反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

領土問題は正義不正義、紆余曲直の領域にあらず、<風が吹けば桶屋が儲かる>!人買ひ船は沖を漕ぐ、とても売らるる身を、ただ静かに漕げよ、船頭殿(閑吟集)

  何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
 
  世間は霰(アラレ)よなう 笹の葉の上をの さらさらさっと 降るよなう
 
  世間はちろりにすぐる ちろりちろり 
 
                               ー以上、<つれづれの文庫>様の閑吟集、特集から引用ー
 
1、大風で土ぼこりがたつ
2、土ぼこりが目に入って盲人が増える
3、盲人が三味線を買う(当時の盲人が付ける職業に由来)
4、三味線に使う猫皮が必要になり、が殺される
5、猫が減ればネズミが増える
6、ネズミはをかじる
7、桶の需要が増え、桶屋が儲かる
                      
                              -以上、グーグルよりー
 
>古は残酷、残虐非道がまかり通り、常態化。命も世もはかない一期の夢幻。そういう中で庶民は生きていた。
一皮二皮~玉ねぎの皮むきに芯はなけれど、今の世間と世界も皮むきをしていくと、ハードボイルド、不条理な実態が剥き出しになってくる。
 
 皮むきをして、直視するかどうか。
やらせない,、自らしない社会システムだった、敗戦後の日本。
 
>人買い船は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿
 
 この唄は何度も引用させてもらった。
 閑吟集の成立は1518年となっている。
 
 この時代は応仁の乱(1467年~1477年)一応終息しても、足利将軍家の政権は動揺し遂に崩壊し、幕府を支える管領である細川家が内紛を繰り返しながら、足利家の権力を排除して、京都の中央政権を何とか掌握していた実質的には細川中央政権時代であり、戦国時代の端緒と見なせれている。
 武家応仁の乱の継続の内紛と戦国時代に至る内乱の予兆を抱え、公家は領地を武士勢力に浸食され、没落の急坂道を転げ落ちている最中だった。
 従って、庶民生活レベルでは<かどわかし(拉致)>による人身売買が日常的に横行していた。
そういう空気を前提にしなければ、この唄の背景はリアルに解らない。
 
 >すでにブログ記事で繰り返している様に、閑吟集を解説するする高尚な趣味の方の次の様な解釈は時代背景を抜きにした完全な誤りなのである。
 
 「コレはもう安寿と厨子王の世界でしょう」-確かにそうだー
「それでも波の穏やかな海岸沿いでなく、波の荒い沖の方を漕いでいるのは、見つかれば多少なりとも官憲の追求があったからの事でしょうか」
 
 ー溝口健二の日本映画史上最高傑作の一つに数えられる「山椒大夫」のかどわかされた安寿、厨子王、母親一家が母親と別個に琵琶湖上を船に載せられ山椒大夫の下に送られる場面。
確か、縛られておらず、監視員のモノと炉を漕ぐ船頭だけの状態だった。
 
 人買い船は霧の深い静かな湖面を進む名場面だったが、船が岸からズット離れた沖合を行くのは、単に少ない監視員で逃亡を効率よく防ぐためだった。
女子供では船から飛び込んでもとても岸まで泳ぎ切れない。拉致された側にも諦めの雰囲気が漂っている。当時の官憲側にも拉致を犯罪とする法的根拠がないばかりか、そうできる治安状況でもないし、庶民の日常レベルで拉致は身近のなモノだった。
現代においても北朝鮮による拉致がある。
 
 そこにあるのはまるっきり異なる人権感覚だ。
時代が変われば、ヒトの常識も大きく違ってくる。
 
 が、問題はそれが現代に分厚くではあるが包み隠されて潜在化していると云う事実ではないだろうか?
資本制の経済的隷属のことは言うまい。
 
>先日、アメリカ独立戦争をネットで調べると、面白い事実に行き当たった。
 
 アメリカではアメリカ独立戦争の呼称は使用されていない。
ザ、アメリカン、レボルーション。ないしは凄い事に、ザ、アメリカン、レボルーショナリー、ウォー。
アメリカ独立戦争は、破れたイギリス側の呼称。
 
