1、1960年10月12日。浅沼社会党委員長刺殺。
1961年2月1日、深沢七朗の「風流夢譚」を巡る中央公論社社長、中島邸襲撃、夫人重傷、お手伝いの夫人刺殺。
戦前日本帝国主義の民間ファシストの凶暴な先兵は敗戦直後の民主革命期=GHQ占領統治下(1945年~1950年)では静まっていたが、東西対立の過熱化=逆コース、朝鮮戦争を経て、米国の政策と一体的に連動する反共右翼として再編され、民間レベルの動きが活発化した。
コレらの政党活動は児玉誉士夫の戦前軍部の調した達貴重資材の隠匿物資を基盤としていたと云われる。
勿論、冷戦体制を推し進め、日本政治支配層を強化する米国の手助けもある。
日本の戦後マスコミもGHQに寄りそう事で特権を与えられ、それは今日まで継続している。
社会党の組織的基盤は総評民同であった。
>以下の色川の風流夢譚事件の記述は、60年安保闘争観の心情主義の限界を示している。
「夢の中と云う設定であれ、革命によって皇太子や美智子妃の首が切られ~などのシーンが戯画風に生々しく描かれた」事に対して、「宮内庁も右翼も黙っては居られまい」。「私も読んだ。実名があり、名誉棄損である。文学作品としても稚拙であり、コレは芸術創造の自由と開き直ることもできない。」
「激しい抗議に会い、中央公論社は謝罪したが、右翼は収まらなかった。」
>彼の記述には社長夫人重傷、お手伝いの婦人刺殺テロに対する憤りがどこにもない。
名誉棄損の次元と無差別的理不尽な殺人行為は余りにも次元が違い、短絡に過ぎる。
完全な片手落ちであり、歴史家としての思想性を問いたい。
なお、深沢七朗さんは元々、浅草ストリップ劇場に長年勤めていた方で、風流夢譚以降の作品として有名なモノに「楢山節考」がある。山また山を越えその向こうに又山が在った、に始まる作品は素朴な文章ながら、姥捨てと云うその昔実際に風習を題材にした問題作であり、傑作である。今村昌平によって映画化され、カンヌグランプリに輝いている。この作品が今村監督の最高傑作だと想う。
色川さんは知らない訳があるまい。芸術に至る道は行き過ぎ、間違いだらけである。
それを責任を負って公開する事業者も必要だ。
蔦谷重三郎がいなければ、たった、一年で消えた東洲斎写楽の浮世絵は後世に残っていなかった。
さらに彼の片手落ちの記述は続く。
それなのに
「この嶋中事件は言論界に大きな影響力を与えた。コレを境に天皇制や皇室を批判的に扱う事に脅え、自主規制する風潮が言論界や出版界に広がった」とは辻褄が全く合わない。
コレでは事実上、テロリズム、強圧の実行力を背景としたタブー化を引き起こす発生源への強い意志を持った批判、言説はスルーして、タブーを敢えて、超えようとする言説を行き過ぎがあったから、こんな事が起こるんだという、理屈である。
コレは自主規制の論理そのものである。また繰り返すが、大きな名誉棄損の事実に夫人やお手伝いさんへのテロを持って答える行為は戦前の政治を歪めてきたファシストのテロの再現である。
学徒出陣した、困民党研究者として名を挙げた色川さんの歴史学者としての内実を問う。
気にくわぬ言説の断罪ーテロ、強圧ー自主規制の回路が一端で出来上がると、テロと強圧によって言論を抑え込もうとする側は何度でも同じ手を使う。
そもそもが、検察起訴内容ー裁判所の判決自体に右翼テロに減刑に臨む、戦前から踏襲された傾向がある。
右翼方面の政治的えん罪フレームアップは聞いたことがない。
>色川さんの自分史に沿って記事にする前に、一通り目を通した時点ですでに、相当な違和感があった。
が、当時のメモに寄りながら、生のありのままの自分をさらけ出した現代史は歴史的事実として、臨場感があり、面白くもあり、自分の現代史観を形成する上で貴重なものと判断して、記事にしている。
今後の彼の記述が高度成長経済、欧州旅行と進むに従って、異論反論が多くなる。
生涯二百万部を売ったと云う歴史家といえども、個人の内側に置いて、時代は超えられないものだと想うが、こんな感想が出るのも承知の上、の様だ。当たり障りのない歴史の記述よりも、在り難い。
「こうしたスタイルでの近現代史の試みは、正道をゆく歴史家からは邪道と見られるだろうが、かつて自分史を提唱した事のある私だ。今更遠慮することはない。
敢えてここにその試作をお目にかけよう。」 2007年12月。