金抗さんの「帝国のイリ」は賞に値する本だと云う、前回の評価は撤回する。
決して、その方法論は間違いでないが、私には普遍性、現在性が十分とは思えない。
その前に、どうしてそうなってしまうのかと云う原因を数点に渡って指摘する。
丸山真男は論理の積み重ねで持論を日本ではで珍しいヒト。
片や、小林は、そういうモノと違う次元の極めて日本的文学者に過ぎないのに厚かましくも、政治や戦争を語っている。そういう存在への同調者もいる代わりに、私の様に激しく拒否反応を抱くモノもいる。
彼にはここの処の感性は理解できなていない様だ。安吾が激しく反発する理由もこの辺にある。
金抗さんは、ここが感性的に理解できないから、坂口を引用しても坂口の立場に立てず、小林の教組の高みを肯定してしまう。
2)文学はあくまでも文学。コレによって政治や歴史を頻繁に語りたがるのは、おそらく日本だけ。
その癖、欧米の様に軍事は語り尽くせていない。日本の文学者は伊東整の云うように所詮、歴史的に「逃亡奴隷」に過ぎなかったからだ。発生の基本の「隠者の文学」の歴史が連綿と続いている。
文学で歴史を語るのも小林の様な次にあげる、トンデモナイ、何様のつもりなのか、想い上がりと勘違いしている視点を生み出す。
「生きている人間はしようない代物だな。なにを考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人の事にせよ、解った試しがあったのか。
鑑賞にも観察にも堪えない。
>そこに行くと死んでしまった人間と云うモノは大したものだ。なにゆえああハッキリしてくるのだろう。
まさに人間のかたちをしているよ。
してみると生きている人間とは人間になりつつある一種の動物かな。」「無常といふこと」
人間の人間たる究極を小林に見るか、生きたリアルな今と、前を向く彼らに見るか。
>金抗さんが全く、同一箇所を引用しているが、ナント、悟りを開いた所業の鑑定人の高みに立った文学者?小林を肯定する事に使用している。
だから二重の意味で金抗さんにはがっかりした。
が、それだけでは普遍性、リアル性が全く足りない。
普遍性とは金抗さんの言葉で云えば、
「問題は、この敵の脅威を個人ではなく、国家に降りかかってくるものだと思念する事である。その時、セキュリティーの問題は国家存立のロジックを根源的に問いただす、超越論的な視座??ではななく、
国家存立を自明なものとみなす自然化された眼差しの証左となるしかない。
それゆえ、セキュリティーの問題は政治や政策のレベルに置いて解決されるべきものでなく、
国家そのものを問質す超越論的な問いの出発点??に他ならない」。
>>が、金抗さんの著書では、残念ながら
<超越論的な視座>
<国家そのもを問いただす超越論的な問いの出発点>
さらには、今の日本の中で差別されている少数派と云うありのままの存在にしかその糸口を見いだせない。
コレは敢えて、私が金抗さんの様な高級インテリの難解な言葉を解読して、敢えてアカラサマニ指摘したモノである。
>>金抗さんは私が指摘した様な持論の論旨を展開する、道具立てを間違っていると想う。
トマス、ホッブス(1588~1679)。
聖職者の子として生まれる。1588年、スペインの無敵艦隊襲来というスペインとイギリスが覇権争奪をしていた時代の思想家の国家論を基に国家論を論じると、
それが金抗さんのありのままの姿だ。
>封建体制、絶対王政のイギリスでは、この論理はまさしくリアルな事態を展開されれいたと想う。
とくにイギリスではヨーロッパ大陸の様な大封建領主の存在は薄く、中小封建領主が分立していた。
>その後イギリスに置いて、当然にも地方独立自営農民のヨーマンの多数出現。
>さらには産業革命から、資本の原始的蓄積期における強制を用いたヨーマン層解体による生産手段から完全に切り離され自分の労働力を資本層に商品として、売るしか生活手段のない労働層を生み出す。
>資本層の根源的富はプロテスタントの倫理に基づき、コツコツ真面目に働いて貯めたカネでなく、内外からの強権的収奪によって得られたものである。
典型的には17世紀欧州一の奴隷市場で栄えたリバプール。
>私はブログで常々使用している、支配層と云う言葉は、こういう国家論に基づいている。
