この間、韓国の高校歴史教科書を検討してきた。
近現代史における日本への厳しい目線は仕方がないと想っている。
江華島条約に始まり、日清日露戦争を通じ、日韓議定書、第一次日韓条規、第二次日韓条規、そして遂には1910年の日韓併合までの、日本と李朝朝鮮、大韓帝国の歴史過程は朝鮮、韓民族側の帝国主義の時代に相応しない歴史的な政治軍事の準備、対応不足という脆弱性もあった。
が、同時に明治維新を主導した「革命」軍人たちの側にも大きな限界性があった。
政治軍事の枠が狭過ぎて、スパンも短すぎたから、その延長線上の、大きな災いは必然だった。
明治維新の独裁政治は反対勢力の力によって修正されない限り、分厚い文武の官僚層、経済権益の形成へと進展し、その支配のイデオロギー的正当化も不可避で、社会経済はトータルとして、先発世界との大きな摩擦をひきおこす。
相対的である歴史に原理を求めてはならない。
今を生きる我々は、この道程を批判的教訓的に見ていくとすれば、まず何より、明治維新で活躍し、主導した各人物をありのまま、等身大に見つめる必要がある。余りにも脚色が多過ぎる。
彼らは政治家、軍人として、世界レベルからみると、大きな問題、限界があったからこそ、韓国朝鮮中国と云う近隣の中で日本人が上手に生きる術を指示す事ができない道筋をつけてしまった。
最初に敷き詰めたレールの軌道の方向はそのまま進めば、脱線不可避だった。
彼らはインスタント帝国主義者だった。
彼らは軍人としての枠から出ることはできなかった。
ただこれは今だから云える事だが、今生きる我々は指摘しておかなければ、完全な片手落ちの歴史観を許す事になる。
>>こういう今でも引き継ぐ、歴史観の問題点は韓国と日本の高校歴史教科書の古代史の記述にある。
「古朝鮮は檀君王検によって、建国されたと云う(BC2333年)」に始まる以下の指摘は民族的神話、説話の世界と青銅器時代の琵琶型銅剣などの考古学的遺物の出土地域という科学的立証などが混同されやすい紛らわしい記述スタイルを採っている。
王座に座った檀君王検と称する王のイラストまで添付されている。
中国の国家形成BC2200年と韓国歴史教科書の古代編の冒頭の年評比較に記されているのだから、それより133年前となる勘定だ。
考古学上の遺物である銅剣出土の地域的広がりと古朝鮮の国家形成は関係はない。
部族集団の広範な広がり、と解釈できる程度。
それを「檀君は祭政一致の支配者として古朝鮮の成長とともに周辺の部族を統合し、自らの祖先を天に結びつけた。つまり、各部族固有の信仰体系を総括しながら周辺の部族を支配しようとした?のである」と神話説話の世界と合体させている。
この檀君の時代は神話世界であるから、その王家のその後の説明は一切なく、突然、現実的なBC3世紀ごろの時代が出現し数代の王権の交代。
そこで衛満という「秦、漢の交替期に仲間1000名の流民集団」を率いて南下しての執権時代に突入し、「この頃、古朝鮮は社会経済の発展に基づいて中央政治組織を備えた強力な国家に成長した」がやがてj強大化した「古朝鮮は漢と対立する様になった」。
>もうここまで読むと疑惑が広がり過ぎて、我慢できなくなって、しかるべき歴史書によって、このあたりの事情を検証するしかないと決断。
>「古代朝鮮」の井上秀雄さん(専攻、古代朝鮮史、古代日朝関係史)は著書の冒頭でハッキリと断っている。
「記録の上で、あるいは伝承の上で、朝鮮に置いて人間の歴史が問題にされるのは~前2世紀までの古朝鮮以降の事である」
1)檀君神話の真相。
1231年のモンゴル軍の高麗、朝鮮侵入に対して、高麗時代後期の武臣政権は騎馬兵主体のモンゴル軍が攻め辛い江華島に布陣する事で、全土の民をモンゴル軍の蹂躙するがままに放置していたところ、「国民は自発的に各地で、支配者の庇護がなくとも自分たちの村を守るため最後まで戦った」。
