反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

幕末ー明治初頭の国家権力の動揺、形成期における民衆騒動と秩父困民党大衆蜂起。及び本居宣長批判。

  激動の時代のただ中にあって、実際に戦いを主導し、あるいは積極的に参加する、リアルな生きた「革命家」、活動者などの群像のダイナミックな視線、思考を十分くみ取ることが大切と気付いたのは、串田孫一さんの名著「秩父困民党群像」の復刻版を超、久しぶり読み返した時だった。
 
 串田さんは大衆蜂起に導いた秩父困民党の指導者たちに熱い想いを持って各人を活写している。
初版本は1973年秋、と云う事だから、私が読んだ頃もその後あたり。
 
 が、今改めて再版された「秩父困民党群像」を読み始めると、冒頭の部分の困民党総理、代言人、侠客、田代栄助の蜂起を決意する直前の内面の次の様な描写には大きなひっかりを感じる。
 
 50歳の地域ボスでリアリストとして民衆を巻き込んだ蜂起に逡巡する田代に対して、周囲の熱い活動家たちの熱烈な説得が功を奏する場面。
 
 「秩父一郡に埋没しがちな困民党中枢の戦略論に視野の拡大をもたらした<関東一斉蜂起論>はためらう栄助の侠気に強くアッピールしたように想われる。騒動が関東一円にこだましていく時にのみ、右4カ条(借金長期据え置きや税負担の軽減の経済要求であり、政治的要求は一切なし)の要求は彼らのモノになっていくであろう」
「それが幻影だとしても栄助には決意のばねに成った」
「測定される不可能性の領域で、栄助の内部には理想と現実の亀裂が生じ、彼はその亀裂を<死の決意>で繋ぎ合せるしかなかった」
 
「関東一斉蜂起論が幻影に留まって明確な展望に成りえない事が田代を最初からニヒルにしていたし、そのニヒルな影は、その後の秩父事件の発展の中で特異な色調を投げかけた」
 
 ここから先の記述は自由党中央には困民党の借金長期据え置き、減税運動を指導する体制に全くなく、郡役所、警察当局は高利貸しと一体化して要求をはねつけた事を指摘し、合法領域の粘り強い戦いが暗礁に乗り上げて、「より過激な手段に訴える事を、ごく自然の成り行きとして平静に受け止められさえした」と展開していく。
 
 さらには「11月1日の蜂起決定日を目前にした10月14日、必要な軍資金の調達に非合法的な軍資金調達活動」を実行し、秩父一帯の各村の組織化を展開する。
 
 >そして蜂起直前の10月30日の最終的な戦術会議を迎え、村々から駆け付けた農民たちは田代栄助、他一名の幹部の蜂起延期の説得を聞き入れず、会議の大勢は予定通り、11月1日の蜂起を結論付けた。
こうして神社の境内の会議で栄助は大衆蜂起の大隊小隊、兵站にきっちり任務分担された役割票を発表する。
 
>今一般的な秩父困民党農民蜂起の説明は西南戦争時の不換紙幣乱発によるインフレと一転する強権的な松方デフレ政策による養蚕業に特化した秩父地方の農家の高利貸しへの借金の増大=田畑を売り払って都会に流浪するしかない窮迫から説明することが多い。
事実、経済的見地から見たらそういう事になる。
 
井出孫六さんは作家だけあって、そういう単純経済主義の見地をとっていない。
一地方において借金苦のモノの多数発生状態と、4000人もの農民が武器をとっての大衆蜂起する事態の間には大きな溝がある。
 
 当時の福島事件から始まった自由民権運動の一連の騒擾事件との関連からも困民党農民大衆蜂起は説明しきれない。
困民党の指導者たちは党員であっても、秩父地方の自由党の指導系列からはみ出している。
総理の田代栄助自身も自ら申し出た自由党加入を警戒されて断られている。
困民党蜂起は絶対主義権力の探索の埒外からから発生した。 
 
>確かに井出孫六が指摘する様に「秩父自由党の地主層では受け止められぬ状況変化がダイナミックに秩父地方を覆っていた」事は間違いないが、主導者、参加者に旦那自由党員はいないが、教師や上層農民も含まれている。まさに秩父地方の大衆蜂起だった。
 
