先日、岩上安見さんのサイトでTPP参加反対の国会議員の超党派の集会を見たところ、イマイチ、本気度に疑問を感じた。事実、この間、支配層が企画した重要な政治方向は国民の反対にもかかわらず、次々と可決してきた。悪い方に修正さえされている。
TPP参加反対集会に集まった超党派の国会議員のセンセイ方の総数は250名をかなり下回っている。
聞くところによると、現時点での国民レベルでのTPP参加賛成と反対の割合は拮抗しているらしい。
さらに、永田町の既成勢力に対抗するかのようにマスコミで喧伝され続けてきた橋下、維新の会もその具体的な基本政策が明らかになるにつれて、TPP参加賛成であったり、消費税地方税化、など市場原理主義的本質が明らかになってきた。
もっと酷い事には、それさえ気づかないと云うか、目と耳をふさいで、既存の勢力とは違う期待感を寄り拠り所に、多くの人が一票を入れそうな気配である。
その中には3年ほど前に「国民の生活が第一」の一票を投じた人がたくさん含まれている。
論理的思考よりも漠然とした雰囲気が優先されている、としか言いようがない。
尤も大震災原発事故直後の東京都知事選挙における民主党支持層の投票行動は石原慎太郎、そのまんま東、ワタミの会長に三分割されているのだから、民主政権交代がダメだから、橋下維新とは、その意味で自然の流れではある。
こういう状況に置いて、間接民主主義で多数を決定だからと云って、ハイそうですかと、引き下がる訳にはいかない。
この様な中身の空洞化した選挙、審議、採決、多数派形成のベルトコンベアーに感覚を麻痺させていると多数の国民生活や権利、命、健康は浸食されて行く。
>>と云う事は
もうあきらめよ、とでも、しない限り各々は自分の中に戦いの根拠を打ち立てて、粘り強くやっていく事だ。
少なくとも政局の中に自己を埋め込めない非政治的人間の自分は、そう云う内発的な処に根拠を見出してきた。
政治的人間はそういう面倒な作業の必要なく、次々と発生していく政局、政治過程に自己存在を埋め込むことに齟齬や矛盾はあまり感じないで済む。なぜか政治的野心に持続性があるのだ。
が、こういう人間類型は極少数派である。
たいていの人は一時的な政治過程に熱中できるが継続できない。
当たり前だ。持続するモチベーションや対価は政治の世界に期待できないからだ。
>そういう非政治的的人格の一般人という限定であっても、つい数年前の投票行動における政治的選択と明日の選択が90度もズレテいると云うのはオカシナ現象である。
期待が裏切られて、だけでは余りにも子供じみて安直すぎる。
今は大したことがないと、大雑把に感じる相違は先々において、向かっていく方向がまるで違っていく事に気づいていない。
>時代状況に例えると、軍部台頭下での1929年代後半の議会内政党の政争に似ている。
その時点で日本経済の軍需への歪な特化が経済下部構造の主要部分を形成し、民需は完全に圧迫されていた。
>今、軍部に当たるモノは巨大化し歯止めの利かなくなった日本資本の蓄積構造の海外展開である。
この方向は国内経済を空洞化、格差を拡大、金融寡頭支配を伴って、前に進むことはあっても後戻りできない。しかもこの方向を助長する様な政策が意図的に選択されている。
>もう経済を含む国内問題は統治の対象、自分たちさえよければいい、と割り切っているとしか思えない。
事実、私が見た限り外務省や経産省のテキストにある基本思想は、煎じつめるとそういう事と感じた。
TPP参加の基本理念はコレである。
税と社会保障の一体改革の基本理念の方向も、こうした支配層のTPP事態推進の基本裏面の一環となっており、その内容は日米同盟深化=日本の米戦略の下での従属覇権の追求、日本国憲法改正などの基本戦略の一環である。
税と社会保障の一体改革の中身は明らかなのであるが、それをアカラサマニできないところが敗戦を引きづり米国世界戦略の下でしか暗躍できない日本支配層の限界である。
つまり、積極的なイデオロギーとして、自力展開できない。
この焦りが東アジアの軍事情勢の緊張度アップを必要としている。
やはり戦前と同じ形態の自らの政治的軍事的選択のなし崩し的口実を求めている。論理的ではなく、情緒的なのである。