 一見、アメリカ革命、ないしアメリカ革命戦争とアメリカ独立戦争の呼称には大した違いがないように想える。
 
 が、アメリカと宗主国イギリスとの戦争は同時に宗主に同調する同胞である王党派との戦いでもあった。王党派の拠点はカナダにあったがアメリカにも多数存在した。
 
 イギリスとの彼我の常備軍の兵力との違い多きく、アメリカ側は民兵兵站の利用できる広い後背地を利用したゲリラ戦をに持ち込んで勝利した。
 
 そして、共和制の合衆(合州)国を建設した。
そういう歴史の流れの中で民兵武装を基礎とする地方自治地方自治を基礎とする共和制の国家の生まれた。
 
明治維新1868年に先立つアメリ南北戦争は日本流の誤魔化しを含む呼称である。
正式には<アメリカン、シビル、ウォー>=アメリカ市民戦争。
 
 南と北の市民同士が血で血を洗う壮絶な内戦をした、と云う現実をキッチリ踏まえている呼称である。
現実をしっかり直視た呼称である。
 
 ここにおいて、アメリ国民国家市民社会の形成があったとすると、まさに日本で云われるアメリ南北戦争は内戦の暴力革命を通じた市民革命だった。
 
>こういうアメリカ史の大きな流れを踏まえると、日本人の側から単純素朴に銃規制を云々できないはずだ。
 
>>アメリカと敗戦宮廷的残存勢力による戦後の日本国民支配の力のバランスと利害一致で成立した日本国憲法アメリカ史の視点から考えてみると違った側面が見えくる。
 
 冷戦時代の到来に即応したGHQ占領下の警察予備隊の結成から、サンフランシスコ条約承認を結節点とする自衛隊への発展の時系列を辿る場合、日本人の個々の主体的武装と云う根本問題が何処かに飛んでいって、9条平和条項を云々している。
勿論、9条が1~8条の戦後天皇制の権利と義務規定とのバランスで決定されていると云う点も余り論じられない。
 
>日本人個々の武装民兵ー国軍の形成と云う武力の積み上げ。
これは人権と自由、地方自治に並行する問題。この観点から1~8条と9条を考えることもできる。
 
>こう考えていくとすぐ9条と軍事の制度問題に限ってしまうが、本質的には国家論の思想問題である。
 
>今現在、国家武力がある程度、足りているのに、一端事あると大きな欠如感、不安感、空白感を国民全体が覆い、何処かヒステリー的に浮足立っている様に見えるのは、以上述べたような普遍的な身近なルートで武装が問題にされてこなかったのが原因しているともいえる。
 
そうすると、本当の土台がなくて、太平洋、東アジアに展開するアメリカ軍事力と自衛隊の連携にストレートに短絡してしまう。
 
こういう思考ルートが<風が吹けば桶屋が儲かる>仕組みを国民側から補助している。
 
>先に挙げた、<風が吹けば桶屋が儲かる>の戯言。
領土問題が波立って来るとアメリカの思う壺とは単純にいかない。
それは国と国の架空のパワーバランスに幻惑された虚妄。
 
>支配層が領土問題を激化させるのは、そうすることに国民収奪の利害を見出しているからだ。
国民統治の要請が強まる政治情勢が形を変えて領土問題を激化させる。
 
 今は戦前とは違って、領土と云う面の支配の価値は大きく減少している。
そういう事に血道を挙げてきた国は結果的に経済力を減退化させている。
 
 当然であろう。
経済構造の次元が変わってきている。
 
 が、経済覇権と並行する武力の在り方は問われている。
日本の様な形は非効率的になってきたいる事だけは間違いない。
 
  <追記>
 9条をいじるならば、1~8条の天皇の権利も制限しなければならない。論理的歴史的に考えるとそういう事になる。そうしないとただでせえ孤立し、敗戦的に戦略性の乏しい日本の選択肢は狭まる。国際関係のすう勢は日本の独善が許されるほど甘くない、と想う。
 この間、韓国の歴史教科書を自分なりに検討した。
近年の日本の新しい(何処が?)歴史教科書などの偏向傾向もある。
同時に韓国教科書にも歴史的事実に基づかない神話、説話の無批判的記載がある。
この溝を小さくするのは、民間レベルの歩み寄りの延長には限界があり、政府レベルでの相互の歩み寄りが必要と感じた。
 東アジアはコレから先、仲良くしなければ生きて行けいない。
させたくないのはアメリカとその共同利害者の支配層、その手下、とこの点だけは、ハッキリしている。
 歴史的事実のとしての問題点は何処にあるか別の機会に記す。