PC画面ディスプレーがどうも寿命を迎えた様だ。仮面がチラチラする。蛍光灯が寿命を迎えたようなもの。
>今回、色川大吉「若者が主役だった頃」を取り上げる。
明治初頭の困民党運動の実地、実証研究など、近代史の著名な歴史学者。私は名前は知っている程度であまり関心ない方だった。
>この本は近代史を余りにも知らな過ぎる日本の若者向けに、著者が切り開いた自分史の視点から、戦中派として遭遇した歴史的事実、事件を解り易い言葉で書きしるしたモノである。海外旅行のした際の論考もある。
なかなか興味深いかい今まで知らなかった事が書かれている。
>以下、順番に記す。
>1933年、著者8歳の時の、日本国連脱退を受けた小学校校長の訓示。
「日本は国連を脱退した。今から世界の孤児になるのだから、しっかりと勉強する様に」
当時のマスコミ情報を鵜呑みにする人が多い中で、読み込み次第で事情を解っているヒトは解っていた訳で、
「世界の孤児になる」という当たり前の厳しい見方ができた。
「憲法9条は米の誤りだった」
>日本の高度成長経済は60年安保の岸退陣を受けた池田内閣の<所得倍増政策>を起点とするものない。
>1956年。(神武景気始まる)経済白書「もはや戦後ではない」。実質成長率9、3%名目成長率12,5%。
>1959年。 実質成長率10,4%。名目成長率14,2%。
>1958~1961年岩戸景気。
>1957年のなべ底不況の時でさえ、実質成長率5、5%。
>有名な池田内閣の所得倍増計画、以前に日本経済は高度成長経済に離陸していた。
高度成長経済と所得倍増計画は日本の戦後史の神話になっているが違っていた。
米国にとっても1950年代はゴールデンフィフティーと称される力の絶頂期であり、東アジアの冷戦体制の拠点として、1951年サンフランシスコ単独講和条約=日米安保の軍事拠点強化と共に日本経済の充実を図っていた。
さらに、1949年の人工中絶合法化も日本経済離陸に大きな役割を果たした。
それ以降、1950年代後半までの間、人工中絶数をプラスすると日本の出生数は団塊世代を維持していた。
経済成長の資金的裏ずけは郵貯=政府財投ばかりでない。
>しかし、ここが歴史の皮肉な巡り合わせ。
>1960年安保改定をめぐる岸信介の対米不平等項目の除去を評価している。
>が、「日本は数百か所の軍事基地提供や特別な利便提供にもかかわらず、日本を防衛しなければならないと云う義務規定がなかった」
>著名歴史家、色川さんの該当箇所を読み返しても、岸信介が対米交渉で修正したと云う指摘はない。
次の様に日米間の事情を総括しているだけだ。
「米国側の言い分は(日米安保によって)米国が日本の防衛義務を負うと云うのならば、日本は米国を防衛する義務を負え」
コレに対して岸の主張は
「もし憲法上の制約(9条)がなければ、日本が侵略された場合米国が、米国が侵略された場合、日本が助けると云う完全双務的条約になる」
そこで新たに
>安保に第6条<極東条項>という譲歩を提供して妥協を図ろうとした。
>第6条
「日本国の安全に寄与し、並びに<極東における国際の平和及び安全の維持に寄与>するため、米国はその陸軍空軍海軍が日本国に置いて、<設備及び区域>を使用することができる」
>以上を解ることは、米国にとって、日米安保の<明確な相互防衛義務は条文化しない>方が都合がいい、と云う事である。
むしろ、第6条の曖昧な「日本の安全に寄与し、極東における国際の平和維持に寄与」程度に曖昧にしておいた方が、在日米軍基地と安保関連のヒトとモノを利用し、自らの極東におけるプレゼンスを確保できる。
この立場は同時に日本政治軍事の対米対抗的な動向へのコントロールになる。
軍事占領を梃子とした日米安保の多目的曖昧使用ができる様に<相互防衛義務>は敢えて安保条約と云う国際条約で条文化する必要はない。
