反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

孫崎享著「戦後日本史の正体」、読了。この本の最大の欠陥はパワーポリテックスの論理に拘束された米国絶対史観。内外の民衆の力不在の「NOと言える日本」を超えられない、閉塞思考。

 孫崎享さんの「戦後日本史の正体」の第5章、自民党政治と高度成長、第6章冷戦焼結と米国の変容、第7章9,11とイラク戦争後の世界を読み終えた。
申し訳ないけど本は買わなかった。書店で座って2時間で読了。必要な本は買って手元に置いておく。読み返して使える。
 
 例えば、「増税はだれのためか」。
視点の違う専門家が消費税増税問題に関してインタビューを受けている。インタビュアーの鋭い質問もあって、財政金融、日本がぶち当たっている経済問題の概説と各人の処方箋が開陳されている。
 
 ここで高橋洋一という小泉政策の財務省側の先兵の見解にコレは酷すぎると、繰り返しブログで攻撃してきた。
 
 案の定、橋下徹の特別顧問として、維新8策で、消費税の地方税化(ヨーロッパがやっていると云うだけの理由で大した根拠はない。橋下みたいな徹底した市場原理主義者、米国の手先の様な奴に安定財源である消費税収を預けたらどうなるか解ろうと云うモノだ!)という彼の主張が取り上げられていた。
 
 その他、維新8策の財政、金融関連の政策の底流には高橋洋一の金融の量的緩和(インフレによる経済活性化の事だ)、財政緊縮、徹底した市場原理主義推進があるとみている。
 
 ただし、小泉時代の様に米国バブル崩壊で米国を中心とするモノ、カネの世界循環体制が変容し、円安誘導できる環境にないから、産業空洞化の歯止めはない。
小泉時代の見せかけの好景気は米国バブル景気の長期化と円安による日本国内輸出独占企業群の景気主導が大前提。一部の市場関係者と大企業だけが儲かった。
 
 いまや、日本の交易条件の悪化の傾向に決定的な歯止めはない。
 
 今後、日本資本の海外展開はさらに徹底化する。進出先では他国企業との競争激化で、利潤率の低下傾向は避けられない。
 
 大震災、原発事故の経済的ダメージはスクラップアンド、ビルドの期間が収束すれば、一気に顕在化しよう。
理屈からいえば、復興の経済のリバウンドとしての東北地方の経済的疲弊が日本経済全体の沈め石として現代に置いて、再現される可能性も想定できる。
 
 と、すると、TPP事態によるあらゆる分野の格差の急速な進行、日米支配層共同の日本国民多数派への徹底した統治と収奪機構の完成に結果せざる得ない。
 
 多数国民は徹底した市場原理主義の収奪の見えない檻に閉じ込められる。日本国多数派を貧乏に固定し収奪する体制に支配層は生き延びる道を見出している。
 
 今や国内における生産と消費の古くて新しいかい離は基本的に放置され、日本資本はより大きな利潤を求めて海外を目指す。国民経済の循環は蔑にされる。
 
 日本支配層の世界化は多数派国民に徹底した市場原理主義の収奪の檻と一体のモノである。
だから橋下、維新の云う<統治機構!の改革>なのだ。
残存日本国民はもはやあくまでも奴隷的統治の対象と平気で公言している。
普通の政治家の感覚では、<国家行政機構の改革>という真っ当な言葉を使う。
統治機構の改革などと云われて黙っている政治感覚がオカシイ。
 
 こういう、先に横たわる現実を直視したくない、させたくないから、愛国心、排外主義などの食えないイデオロギー国民国家幻想がふりまかれる。支配層は意図的に終始一貫して、やっている。
 
 TPPが云われている様な経済主権の抑圧、否定にまで及ぶものならば、<国民国家としての日本>の物的存在基盤が揺らぐ。
それが解っている支配層は、取りあえず、自らの支配機構の安泰を確保するための増税をする。
 
 増税社会保障の将来ビジョンが見えないとかいう批判は寝言うわごとの的外れもいいところ。
この期に及んで、支配層はアカラサマナ事を語る訳がない。もう牧歌的な国民国家、国民経済の時代は潰え様としている。
キチンと目の前に指示されているのに、見ようとしないだけだ。
税の問題は国家レベルで見るとまず何よりも階層間の問題である。
 
