反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

丸山真男の永久革命としての民主主義。kim hang「帝国日本」の日本帝国主義告発を超えて。

 まず、尖閣竹島領土問題のが声高に叫ばれる必然性の底の底に横たわる原理的次元の問題を確認する事から始める。この間の記事はこの点(煎じつめると国家論)を巡って試論をやってきたようなものだ。
 
 前回の記事における丸山真男の二通りの国家論(ホッブス、セキュリティー国家論と階層分裂故の国家論)の併記を賢明と解釈した部分はよくよく考えてみると大間違いだった。
ホッブス国家論は自然状態におけるヒトとヒトとの争闘からの合議体発生~次の段階として、個々人の力ではどうしようもない外からの降りかかる大きな脅威に対抗する個々人のセキュリティー防衛としての国家の登場。
 
 しかし、欲望や力の野放し状態における合議体発生の段階で既に階層分解が生じておりこの場合の合議体は力が強くて、工夫できて、多くの富の所有する、と同時に人心を収攬できるモノたちの主導する合議体である。
 
 ホッブス自身、生まれたのはスペインとイングランドが海洋覇権を争っていた時代で、彼が活動した時代は1600年代。彼の存命中、イングランドスコットランドさえまだ統一していない。中世の残りかすを引きずった封建時代に人類学的研究成果に基ずく国家論の考察はあり得ず、剥き出しの個人と国家のパワーバランスの関係の考察でしかない。だからこそ本源的で解り易いく、混乱混迷の状況ではリアリティーを持つともいえる。
が、この次元に留まったら、ファシズムナチズムの独裁論、プロレタリア独裁論、米国ネオコンの政治軍事論を政治思想として越えられない。
 
 その後の資本制の時代の人類学的研究に踏まえた国家論を提起したモノがエンゲルス「家族、国家、及び私有財産の起源」である。詳しい説明は省くが、コレはホッブス以降のその方面の理論の到達点であり、ここからさらに研究が深められていった。丸山の様に両者の理論を併記することは民主主義=永久革命必要論という抽象論の限界である。
 
 kim hangさんは丸山よりさらに混迷しており、事実上、朝鮮半島の南北民族分断状態における韓国国家のセキュリティーに屈服する論理傾向にあると云わざる得ない。
なぜならば、彼は「国家存立のロジックを根源的に問いただす超越論的な視座」と云うフレーズを繰り返し提起しているが、その中身は日本帝国主義下の朝鮮人民、関東大震災で虐殺された朝鮮人の立場や坂口安吾の堕落願望の人間主義であり(安吾自身の本質は倉橋由美子によればモラリスト堕落論をよく読めば、他方で堕落への歯止めがキツク効いていると解る)、いずれに場合も日本帝国主義の支配、敗北と云う特殊事情における告発の域を出ておらず遍的な別のパラダイムの提起といえない
 
 現代フランスのガタリドゥルーズの新しい国家論を援用して自身の想定する普遍的国家論?一か所だけ言及している。
 
「セキュリティーの系譜学と云う方法と云う方法によって、純粋に連続すると思念されてきた日本の国家の歴史を問いただすモノである。その際セキュリティーと云う概念は国家と人間に対する再思考を可能にする。と云うのも、ホッブスの議論から明らかなように、国家は個人間の契約によって成立するものでも、歴史の始原に置いて予め存続する暴力の独占体でもなく(批判対象を矮小化しないでもらいたい)、
個人に襲来する強大な敵の脅威と、その下における人間の存在状態の変化との相関関係からなる、一つの関係性に付された名であるからだ」
 
 ナンセンスの極みである。
コレでは国家よ!セキュリティー保障をしてくれてありがとう!止まりである。
「国家存立のロジック」は明らか(一面的)にしているかもしれないが、「根源的に問いただして」いるかどうか私には疑問。
ましてやこの議論のどこに「国家存立のロジック」を見据える「超越論的な視座」があるというのか。
 
