反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

幕末ー明治初頭の一揆、内乱、騒擾事態メモりー、第一回。

 天保7年(1836年)-甲州騒動。
 江戸末期の逸脱暴力一揆の典型。
 徳川斉昭「内憂外患」と称した。郡内地方で発生。原因は米価高騰。
第一段階。地元百姓の頭取を中心とした江戸時代の通常の強訴一揆の闘争形態から、他地方に移動する過程で悪党
>(中世鎌倉末期の荘園公領制の崩壊に乗じて「非合法」的勢力拡大を目指した地元豪族武士を<悪党>と称する場合と違って、
江戸末期の幕藩体制側の認定する<悪党>とは
従来の合法的強訴一揆から逸脱した殺人、放火、モノ取りの非合法領域に踏み込んだ百姓一揆の参加者を指し、
領主側の仁政と百姓側のお百姓意識の相互関係を大きく踏み外しているとして、禁を破って、鉄砲などの火力を総動員してせん滅してもいい、と云う断定を含むモノ。狭い範囲では一揆に参加する百姓を除いた無宿人、あぶれ者、盗賊。)
参加によって、暴力、ものとり、死傷者が発生し、一揆は地元頭取のコントロールから離れ、頭取たちは地元に引き返す。
 参加人数ー232名ー修検者1。無宿坊主2。無宿115名。百姓114名。
参加百姓は無宿人が一揆の最中、盗み集めた脇差しなどの武器をもらいうけ、身に帯びて転戦。
 
 天保8年(1837年)ー大塩平八郎の乱
支配層の武士が天保飢饉で飢餓線上の住民の悲惨をみて、自己を犠牲にして、武装蜂起した画期的事案。
イロイロナ見方はあるが、結果的にそういう事だ。
大阪天満、成正寺に平八郎と息子の格之介の立派な墓があり、今も訪れる人が多い。
 
 1840年、アヘン戦争。清VS英仏。清敗北。幕府、オランダから東アジア情勢を説明され、開国を進められる。
 1853年、米国、黒船来航。中国狙い英仏けん制の植民地獲得ゲーム?
 1854年、日米和親条約。-米国最恵国待遇。続いて英、露、蘭と締結。
 1858年、日米通商条約。ー関税自主権なし、治外法権。欧州諸国ともめ事発生時には米国仲介。不平等          条約。1894年日清戦争勝利ー1904年日露戦争勝利の過程で日本は朝鮮に同じ手法で植民地        化。
 1860年、咸臨丸渡米。
 1861年~1865年、アメリ南北戦争。正式名はアメリカン、シビル、ウォーだから<米国市民戦争>。
        市民レベルで無慈悲な殺し合の内乱。死者200万と云われている。合衆国憲法修正第2条、民兵        の武装が国家の武装の基本という武装人権を基礎とした国家主権の明記。    
 
 1868年~1869年、戊辰戦争。日本の支配権をめぐる支配層同士の内戦。
        戊辰戦争の戊辰とは干支だそうな。明治政府が内乱内戦によって権力の座に就いたと云う自らの         出自を誤魔化す為に名づけたのだろう。市民同士の殺し合い、市民戦争の現実をアメリ南北戦争        とよく似た位相の本質直視を避ける誤魔化し。日本人の特性。
 
      <<1871年まで。世直し一揆。>>
 1868年(明治元年)ー上州世直し一揆。百姓中心。武器、鉄砲、槍、竹槍。暴力、盗みあり。放火は威嚇。
 1869年ー西牧騒動。上州騒動の影響。焼き討ち。
 1869年ー上田騒動。打ちこわし、家屋放火で194件焼失。同時に新県知事に強訴、米価安定、年貢低減。  1869年ー会田騒動。25件焼失。米価高騰、二分銀不流通抗議。
 1869年ー川西騒動。打ちこわし、放火。
 1870年ー須坂中野騒動。打ちこわし放火。説得のため出張した役人2名殺害。1村で19名の処刑者。名主         斬首。組頭獄死。一揆の頭取は村役人だった。
>江戸時代の一揆の一般的形態は強訴。村落共同体が強訴の意思一致の基盤。この須崎中野騒動と云う殺人行為まで至った一揆でも名主、村役人、組頭と云う村落共同体の主導層を含んでいた事からもそれは証明される。
>江戸時代の領主の仁政と百姓のお百姓意識と云う暗黙の合意点があって、<異議申し立て(訴)と云う運動が有効な手段となる。「共同体が有効に機能してこそ強訴が生まれる。この結果、暴力放火などの逸脱行為は否定されていく。」
 
>百姓側が従来の一揆作法を捨て、暴力、放火に及ぶのは、
「恩願し得る秩序が崩壊したと云う感覚に伴う独自の意識高揚に基ずく」行動で、この時点では従来の強訴は有効な手段でなくなっている、と云う百姓側の認識がある。       
>以上の様な秩序崩壊時期においては百姓側の争乱期での意識高揚と共に、強訴と云う従来の異議申し立て手段は必ずしも有効に機能しないと云う認識が広まっているから、この時代の一揆は暴力的形態を最初から帯びざる得ない。
 
>この後、1871年~1873年の新政反対一揆
1874年以降の地租改正一揆
さらには、
1874年、江藤新平佐賀の乱に始まり、
1877年、西郷隆盛西南戦争と云う武士反乱、内乱
を跡付けていくと、前回の記事の秩父困民党蜂起は歴史学に照らし合わせても、暴発や悲劇で済まされない事態だと理会できる。
歴史的事態はそれなりの複合する事実に沿った評価がなされるべきである。
特に民衆運動関連の歴史的記述をする場合、知らず知らずのうちに支配層側の否定的見解が混入することを警戒する。
面倒だが、事実に沿って、キチンと評価することが今の我々の力になる。
 
>時間不足でこれ以上進めないが、次回も歴史に学ぶつもりで書き出していきたい。