>相互防衛義務規定の安保、明文化には当然、日米双方にとって9条は障害になりそうに見えるが、
仮に、9条撤廃相互防衛義務規定の安保にすれば、隷属対米関係(あり得ないが日本側の交渉次第では対等関係を孕む)中国韓国台湾、さらにはASEANまで至る敗戦国日本とアジアとの戦後世界体制の深刻な諸問題が必然的に浮上する。
>こうして考えていくと
将来、米国の利益に最も叶う安保体制は
<米国制度の日本移植というTPPを経済的基礎>に、
日本に9条を撤廃させ、米軍事力の世界戦略のその時々の情勢の要請に従って柔軟な肩代わりを完全合法化させたい。
>同時に対米対抗的な軍事力台頭は日本の物理的な米国離れになるから、絶対に許さない状態に日本を固定しておく。
日本が自分の国は自分たちで守れるなどと、決して想わない状態にしておくことである。
>この様な米国の思惑と法律論理として自主防衛否定の9条はコレまで深いつながりを持ってきた。
>世界に置いて力の相対化する米国の理想的な対米対抗的な要素を摘み取った9条撤廃による米国に最も都合のいい安保のカギを握るのは<日本支配層の戦後日米関係を超えた米国支配支配層との利害一体化である>所謂、日米同盟では言葉の先行しがちで、実質がいる。それがTPPによる日米支配層の利害一体化。
が、この方向は必ず、米国流グローバル資本と合体した日本資本に蝕まれる日本の多数派国民の利害と衝突する。
国家と資本が国民多数を見捨てて海外を目指す趨勢は修正できず、狭い日本で1%と99%の米国的現象はアカラサマニなる。
偽愛国と排外の食えないイデオロギー幻想だけが国民を統合する絆となろう。
>>「日本にとって隣国が朝鮮中国だったことが幸いした」。は非常に参考になる指摘だ。
「コレらに民族は文化水準の高い、比較的温和な民族であって、気象の荒い騎馬民族でも砂漠的人間でもなかった。
日本はそうした恐怖の震源から隔たっていた。
中国朝鮮が緩衝地帯になってくれたのだ。
北方民族は中国朝鮮に侵入支配力を振った。偉大な中国民族は万里の長城を築いて、防戦したがしばしばその支配に屈した。(後金(こうきん)は、17世紀前半に満洲に興った満洲人(女真人)の国家で、清の前身継者ホンタイジ(皇太極)は内モンゴルを平定し、朝鮮を服属させ1644年、明滅亡後の中国に進出し、1911年の辛亥革命に至るまで中国を支配したため、中国最後の統一王朝に数えられている。)
だが、その中国朝鮮が積極的に島国日本に侵略を仕掛けた事は一度もなかった。
日本人は異民族のせん滅戦に備える城塞を作らなかった。
国内の争乱は絶えなかったが、それは同文同種の内争であり、サムライ同士、領主団同士の殺し合いであっても、
富の源泉たる住民の殺戮であるはずがなかった。
従って、日本の城は領主の戦闘の道具としての身発達した。」
>日本の都市は共同の防衛を義務付ける城塞や掘割を作ることはまれだった。
その結果、自衛のために結束しても、自由と民主主義の母体となる<都市づくりに。日本人は情熱も関心も失っていった。
逆に支配者の側は自分の城を守るため街に火を掛け、住民の家を焼く払い事をためらわなかった。
>日本の都市住民にとって、「城とはそういうモノであり、それから献身や奉仕を求められるいわれはなかった。
そのためかえっての農村の住居様式がそのまま都市に持ち込むことができた。
西洋や大陸諸国の様に厳しい市民の資格や共同の規制を要求されることなく、集合住宅の不便な共同生活を強いられることはなかった。
>西欧における<国家と市民社会(公的秩序と私的生活)の分離>とか、
公共のモラルや個人主義の発達とか
議会制民主主義の成立とかはこうした都市を基盤とした
<<実際の民衆の生活経験そのものからの所産>>であって
決して風土論的生態学的特殊性から説明できるものではない
>自分のコレまでも記事で風土論的生態学的意見を書いてきた。
個人の主体を基準に思考する色川さんらしい鋭い指摘である。