時間もない事から、大げさなタイトルの内容は十分詰められないが、問題意識としては間違っていないと考える。
kim hanngさんの「帝国のイリ」の丸山真男論の部分は日本語が母国語でないにもかかわらず、スリリングな論理展開になっており、傑作である事に変わりない。
ただ、指摘する丸山の論理も国家の本質論に迫れない大きな限界があるが、kim hangさんが批判的視座の根底に置き、再三繰り返す「国家生成を超越論的に問いただす」視線はあくまでも、日本帝国主義下の植民地、朝鮮人民、あるいは、差別され排除されるべき少数派の告発という、ありのままの存在論でしかない。
それはそれとして、間違いない事なのだが、
例えば、今や経済発展を遂げ、世界市場に置いて、日本資本の競争相手になっている韓国国民と日本国民の間にその論理が直接、通用するのかどうか?は問題になる。
言い換えると、現在の経済発展と遂げ自力で多大な犠牲を払い民主化を成し遂げた韓国民のプライドの次元から考えると、過去の告発に終始するだけでは十分でないのではないか。
昔の両者の関係は抑圧民族と被抑圧民族の関係である。
今、日本の一部には無理矢理、昔の抑圧民族の視点に立とうしているヒトが一部にいるが、両者の政治的経済的実態関係は、その様な思考の偏狭性、無理をあぶり出す。
もし、この様な政治傾向に多くの日本国民が同調すれば、否応なしに日本政治は名実ともに、世界から孤立の道に歩み出すだろう。そうして結局は、おすがりするのは米国一部支配層となり、国民の富はむしゃぶりつくされるだろう。
米国に東アジアの単独ハブの立場に立たせてはならない。米国排除は馬鹿げているが近隣同士が連携していくことが、終局的に多数派国民の利益になる。
韓国中国が戦前の状態でなく、日本の思惑通りに全くならないからこそ、一層大切である。
>中国との関係に置いても、次元は異なるが、以上の政治スペクトルの関係が適応できる、と考える。
政治混乱の中で戦前の半植民地状態の様に列強の介入を招く事態はありえない。
その事は米国支配層も十分承知して戦略を立てている。
解っていないのは、日本の一部、頑迷分子、煽動に引きずられているモノどもだけである。
が、問題はこうした政治層が日本の場合、構造的に醸成されやすいと云う事である。
日本の所謂、右翼と云われている政治層と米国、欧州のそれとは政治的位相に大きな違いがある。
こういう先の先まで見通しての、今現在の対中国姿勢なのかどうか、大いに疑問である。
さらには、東アジアの隣人隣国への偏狭な対中対韓関係、意識の醸成が将来の日本の基底である子供や若者の潜在的意識にどういう悪い影響を及ぼしていくか、あまり考慮に入れない、目先思考の政治過程がある。
権力維持、獲得のために利用できるモノは何でも利用する混迷する政治過程になっている。
>日本国民の中でも少数派は今でも存在する。
>以上の様な政治次元で問われているのは、
「国家生成を超越論的に問いただす」という、彼流の存在論、抽象論よりも、
民主主義のリアルな在り方、国民統合の政治の在り方だ。
彼の論旨に足りなさを感じるのはここだ。
そいう云う問題意識に立てば、朝鮮、韓国、日本の戦前戦後史のリアルな状況を検証し、歴史的な大きな眼差しで、個人の中に定着させていくことが大切になる。
この意味で、彼の丸山真男論は端的に云って、「日本の戦前戦後史のリアルな状況検証」に使える。
政治権力に近づけば近づくほど、支配層的役人政治を習得するのであり、又そうでなければ、己の出世階段は保障されない。
また、民主主義的個人主義を内面化できない国民の在り方もその一環を形成している。
以上の様な論点は今掻い摘んで書いた如く、政治思想問題のド素人では、キチンと論理的に表現できない分野なのである。
専門家に学ばなければならない。その対象として丸山真男の存在は日本的眼差しに拘る限り、まだ越えられていない、と考える。
>>が、kim hangさんの概説?による丸山の日本政治思想の問題点を自分なりに考えてみると、どうしても、日本の政治思想の枠内で思考していては、堂々巡りになる様な気がする。
そして時代的閉塞の渦中での石川啄木の「日本にいるべきか、去るべきか」と云う自問を究極のモノとして取り上げざる得ない様になる。
kim hangさんの場合、韓国人としての歴史を背負う出口がある。
日本人にはそういう存在からの批判の道はふさがれている。
が、そういう存在的な立場からの批判が何処まで政治過程の中で有効であるか。
戦後のリアルな政治史に置いて大きな限界があったとみる。リアル政治では宗派の無謬神話は庶民次元では十分、威力を発揮できなかった。
>そうすると、結局、戦前の日独伊防共協定を持って、第二次大戦を戦ったドイツのワイマール憲法状況を論じた著書に自然と行き着く。
それによって、戦前戦後の丸山政治論の在り方を照射する方法をとらざる得ない。
>「ワイマール共和国の憲法状況と国家学」未来社刊は現代ドイツの政治学の12人の専門家がワイマール共和国時代の責任政党であった社会民主党多数派の論客、政治法学者、党の活動的啓蒙家であった、ヘルマン、ケラーと云うヒトにスポットを当てて、当時の彼の理論、政治的立場を様々な角度から論じたモノである。
>なぜ今ヘルマン、へラーなのか?
