化によるコスト高、無駄を是正することはやろうと思えばできる事だ。
人間の本性を本質的に愚弄する様なシステムは正すべきだ。