眼にて言ふ 宮沢賢治
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いているですからな
ゆふべからめむられず
血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうもまなく死にさうです
けれどもなんと風でせう
もう清明が近いので
もみじの若芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
あんなに青い空から
盛り上がって湧くやうに
綺麗な風が来るですな
あなたは医学会のお帰り何かはわかりませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気でいろいろ手当てをしていただけば
コレで死んでもまづは文句もありません
血が出ているのにもかかはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂なかばからだをはなれたのですかな
ただどうも血のために
それが言えないのがひどいです
あなたの方から見たら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきおとった風ばかりです
>大きな病院に右ひざを見てもらいに行った。
初診だから、きっと待ち時間がかかる、と想って、文庫本を持っていくことにした。
さて、何にしようか。
いつものカミユ「シューシュポスの神話」。
いや待てよ。
堕落論、本編はちっとも面白くなく、途中で投げ出した。
こうして、待ち時間、3時間余りをボールペン片手に線を引き、書き出しをしてながら、待合の椅子に座って読み始めた
堕落論は敗戦直後の発表と云う事もあって、肩に力を入れて、論じ過ぎ。
所詮、坂口安吾はその器に在らず、素養もない。お門違いと云うモノだ。
大空襲のよる被災、敗戦の記憶が生々しく、混迷化にある当時にあっては
坂口の様な所詮、戯作文学的立場から、一歩も外に出ない、出れないモノが、ワザとらしく大上段に振りかぶって、分を弁えず、日本と日本社会を論じる事で、敗戦によって知に迷えるノンポリ、日和見読書層をそのまま固定化できたかもしれないが、時局を離れて、歴史的経過を経た今日に至って、堕落論の内容に普遍性は見いだせない。
単なる通俗論の確認に終わっている。
敗戦を論じる器なく、素養もない流行作家が文章作法の旨さや目の付けどころの斬新さで、読書界を凌駕していった処に、敗戦直後の日本知識層?の大きな限界を見る。
何はさておいても、民衆を戦争に引きづり込み、多大な犠牲を強要した、支配層が日本人自らの手で一掃されなければならなかった。
と云う訳で、坂口の様な戯作文学的な下世話な日本と日本社会論は拒否していた。
安吾はあまり大きな事は云わない方がいいのだ。
「日本文化私観」。
安吾のエッセイの中では有名なものらしい。
戦後、安吾が批判する小林秀雄流の素朴存在の正当化の方法を用いて日本的伝統の実際の在り様を指摘し、批判しているが、小林秀雄と違って、出口が日本の伝統美の肯定ではなく、俗なるモノ、唯物の機能美、生活者の生きざまの全面肯定に向かっているだけだ。
「私観」は戦争中の発表されたモノ。
この時点では小林秀雄の批評手法には、出口が違うのだから疑問を持ちつつも、批判は及ばなかった。
>敗戦後直後の昭和21年6月「新潮」発表の「教祖の文学」によって、小林秀雄を徹底的に批判するに至っている。
>ここにおいて、やっと坂口安吾の本領が発揮される。
批評対象がやっと文学に限定されたから、彼の舌鋒は鋭く冴えわたっている。
その証拠に文庫本の作品解説において(S32年)、自他共に認める坂口の盟友、壇一雄は今や文壇の教祖の如き存在になった小林秀雄に気を使って、坂口との日常的交流を肯定的に綴った小林の文章で締めくくっている。
ところが、壇一雄の引用した小林の文章は、この程度の描写能力しかないモノがどうして、文壇の教祖なのかと疑わしめる酷いものである。教祖失格である。
坂口は「教祖の文学」の冒頭でこう記す。
「彼の昔の評論をいま読み返してみると、随分いい加減度と想われるモノが多い。しかし、あの頃はあれで役割を果たしていた。彼が幼稚であったよりも、我々が、日本が幼稚であったので、日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育って、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につく様になったけれども、実は小林の欠点が解るようになったのも、小林の方法に学んだせいだ。」
戦争に負けて、ほんの少し日本が大人になったことも影響している。
>「小林は曖昧さを弄ぶ性癖があり、気の利いた表現に自ら想いこんでとり済ます態度が根底にある」
>「生きている人間などはなにをやらかすか解ったためしなく鑑賞にも観察にも耐え得ないと云う小林はだから死人の国、歴史と云うモノを信用し、<歴史の必然>などと云うことをおっしゃる」
>「死人の足跡(歴史)がのっぴくならぬギリギリなら、生きた人間のしでかす事ものっぴきならぬギリギリでなのだ。」
>「もし生きた人間のしでかす事がのっぴきならぬギリギリでなければ、死人の足跡(歴史)ものっぴきならぬギリギリでなかったまでの事、生死2者変わりあろうはずはない」
>安吾、の生の能動性の立場を対置しての小林批判の真骨頂である。
そして、安吾はここまで云い切ってしまう。
>>「死んでしまえば人間は終わりなのだ。自分が死んでも子供は生きているし、いつの時代も人間は常に生きている。」
>「しかしそんな人間と自分は別モノだ。」
>「自分と云う人間は全くたったひとりしかいない。そして死んでしまえば、無くなってしまう。」
>「ハッキリ、それだけの人間なのだ」
「悟りを開く事は無難だが、そうできない人間がある」
「生きることはまったくばかげた事だけれども、ともかくも精いっぱい生きてみるより仕方がない」
>こういう安吾からすると
冒頭の死の床に横ったわった宮沢賢治の最後の詩は何より崇高に映る。
「半分死にかけてこんな詩を書くなんて罰当たりの話だけれども、徒然草の作者が見え過ぎる不動の目で書いたと云うモノの実相と(多分、小林の批評)この罰当たりが血を吹きあげながらみた青空と風と、まるで品物が違う」
「本当にひとのこころをうごかすのは、毒に充てられた奴、罰のあたった奴でなければ書けない」
「モノの必然など一向に見えないけれども、自分だけのモノが見える。自分だけのモノが見えるから、それが万人のものとなる。芸術とはそういうモノだ」。
>この記事を書く前に、宮沢賢治を調べた。
確かに、宮沢賢治は親兄弟から見たら罰あたりの息子だった。
生きている間に作品は全く評価されず、有り余る才能を持ちながら、人生の選択において、その都度、利に在らずの方向を選択した。
安吾の指摘は的を射ていた。
>坂口安吾の本領が発揮されているのは文学評であった。
流行作家の多作生活の中で薬と酒に出口を求め、イロイロ分不相応な余計な事を書かせて、最後は脳出血で49歳の若さで死なせたのは、日本の戦後出版マスコミの金儲けシステムの所為、日本の文化的貧困の所為である。
当時の無頼派作家三羽ガラス。
昭和30年49歳で亡くなった坂口が一番、最後まで残った。
やっと子供を得て、コレから、少しはまともな家庭生活を営もうとした矢先、脳出血で倒れたのではないか。
>彼の太宰批判を読むと、自分は太宰よりも常識人と云う処からの批判に終始している。
ということは、威勢のいい人生哲学論も眉に唾をして読んだ方がいいと云う事だろうか。
そういう考えもあると云う程度に。
>診察してもらった右ひざはナントもなかった。
触診した若い医者は素晴らしい足をしていると褒めた。
健康オタクだからしょうがない。医者が云うのだから間違いない。一種の病気だ。
今後自重したいが、できるかどうか。
自分が死ねば、人間と世界はそのまま宇宙に残っているが、世界はTHE、ENDである事だけは間違いない。