>が、4000人の民衆が束になって蜂起する時、少なくとも「身を呈して先頭で戦う指導集団」が必要。
それに呼応して民衆の間に湧き立つエネルギーがいる。
 
事を起こす主導者、呼応する民衆の側の主体的状況が決定的重要。
 
>>私は蜂起に向けた困民党総理、田代栄助に串田孫一さんの描きあげたようなナィーブな心境は余りなった、と考える。
 
 実際に蜂起の準備過程で非合法的資金調達(強盗)をも行っている。他方で村々への蜂起に向けた組織活動も展開している。コレに200人の子分を従えていたと云う侠客田代栄助の関与と云うよりも、指導は決定的だっただろう。人望もあって荒っぽいことができる人物だから、総理就任を依頼された。
 
 私が調べた自由民権運動騒擾事件の中でも、尤も権力を手玉に取ったと想われる名古屋事件においてやくざの組織性は決定的だった。その他の一連の自由民権運動の騒擾事件は権力がスパイを使ったり、包囲網をしっかりとして、手ぐすね引いている処に夏の虫の如く飛び込んでいった。非公然非合法闘争への完全な未熟性があった。大言壮語のそっくりそのままの延長線上での非合法闘争突入だったから、飛んで火に入る夏の虫なのだ。
 
自由民権運動と違う位相に派生した秩父困民党であったが、いざ大衆蜂起の実行の瞬間が近づくと、逡巡者が指導部に出た。
が、コレは串田さんの指摘と違って、古今東西のほとんどすべての大衆的蜂起闘争において繰り返されてきた事実である。
田代栄助は蜂起が悪いとしているならば、準備段階で手を引く。蜂起決定的瞬間における躊躇は蜂起指導部によくあることである。
「戦術会議は有効な自己変革の場でもなく、延期説に固執しつつも大衆的高揚のの前に田代栄助も井上伝蔵も11月1日一斉蜂起の決定に仕方なく従った所に<一つの悲劇>!が芽生えた。」
この井出さんの視線に大きな間違いをみる。
大衆実力行動の主導者のリアルな目が決定的にかけている。
 
困民党の指導部の蜂起に際しての逡巡は職業的軍隊の系列に沿って命令を下し、軍事行動を決定するのとは大きく違った余計な配慮がいる。云わば、大衆闘争から大衆的建軍までの政治軍事過程を短い期間に凝縮したようなモノである。住民の暴力闘争に至る過程ではこういった未熟過程は常に付きまとう。
 
>田代栄助らは蜂起の道を踏み出した。
作家の云う様なナィーブな心根が指導部や呼応する民衆の側に存在していたら、そもそも、蜂起の準備をしての最終戦術会議は成立していなかったはず。蜂起の瞬間を決めるのが戦術会議であって、やらない方向を出すのは戦略会議。煎じつめれば、そういう事になる。だから待機方針が大衆討議で否定されるのは当たり前。
 
>>彼らは最初の談判の段階から、徹底的に「やり返す」事を含んだ高利貸しや郡役所警察当局への怖談判だったのであり、暴力闘争への発展は念頭に置いていた。
そういう心意気、覚悟が最初からあっての、談判決裂、大衆蜂起のへの自然な流れが生まれた。なければ引き返せたのである。
>コレは革命を孕む大衆の本物の自然発生性である。
 
 自由党中央や警察役所の無対応の結果、蜂起の方向に追い詰められて、蜂起の選択肢しか残されていなかった、と想定するのは本当に戦う決意をしたモノたちのリアルな視線、心根に対する想像力の欠如だ。
 
 井出さんの様な蜂起者への中途半端な同情心が戦後民主主義の限界点である。
 
>困民党蜂起者のリアルな視線にあったモノは幕末から明治初頭にかけての外圧の下、支配層、庶民を巻き込んだ日本の内乱状態である。
そのダイナミックな時代基調のただ中において、自分たちの蜂起の現実性を実感できた。
 
>守勢に回る反対闘争と云うよりも、短い期間に大は支配層の主導権を巡る内乱から、小は支配体制のタガが緩んだ事による騒擾事態が連発されてきた時代基調がもたらした<攻撃的で勢いに載っていた>部分が多かった。
 