敗戦状況と1918年11月ドイツ革命ー人民蜂起を弾圧したドイツ社会民主党多数派とブルジョア民主諸党、社会民主党系列下の労働組合勢力と大企業経営者の政治連合を政治基盤とする共和国は一方で、軍と官僚、ユンカー大土地所有層の旧来の支配層も温存することになり、
この国民の分裂状況は経済危機を背景としたナチスの急激な議会進出と政権掌握の政治過程を辿っていくのだが、この過程で一貫して責任政党の役割を果たそうとした社会民主党多数派の危うい政治的立場を何とか政治思想として、又党の啓もう活動家、学者として打開しよう意図した、ヘラーの当時の政治理論=社会法治国家の問題意識が戦後の西ドイツの社会市場主義経済と西ドイツ憲法に引き継がれていると見るからだ。
>>時間不足で次回に回したいが、コレらの論集の論点からすれば、丸山真男の視点は終始一貫、余りにも日本的な出口なき空間、時間の中にある、と解る。
何よりも、日本的限界はあっても、戦前の丸山的民主主義観が、リアルな政治的実践ー理論の検証を受けていないことである。丸山は特高警察につかまっているが、すぐ釈放され、優秀な論文が認知され東大の教官になっている。そして一平卒として、呉の海軍勤務で敗戦になっている。
敗戦直後は東大の日本国憲法草案研究会に名を連ねている。
ワイマール憲法状況下の政治過程ではその実践と理論はリアルな政治の力学の中で見事に無力をさらけ出した。その点、カールシュミットの云う<先延ばししない政治><決断のナショナリズム>はワイマール体制の崩壊とそのナチスへの収れんの必然性を見事に異論的に描き出したと云える。
>>その時代状況の枠内では敗北を必然化した政治理論であっても、時代が変われば生き返る。
逆に限られた時代に適切であっても、普遍性を失うモノもある。
日本の政治過程が余りにも周回遅れである、と確認したところでどうにかなる問題ではない。
日本国、日本国民と世界の状況に代替えはない。
守るべきものは何か、反対しなければならないモノは何か、戦い取るモノは何か。
<追記>
今日はこういう主題で書き出す前に
<国民個々人のセキュリティーを守らない日本国家の本質はどこから来るのか?>と云う主題も構想していた。そのための論拠となる必要箇所もピックアップしていた。
福島原発事故と住民、日本国家の対応、の問題を掘り下げていく場合、どうしても必要な視点と最近考える様になったからだ。
命が大切。この根源からの問いかけ、告発をもっと深めるために、日本人にとって日本国家のそもそもの在り方を問う、歴史哲学?的視点も加味できたらと考えた。
「国民が全部死んじゃっても、国体を守れという掛け声すらあった訳で、それが戦後になっても頭の中に尾を引いている~云々」
戦争末期にそこまで追い詰められた
彼は半年も思い悩んだ挙句、後に彼を有名にする「超国家主義の論理と倫理を書きあげている。
(と云う事はやはり我々はこんな丸山を越えなければ、戦えない訳だ。東大闘争の時の彼の研究室破壊は必然だった?私も自分の大学の物理的破壊に手を出した。その結果に対する、それなりの個人責任は取ったつもりだ。)
以上を見ても、戦前と戦後のイデオロギー的な、深いところでの切断の困難性が解る。
環境に関わらず、論理的に云って、戦前イデオロギーのかたちを変えた復活は必然だったのである。
まして、冷戦体制の逆コース(この言葉自体も先に視点から良~く考えるとオカシイ)冷戦崩壊、55年体制崩壊、グローバル資本制の新帝国主義の時代である。国民のセキュリティーを経済利得優先で蔑にする政治が危機を迎えるほどに台頭する必然にある。
次回はこの点について詰めて論証する。