「この様にモンゴル侵略軍と戦う農民の中に支配者と別な愛国心が広範に広がっていったと想われる。
この神話は古い朝鮮の史実を伝えるモノでない。史実との関連を求めるあまり、この神話の歴史的意味をとらえないで、国家形成の古さや民族形成の早さを誇るのは東アジアの尚古史観によるモノではないだろうか」
尚古主義と云う耳慣れない言葉の意味は「古い時代の文物、制度を尊び、コレを規範としてならおうとする考え方」。儒教精神の一つの表れだろう。
それは、モンゴル軍の侵入に際して、現実の支配者に打ち捨てられた民衆の郷土を守る抵抗精神が生み出した現実の支配者との関係を厳しく拒絶した民衆神話を、後代のモノが<現実の支配者の国家を権威づけるために援用>しているのだ。
朝鮮で一番古い建国神話は半島を最初に統一した新羅の神話である。
それは韓国高校歴史教科書が描く様な檀君神話とは大きく異なっている。
王の権限は協議制の中での有力な権威者であるにすぎず、絶対的ではない。
彼らの協議スタイルは和白と云って全員一致を旨としていた。
初期新羅の王は有力者協議の司会者程度の権限しかなかった。
2)衛満朝鮮の建設者、満は中国の燕国からの亡命者。
「朝鮮半島、北西部に中国の燕国からの亡命者、満を中心に初めて中国王朝と対等な国家が形成されていった。」
衛満朝鮮の敗北後、、朝鮮内部に漢支配の楽浪郡が形成される。
ここの処の記述は郡県制とか云って曖昧。
それが中国国内の支配体制の混乱もあって消滅した後、勃興したのが新羅、百済との3国時代の高句麗であり、それらの激しい争闘で唐の援軍を利用して半島を統一したのが現在の韓国で云えば、慶尚北道と慶尚南道の北の部分に発祥した一番国家形成の遅れた新羅である。
近世以前の朝鮮の文化制度の原型は新羅に見出せる。
井上秀雄さんによれば、その時代、中国歴書が云う倭は多くの場合、日本を指す言葉として使用されていない。
さらには、高句麗王碑文。
>が、井上秀雄さんの次の様な主張に親近感を想える。
>私は奈良の飛鳥の里を訪ねた時に直感を今でも大事にしている。
甘粕の丘から展望できる手狭そのものの地域で古代人の権力機関は集合している。
木造の建物跡は全て、古の痕跡を止めず、破壊され、朽ち果てている。構造物の遺跡は古墳しかない。
周辺に点在するきわめて原始的な自然の巨岩を組み合わせただけの粗末な古墳の中を潜っている時、
脳裏をかすめたのはここは原始の色濃い世界であり、所謂、文明世界とはかけ離れている、と云う得も言われぬ断定だった。まだ古代の文明化以前の原始的世界である。
まさか縄文まで辿れないが、弥生時代の延長線上の世界を強烈に直感した。
当時の造船技術を再現した船の現物の展覧を見ても、あのような丸木舟の延長の様な労力のいる技術では、大量の船は建造できない。
大軍の派兵と云う軍事力のバックがなければ、半島南部の任那日本府は覇権は維持できるはずがない。
またこの地の海岸部は大阪平野を流れる淀川よりも傾斜度の極端に小さい大きな川の下流であり、ために水はけが極端に悪い地である。淀川河口の大阪平野の大部分でさえ、水運に恵まれれいたが農業生産力に乏しかった。
そんなところを大和朝廷が占拠する経済的根拠がない。
ただし、野蛮な地域は文明地域への略奪、強盗を常態化させる。
また、当時は今に近い国家観、民族意識が何処まであっただろうかと云うリアルな感覚も問題にしなければならない。野蛮な状態で相互に覇権を争っていたら、目的のためには手段を選ばない。
そのためには歴史も偽造する。
<追記>
朝鮮でも日本の古代律令制と同じく地方豪族の支配の抵抗もあって中国をひな型とする官僚中央支配が貫徹できなかった。
それが、いざ開国と云う段になって、隣の中国のアヘン戦争などの軍事情勢の軽視による旧支配層中央自らが頑なに号令し続ける衛生斥邪=開国拒否になる。そして、結果、植民地支配に暗転する。