 >さて、孫崎さんの「戦後日本史の正体」のネット上に掲載されているサンプルを読んでも、以上述べたような手元に置いておいて、使えるモノ、とは想えなかった。
そこで、肝心な現状認識の部分を読んでみて、私の想定と彼の意見を比較してみたかった。想定が外れて欲しい、と想った。
彼の様な志は大切にしたい。
 
 読み終わって、やっぱりなと想った。
 
360ページにも及ぶから、大著である。
私が信奉するエマニュエル、トッドさんの「帝国以後」は280ページ。
他にもっと書き方はなかったか、と正直、読み終わって暗澹たる気分になった。
 
 本の表題が「戦後日本史の正体」としている割に描きあげている絵が小さすぎる。
従属か、「自主」かと云う、日米関係に閉塞している感がする。
 
 読み終わっての憤激をズット維持できる人はシンプルに物事を考えられる人。
日本外交の現場の可動範囲の矮小さを見せつけられて落胆する人も多いと想うが。
 
 
>>以下、孫崎流日米関係論のエッセンスを自己流に解釈、要約する。
   
  <将棋の盤のゲーム>に例えている。
国際パワーポリテックのプレイアー米国と日本、そして相手のプレイアーを想定する
 
王将(米国)ーーーーーーーー日本(王将を守り、その時々の<相手の王将>を取る戦略の<将棋の駒>)
        (従属関係=不変)    (状況によって対戦相手は変化) (将棋の駒。歩~飛車までの変数)
 
><米国の対日政策はその世界戦略によって変わる>としている。
>日米関係を一定の先入観(日米同盟OR日本使い捨ての両極端)で見る常識ではなく、その時々の状況によって変わる、と動態的な見方を勧めている。
 
「米国の王将を守り、相手の王将を取るための戦略」の将棋の駒として日本はその時々の情勢の変化に従って将棋の駒としての役割を変化させて、使われる。
 
「たとえどんなコマであっても国際政治と云うゲームの中で米国と云う王将を守り、相手の王将と採るために使われることは間違いありません(対米従属的力関係は不変)。状況次第で見捨てられることもあります。
王手飛車取りを掛けられたら、一瞬のためらいもなく、飛車を見殺しにする(パワーポリテックの世界の非情な論理の絶対性)
「対戦相手も、時にソ連、時にアルカイダ、時に中国イランとさまざまに変化し、それによって日本も歩になったり、桂馬になったり、銀になったりと役割が変わるのです」
「日本の皆さんは戦後の同盟関係がずっと維持されてきて、日本は米国から利益を得てきたと。
とんでもありません。
米国の世界戦略の変化によって、日米関係は大きく揺らいでいるのです」
 
>孫崎さんの「戦後日本歴史の正体」を読了して、閉塞感に陥る原因は
将棋盤のゲームに国際政治例えて、王将を駆使する米国のプレイアーとしての腕前を絶対視している、あるいは腕前の変化を問うていない事だ。
国際政治の将棋盤のプレイアー米国の腕前の変化は不問にして、その時々の相手の王将をとる米国の戦略の将棋の駒として使われる日本の役割だけが歩~飛車にまで変化する。
>変数なき絶対に対比して日本だけが将棋の駒として変数とされている。
 
>現実の経済関係を含めた、国際政治は、そういう固定的ゲームで動いているのか?大いに疑問だ。
>プレイアー米国の腕前が不変である訳がない。日本がコマとして変数ならば、国際政治ゲームのパワーポリテックの世界での米国の力も変数である事は戦後の歴史が指示している。
 
 1930年代の大恐慌時、米国の世界に占める工業指数は44、7%だった。
従って、この時代の世界恐慌は米国不況の世界波及である。
 
 ただ今現在の米国GDPの世界に占める割合は25%程度。
しかも金融部門のGDPに占める割合が3分の1以上に達している事から、実体経済面の弱体化は明白であり、GDP25%の実態が曖昧。
ということはバブル崩壊後も相変わらず他国から、カネとモノの流入をあてにする経済体制であることは間違いない。
 