>幕末からの百姓一揆は江戸時代の通例であった百姓の領主に対する仁政を期待しての、強訴から逸脱する殺人放火強奪を含む武力闘争形態に移行しているモノが見出せる。
 
 モノの本によれば、無宿人、やくざが絡んで主導権を握った結果の逸脱行為の如くしているが、そもそも無宿人、闘争参加のやくざが村々から沸き起こってくること自体、幕藩体制の支配のタガが緩んできた証拠であり、また百姓も彼らと行動を共にした。
 コレらが混然一体となっての農民闘争であり、敵を見間違って、弱い者をいじめた訳でなく、攻撃目標は強欲な地元のお大尽とハッキリしていた。その渦中での殺人放火略奪である。
 
>>困民党群像はひ弱くナィーブではなかった。
 
 おそらく江戸時代の3000件に及ぶ百姓一揆においても彼らはパックス、トクガワーナの時代だったからこそ、暴力的逸脱行為を戒め、強訴に徹していた。戦国の世の百姓は凶暴であり、そうでなくては生きていけなかった。江戸時代には無理な闘争形態を選択する必要はなかった。
 
自由民権運動が戦闘的運動として、終焉して以降の民主運動の視点から見た問題性は、日本において、<デカブリスト>も<ナロードニキ>も<人民の意志党>も存在し得なかった、と云う事実は重い。
指導層の責任である。余りにも思慮浅く、帝国主義的民族排外主義に流れ過ぎた。
 
 
>>その果てに、日本の近代の終りの戦時体制が煮詰まってくると、本居宣長の様なファナティックで偏狭極まりない皇国イデオロギーに凝り固まった田舎モノ学者を小学校6年生のサイタ、サイタ、サクラガ、サイタ教科書に大きく取り上げなくてはならない様になる。
 
>戦後、小林秀雄以下、イロイロナ知識人が本居宣長を取り上げているが、ほとんど全部、弩壷にハマっている感がする。
 
 小林曰く
宣長の学問はその中心部に難点を蔵していた」
「上田秋声の議論の狙いは、初めから、<皇国を万国の上に置かんとする><日本魂(ヤマトダマシイ)の偏りにつき、学者たるものの反省を促さんとする処にあった」
 
 そう認識しても、小林秀雄本居宣長の中に<豊饒さ>を見出したのは
>>古事記などの古学ー古意を明らかにするー漢意を取り除くー古言を正しく理解する、と云う方法論の斬新性によるところが大きい。(小安から引用)
 
 が、古事記の漢文の音読みとそれがもたらす意味の世界を系統的に取り除こうと試みても、
宣長の云う<言>と<意>と<事>との相応する同一性の世界とは古事記の背後にとらえた日本固有の、やまとことばからなる原初的日本の<<仮象>>に過ぎない。
古事記と云うテキスト自体が漢字、漢語と云う異言語契機によらずしてが成立しえない。
古の真のテキスト古事記とは
純粋固有のやまとことば世界という宣長の<理念とと共に成立した<仮想のテキスト>だ」
 
 ちなみに宣長の真誇張は古事記の漢意は排除して、日本の当時の古語を復活させようと意図するモノであり、キリスト教原理主義者がキリストの生きた世界まで辿って聖書の中身を全部信じる様な位相と想って間違いない。
尤も片や民間宗教であり、こちらは自ら古代的国家支配を正当化するためのサーガ。それはあくまで民衆次元になく国家支配層の主導性の正当化にある。だから、本質的に古代的祭政一致の支配システムの正当化だから、人間的倫理観、煩悩への救いは希薄。
 
 そして言霊の支配する世界とかなんとかの神秘主義のお出ましだしで、素朴な皇国イデオロギーが出現する。
 が、最後に小林秀雄
>「古人にならい御霊と呼ばれた生命力を、まず、無条件に確認する処に、学問を出発させた以上、この御霊の得の余呼ぶ限り、<皇統は千万世の末まで動き給わぬ」事については学問上の間違いはない」と宣長に随伴する。
 
 文学的手練手管を使って、本居宣長の様なファナティック、カルト的狂信を小学6年生の国語教科書に載せざる得なくなった近代日本の歴史の必然性を温存する。
  
 宣長の皇国イデオロギーが真ん中にある国学は、情緒、雰囲気的に怪しい魅力があることは確か。
日本語の持つ曖昧性、日本人の論理でなく最後は何となく情緒に頼る国民性に根付いているのも確か。
 
>支配層は自分たちの進む方向に国民をなびかせる為にはあらゆる手練手管を使って弱点を突いてくる。
日本の戦前戦後は文化的にも継続のままだ。