反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

金抗(kim hang)著「帝国日本の*」2010年岩波書店刊。日本政治思想史の概説(丸山真男批判)としては最高傑作。残念、批判の根拠が過去現在の韓民族の存在や坂口安吾的実存主義に安易に委ねられている

 kim hanng「帝国の*」。*の漢字一字。門に或を入れてイリと読むらしい。表紙の真ん中右隅に5ミリ程度のローマ字でteikoku nihon no (iri)と記されているのを発見した。意味はもうどうでもいい。
 
 中身の濃い本でそういう方面に関心のある人はぜひとも読んだ方がいいモノだと想うが、岩波書店はもうちょっと、題名も含めて、考えて欲しかった。
パッと見た題名から受ける印象は、韓国人の論者の暴露本と想えるもので、私も図書館でこの本を見た最初はその程度の本かな、まあ~いいや、変わった意見も参考にしてみよう、と借り出してきた。
 
 ページを開くと、行き成り坂口安吾の訳の解らない、東京空襲下を逃げまどう庶民の姿を実存主義的思想問題に昇華した、完全な観念小説。
コレでは掴みとしては面食らう。
 
 それを引き継ぐ、著者の解釈もこの本全体のハイレベルな水準から見たら、ぼんやりしている持論展開部分の弱点がさらけ出されているモノで、イマイチ説得力を欠く。坂口安吾に思想を求めるのは無理がある。
 
 この部分こそ、著者のオリジナリティーが問われているところだが、残念ながら、そこは人間の自然的状態の紛争による混乱から個人のセキュリティーを守る国家論を日本の歴史的な、(個人のとって)既に与えられた自明の国家観批判に使用している。
 
 確かに、この視点事態だけでも、例えば、3、11福島原発事故やそれを引き寄せざる得なかった原発安全神話の執って来る戦前の残滓を引きづる日本的国家イデオロギーと国民の関係への批判として応用できる。
 
が、こういう外敵や緊急事態から民を守る国家にも、著者の指摘する民を守るための軍備拡張の対外的ブーメラン的連鎖がある訳で、結局、自分の在るべき国家観を提起せざる得なくなる。
 コレが彼の場合、結局、実存主義的良心に委ねられるのじゃないかな?
ただ、その場合の場所が民族分断、臨戦体制化のままの韓国と云う特殊性があり、今の日本人が云う実存とは次元が違ってくると想う。
 
 今のところ、全270ページのうち、180ページしか読み込んでいないが、どうもそういう気配がする。
 
 が、坂口安吾にしても、手元に或る古本市で100円で買った文庫本を読めば、日本の小説家的ないい加減(散文精神と云う高尚ないい方もあるが)、逃げ道を常に用意するところがあって、自らの思想の論理を執拗に追っていく思考回路がない。まぁ~早い話がカミユやサルトルはえらい違いがある、と云うか次元が違う。
 
 まだ、3分の2も読んでいない。
 
 ここまで丸山真男の一般に知られている主要な論点をその著書を丁寧に解説しながら、批判していくと云うモノで、コレによって、以前、丸山真男を読んだ時、難し過ぎて、すっ飛ばしたところが、本当によく解った。
 
 丸山真男がどうして、明治初期の国権と民権の幸福な融合の瞬間の一理想として福沢諭吉に拘って、思想的に限界に至ったか?
また、戦後民主主義擬制としつつも「永久革命者」として、政治過程に置いて、現に行動するモノこそが究極の
実在とするに至ったか、見事に解説されている。
 
 今まで丸山を読み込んだ部分は戦前の日本型ファシズムの精神構造、政治システム批判の部分だけだったのでkimさんの解説によって助けられた。
 
 彼は本当によく、丸山真男を読み込んでいるし、彼の引用している丸山は今現在の日本に十分通用する。
詳しくは解らないが、おそらく、オリジナリティーある日本政治思想に置いて、今現在も丸山真男を超えるモノは出現してないないと想う。
 
 kimさん引用の丸山には明治維新を<第一の開国>とし、敗戦後の状態を<第二の開国>として、論じた部分がある。
多分、今のTPP開国論を最初にブチあげた官僚の頭のかなには丸山の開国論を巡る重要な視点が在ったと想う。コレは日本的な論理とヨーロッパの哲学的論理を融合させた、開国をやる側の高級なモチベーションを鼓舞する内要になっている。昔の政治家、官僚に丸山に影響されているモノが多かったと云う。
そして今も彼を超える政治学者はいない。
 