 >軍事力と二つの世界大戦で培った世界的覇権のネットワークは突出している。
 
 がそれも、朝鮮戦争で中国軍が参戦すると戦線の膠着状態から、中国領内への核兵器の使用も考えざる得なかった。50万兵士を動員したベトナム戦争終結点では関係者は大使館屋上からのヘリで逃亡せざる得なかった。
何はともあれ、9、11事態において、中枢が爆破攻撃を受け、独立戦争南北戦争以来の軍事的被害をこうむっている。歴史上かつてなかったことである。
 
イラク制圧戦に置いても、苦慮し、撤兵している。
アフガンに置いても未だ決着がつけられていない。
どうした事か?
米軍は海軍力空軍力に置いては世界を圧倒しているが、面の制圧戦の不可欠な陸上の戦闘には脆弱性を伝統的に持っていると云う事だ。米国市民社会の極端な個人主義、拝金主義の市場原理主が軍隊に反映されている
 
>さらにまた、内外の国民主体の側の在り方によって、良い意味でも、悪い意味でも時代が変わってきたと云う歴史的事実を孫崎さんは全く、国際政治ゲームのプレイアーとして考慮していない。
主導的、副次的は別として、コレも変数付きでゲームのプレイアーに加える必要がある。
 
>米国の相手にする王将も腕も変数として考慮しなければならないはずが、省略されている。
 
これでは、抽象化した国際政治のゲームと称しながら、ゲームを開示していない。
 
>結論。
360ページも余裕があれば、もっと多角的方面から、書いてくれた方が自分は納得する。
一部の関係者の絵図は<面白くても>、「戦後日本史の正体」と銘打っている割に<やがて悲しき物語>であった。
 
   <追記>
スクラップ、アンド、ビルドと云う文言を使用する場合、過去の記事では、「酷い表現だが」などの形容詞をつけてきた。 人の命が一番、大切。
が、経済的現実を抽象化する場合、単刀直入な概念の使用が求められている。その結果、敢えてそのまま使用した。もうその時期であり、大震災の被災地の復興過程は途中経過大事、将来大事でじっくりとやっていくモノだ。そうでなければ、結果的に地元の経済や住民意思が蔑にされる。即効性を急げば効率の問題になり、地元は蔑にされる。
 
 原発事故は現場作業状況の進捗状況と内外の被ばく線量問題に集約できる。
解らないところが今でも一杯ある。科学の問題として実証できていない部分もあるが、時間の経過がハッキリさせると想う。人体実験的に実証的に。
ネットで閲覧できる官庁の報告書には新たに拡張された許容被ばく線量による被害の部分と原発事故前の許容被ばく線量のグラフが載っていた。
新たに改定された原発事故後の許容被ばく線量は点線であらわされており、明らかに右肩上がりだった。
であれば、究極の処、被ばく線量の被害はパーセンテージの問題になる。
その場合、日本人のDNA化している自然災害観による諦め、開き直りが見解、行動を大きく決定する。
原発事故、当初、<米軍による都市無差別爆撃と疎開>を調べて、記事として取り上げた。参考になる。
国家とはいざという時、住民蔑の無慈悲なシステム。
主人公は多数派国民でなく一部の支配層。
戦争の号令は勇ましいが、銃を持って突っ込み犠牲になるのは庶民。ベトナム戦争時代、徴兵期のはずの歴代大統領は皆、徴兵逃れをしている。
兵士の銃を向ける方向が反転すればどうなるか。
 
 もう一つ重要な点は現場の進捗状態。
メルトダウンした大重量の活性を保つ核毒物は冷却によって、破壊的要素は防止されているが、現状、囲い込まれている訳ではない。
であれば、地下水を汚染し、原発沖に垂れ流されているとみる。
食物への汚染、内部被ばくが問題。
厳密な測定を期待したいが、やるつもりはないのか。
なお、国際政治を将棋盤に例える手法はプレジンスキー「大いなるチェスゲーム」の表題からのアイデア拝借と想われる。
日本の思想政治方面はほとんど海外の二番煎じ。
ザイトク会の行動様式はドイツネオナチそっくり。その大本の「主権回復の会」はそっくりそのままドイツにある名称。日本語は思想政治方面に向かない言語である。