その内容はここで展開しないが、例えば、領土問題、TPP問題。
国と国、民族と民族、資本と資本の関係と云う横軸を対比させるだけでは、事態の真相は十分読みとれない。
国民、民族、資本を分解して、階層の問題としても、見ていかななければ、当たり前の損得勘定さえも、ハッキリ計算できない。
領土問題をことさら騒ぎ立てて、得をするモノがいれば、安直にその類の煽動に載ったら、結果的に大損するヒトがいる。
TPP事態に至ってはもっとはっきりする。
>以上の様な論理からすれば、金抗さんの云う
「この敵の脅威を個人ではなく国家に対して降りかかってくると思念する」だけでは事の真相が個人のリアルな利害関係の判断に置いていかに邪魔になっているか解る。
>が、金抗さんはホッブスのセキュリティー保障の国家論を援用するので、こうした場合の個人も、まず何より、セキュリティーを国家に保障してもらうために、無権利の裸状態の想定にいったん立つ事になると述べている。
ロジックの上での問題設定なのだが。
この辺の処は、実に見事な丸山論になっており、金抗さんによって丸山を学べる事になっているが、丸山の各論旨に同調しているのか批判しているのか、不分明だ。
>丸山自身が金抗さんと同じ視点でホッブス国家論を視野に入れている。
丸山曰く、
「仮に一人ひとりが、自分の生活なり幸福と云うモノを、自分の責任で守ってゆかねばならない。
つまりは外からの侵害に対してめいめい自分ひとりで棒きれでもなんでも使って身を守らねばならない状態を沿うてして見る。
こいういう「極限状態を何時も生き生きとイメージして初めて、国家後暴力を独占している事の意味が厳しく問い詰められる。」
>>が、その後の丸山の論旨を正確に辿っていくと、そういうホッブス的国家観では足りないと持って、「日本の置かれた自然的地理的条件(地政学的条件風土、歴史?)な境界が同時に(日本人にとって)国家です。」とか云って日本人はホッブス的自然状態が思い浮かばない、としている。
(コレについての追加論証は色川大吉引用の10月14日付の記事にある。尤も出所は羽に五郎の都市の論理臭いが)
要する丸山は引用最初のホッブスの自然状態想定の国家観では足りないと想っている。
時間がないので結論付けるが、
今現在の民族分断でセキュリティー優先国家としての韓国の現状が身体に染みついているからだと想定する。
金抗さんも徴兵制度で軍事訓練をうけたはずだ。
朝鮮戦争やその後の半島のリアルな歴史は、強大な外国勢力を含めた、民族同士の大量に血を流し合った残酷な歴史であった。
そのリアルな状態の中で、私の述べる階層国家論がどの程度、有効であるか、自分に問いなおしてみる必要がある。
だから、金抗さんの立場を十分くむ気持ちがある。自分の歴史観は東アジアの中の日本史である。
しかし、理論の次元はキチンとある。歴史に置いて証明された事実を基にしている。
>韓国高等学校検定歴史教科書の冒頭には私が使用している原始的共同体の生産力発展による余剰の出現から富の所有の偏りを階層分裂=国家発生の根拠としている文言がある。
コレを用いなければ、、紀元前2000も前の檀君国家神話は説得力失うのだ。
>>ただし、同教科書が指摘している、最初に半島を統一した新羅の国家形成の推移を見れば、国家機構はそれ自身自生的に整備されていくと云うよりも、外敵との戦争などの交流によって発展していくようだ。
丸山はその点をキチンと押さえている。
それでは理論が理論として成り立っていかない。
>最後に付け加えておくと、丸山の原始的暴力論の部分の様な事を安全保障を考える時に念頭に置くが、現体制の中での個人の自衛武装を拠点とする我々の武装、我々の地域の武装、我々の国家の武装を順を追って考える事にしている。
行き成り、あるがままの日本国家の武装や安全保障、対敵関係は考えない。
>この立場はなにも過激すぎることはない。
アメリカにも本国イギリスに同調する王党派が存在した。だから市民革命である、と云う訳だ。
アメリカ市民戦争である。
余りにも多くの犠牲を払った市民同士の内乱であると歴史的事実を率直に認めている。
認めるところから、市民同士の血を流す政治で獲得された成果が鮮明になり、武力行使の政治の意義と限界を提起している。