多数派国民は生活労働的に敗北する。徹底的に絞りとられるであろう。
>よく社会保障の分野の議論になれば、識者はヨーロッパ諸国を引き合いに出す。
確かに納得できる事ばかり。
>が、国柄、国情が違うと云う事を除いても、何かどこかに大きな説明不足を感じる。
スウェーデンのそういう理念獲得に至った歴史、云い換えると支配層を含めた国民の積み重ねが解り易く整理して説明されていない。初めからそうであった訳がなく、黙っていて与えられた訳でもない。
コレは他の欧州諸国の現状の社会保障制度獲得に至る道についても、同じで、そういう定点観測に立った歴史の説明を日本では聞いたことがない。欧州主要国の一般的な歴史の説明はたくさんある。
>エライ、センセイでも現状の説明だけに終始して、不思議に想わない風潮がずっと日本にはあった、と云わねばならぬ。
だから、ポンと欧州諸国の例を目の前に出されて、ハイそうですか、日本とは事情が違う、で終わってしまう。
>>こういう事になるのも、本当のリアルな庶民に役に立つ歴史観が戦後の日本にはない所為だと想う。
>リアルに役に立つと云う事は、国家と支配層の動向の説明だけでなく、庶民の果たしてきた役割を歴史の中に位置づけると云う事だ。
国家や支配層が力を持つ事と、働く庶民が報われることは等価でないから、庶民の側に戦いが必要だった。
例えば、江戸時代だけでも一揆の件数は、記録にとどめられている限りでも、約3000件にも及ぶ。
非暴力による百姓の強訴は領主側の仁政観念と、百姓側の天下の御百姓意識と相まって、多くの場合、領主側が要求をくみ取ることで、徳川幕藩体制にとって、それなりに有効に機能してきた。
そういう支配関係の中で蓄積された庶民のエネルギーが、明治維新後に解放されて価値判断は別にして急速な国力増進に寄与した事は云うまでもない。
欧州諸国はたいてい近世、近代に置いて、庶民参加の内乱、内戦m市民革命を体験している。
江戸時代の百姓一揆を含めると、日本でもその数は少ない、とはいえない。
>ところが、そういった事態への歴史観を持った目配りは大学の専門研究分野に閉ざされて一般国民の目のふれない。
>歴史観とは庶民にとって手っ取り早い公の哲学だと想う。
国民を大きく、絡め取り、動かす破壊力を持っているのは支配層自身、体験的に一番よく知っている。
日本だけではなく韓国でも北朝鮮でも中国でも同じだと想う。
>前回の記事で参照した<ドイツ人の日本への見方>に面白い記述があった。
日本には兎に角、サムライの出てくるテレビ番組が多過ぎる。
ドイツではナイトの出てくる番組を日本の様に流し続けたら、視聴者からナイトの時代と今とどこがどう関係があるのか、と云う強烈な苦情が寄せられるから、あり得ない、と。
>日本では古代史、明治の日本が調子のいい頃の歴史も含めて、歴史関連物語は溢れ過ぎているほどだと想う。日本人は歴史好きである。
が、自分たちに都合のいい歴史、耳触りのいい歴史に客観的事象を改変する能力は高い。
そして一貫して、かなり様子がおかしいモノを語れる能力にはどうした訳か長けている。日本人の昔から置かれた状況がそういう才能を磨かせてきた。
そういうシロモノを生まれてからズット刷り込まれていると何時の間にやら、体系だった日本的哲学の持ち主が完成する。
その事情は韓国中国でも事情は違うが、同じだと想う。
中国では医療でモノを云うのはカネの多寡。
日本でもTPPによってカネの多寡がモノを云う医療の方向に道が大きく開かれるのは間違いない。
日韓中の支配層は市場原理主義によって経済的自由の追求を極限化させる一方で、政治的自由にはキツイ、タガ嵌めをしている。
お互い庶民の領土をめぐる喧嘩は市場原理主義の寄せてくる大波の元である米国とそれと基本利害の一致する日韓中支配層に利する事のない様に限度を弁えるべきだ。自分たちのルールを弁えるべきだ。
>以上の理由に置いて、コレからの時代非政治的人間である、一般人は自分たちの歴史観を持たないと、諦めの境地に沈むしかなくなる。
何だかこじ付けめいているが、自分の中に根拠のないモノは時代の潮流に流される。
体験的実感だ。