>今まで読んだ範囲だけでもkimさんの取り上げている人物は我々の時代の「日本思想界」で重要なテキストにされた人ばかりである。
 
 
 芥川龍之介と菊池覚の関東大震災時の朝鮮人暴動流言飛語を巡る会話もリアルタイムとして差し迫ってくる。龍之介が流言飛語を持って盲動する自警団の善良な市民の側に立って
菊池覚が激しい調子で言下に否定しているところなんか、今まで自分が想っていた、この両人の立場は完全に予想外だった。
結局、曇りない目のリアリズムがあるかないかの違いだと想う。
戦前、軍国化の前に、こんな人が一杯いれば、も少し何とかなったかもしれないが、いないのが戦前日本。
 
>そういう訳で、冒頭から著者本人の持論展開はイマイチだが、本論に入ってからの、丸山真男の思想展開の概説から批判は物凄く迫力がある。
日本政治思想史の概説としても傑作だと想う。
この本は著者の2002年から2008年までの日本留学の集大成とみる。
読みにくくさせているのは、やはり日本語が母国語でない。基本的に学術論文である。
校正していると想うが、そこまで難解に書かなくてもいい、と云う部分がある。
 
 とっつきにくいが、今まで、こういう関係の本で、ここまでのモノは読んだ思えがない。
 
民族が南北に分断され、まじかに核の脅威と民主化の後も臨戦態勢が消え去らない状況を生きる韓国人だからこそ、思想的臨場感、緊張感と高い志をもって、この本を書き上げたのだ。
 
 彼の様な若い?年代の日本人学者は普通、欧米思想を導入して分析対象を論じるが、彼は自分の中から、わき出すモノを大切にしている。
 
 論理を展開していく過程はスリリングでもある。思想的な?謎解きのだいご味がある。
韓国の状況はそういうモノを生み出せるのだろう。日本は弛緩するか、必要以上にイデオロギッシュになっている。
場所と時代を超えるのは大変である。
 
 著者のこの本にその方面の賞を挙げても良かった、と想っている。
 
 >ここから先の3分の1は小林秀雄の著者によるガイストと批判、から丸山真男小林秀雄批判の限界を抽出していくつもりらしい。
 
小林秀雄は日本的自然主義の極意のような存在で彼を日本政治思想史として、正面から論じるのは当然の流れである。
 
   <追記>
残り100ページ弱。第三部。日本人になる事。主として小林秀雄論。一気に読了。こちらの方は単純で文字を追っているだけ、考えつつがない分、ハイスピードで読めた。
う~ん。やっぱりこのヒト。冒頭に坂口安吾の三文思想小説「白痴」(時局性があるだけで小説としてこなれていないのは僅かな引用部分だけで解る)を持ってきたり、文学論はやらない方がいい。小林秀雄論の部分は削っても良かった。解っていると勘違いしている様だ。
ここまで重たい問題を取り上げると、解ろうと努力する事、あるいは解っている振りをする事と、解っている事の間には大きな溝がある。それが自分の様な素人にも見透かせる。
このヒトの文学を用いて持論を展開する部分は、努力の過程を文字にして本にまとめているだけ。
専門の日本政治思想=丸山真男論がハイレベルなだけにもったいない。
韓国のヒトだから、日本の小説や評論の鑑賞するのは難しい。
まるっきりと云って良いほど小林秀雄が批判できていない。教組の文学?の高みをいきなり、肯定しては、後に続くのは批判に値しない。
 
>結局、このヒトは日本帝国主義下の朝鮮の人々の置かれた境遇を論を立てる基本視座にしている。
丸山真男論の部分ではそれを超える広がりを期待していたが、丸山論と同じ手法の相手の論理の内側に入って、批判の論理を構築しようとして、見事に失敗している。行き成り、小林秀雄の文学の教組の高みを肯定してしまっては、後は打つ手がなく、最後に唐突に植民地支配の告発を持ってこざる得ない。
 
>ただし、丸山論の部分は使えるハイレベル。
次回、抜粋して暗号解読??をしたい。図書館の本だから返却の前に今後、利用するためにも。