 失礼ながら、17世紀のホッブス時代に先祖がえりをして、民族南北分断の韓国国家の現状が身に染みつき過ぎである。
 
 私も以前、日本国家は個々人のセキュリティーさえ保障しないと、原発事故に絡めた観点から記事を書こうとして、よくよく考えて中止したことが在った。
では、戦前は兎も角も、朝鮮戦争前後の韓国李晩大統領時代の自国民への大量虐殺はどうなのか?中国の事実上、住民を盾に取った人民戦争路線はどうなのか。
歴史的に見て欧米でも決して国家はセキュリティーを保障してきたとは言い難い。(市民革命、近代国民国家の、市民意識の成熟と共にコレらの国家は国民のセキュリティーを大切にしてきた面はあるが、限度は明らか)
 
 だから、歴史的な観点を踏まえて、国家とは、普遍的に一部の支配層の多数の住民支配のための(丸山真男でさえ人民の支配する民主主義は逆説だから、その存立を保障するために永久革命をしなければならない、と抽象的に考えている)国家暴力機構的、共同政治幻想的、道具であったと云う側面は絶対に見逃せないと、考える。この事実を付与しないと国家の根源は問えない。
こういう根源的な観点を持っていないと、個人は国家と対称化できない。ましてや国家の強権とは戦えない。
 
 またしても、kim hangさんの該当箇所を引用する。今度は日露戦争後の世論の風潮に絶望し、「日本に居るべきか、去るべきか」とも書いた石川啄木に言及した部分である。
「啄木は~~国家がて来る性質をあっていない?のではなく我々がそれを敵にしていないと云う。
つまり彼は国家が実際に敵かどうかの問題よりも、我々思考が敵として抽出することができなかった事を問いただしているのである。~
特に日露戦争後の現代国家を思考する際、啄木が提起する疑問は、国家と個人が家族を介してであれ、個人の本然を介してであれ、前時代や個人からの成り行きによって自然的な形でむすばれていると云う思考に対するモノだった。」
 
 はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る
 こころよく 我にはたらく 仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ
 
 東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

 小学の 首席を我と 争ひし 友のいとなむ 木賃宿かな
 
 晴れし日の 公園に来て あゆみつつ わがこのごろの 衰へを知る
 
 ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく
 
 たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず
 ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな
 
            <一握りの砂>さんのブログから引用。
 
私が思うに石川啄木の最終的に立ち至った地点は、kim hangさんの指摘する様な抽象的、思考上の国家論でなかった。
 
 どうしてそんな片手落ちになっているか突き詰めていくと、ホッブスの個々人のセキュリティー防衛のための国家と云う<個人と国家のパワーバランスの事実>の次元にとどまり、国家学の進歩である階層国家論を上記した様に、持論の中に位置づけていない事も原因している。
勿論、それ以外のリアルな現実も大きく作用している。
 
 国家が個々人のセキュリティーを保障し、公共の役割を果たすだけだったら、今の時代に国家とは何かなどと切実に問う必要は薄れるだろう。
すでに今、目の前にあるがままの日本、韓国国家の状態を前提に国民の力(代表的には選挙参加による代議士の選抜ー政党の選択、それによる政府の構成)で国家機構を変えていく、国家の進む方向をかじ取りしていく、と云う問題の立て方になる。常識論と云うか教科書的な国家論ー民主主義論は、そういう次元に尽きる。
 
 が、民主党政権交代前後の事態以降~から現時点の政治過程を内外の前にして、果たして、そいう教科書的国家ー民主主義の常識的教科書的視線だけで、個々人の政治的な立ち位置をキチンと確保できるのか、大いに疑問である。
コレからはそういう時代に突入する、と想定する。
 
>時間不足のため、ここから先の領土問題、統治機構の改革?、TPP、憲法9条変更の一体化推進の現状批判については別の機会にする。
コレらの攻撃の根を辿れば、少なくとも60年安保の岸首相の安保改定時の思惑まで行き着く。
それだけ時間を掛けた戦略的な日米の基本動向を根底に据えている。
セキュリティー国家論の範疇ではこうした事態には対応不全を起こす。
アジア諸国民と仲良くしよう、自主外交、初歩的民主主義で果たしてどこまで対抗力があるか。