反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

民族主義とは個人は属する民族の血液と歴史に規定され、民族を偏愛する自然的衝動を有する、と云う<一つの事実>の承認を求めるモノだが、コレら事実の承認は我等の<生活にいかなる規範>を与えるか。阿部次郎。

 1920年は大正9年。大正デモクラシーまっ盛りの頃で、大正デモクラシーの代表的論客、阿部次郎は「自らを理想的な国家主義者と位置付け」、国家を「我等にとって、その中に生まれ落ちたる運命の一種」として、民族主義を「日本人<個々人は属する民族の血液と歴史に規定>され、<属する民族を偏愛する自然的衝動>を持っているという<一つの事実の承認を求めるモノ>とし、「そこに何らの異議はない。」とする。
 
 ただし、当時のデモクラットを自認するモノとしては、そういう事実の承認を求める国家主義民族主義で個人としての生活信条規範、内面思想の問題を律することはできなかった。
国家と民族主義のあるがままの自然的感情に身を任せる事だけの次元を良しとしなかった。
深く自分に突き刺さる内発的思考、行動を希求するものにとって、当然の成り行きであり、近代的民主主義の原点的な問いかけと言えよう。
 
 この政治体制の奈何に関わらず、個人と国家、民族との関係、距離間の取り方は今も世界共通の普遍的課題である。欧米、東アジア、中東、アフリカ、中南米。世界共通の普遍的な課題になってきている。人類の進歩とみる。
 ただし、日本を含めた先進国では寡頭支配が進行し、逆転現象が発生する傾向は避けられず、民主主義は中進、後進地域で進展する。今の韓国、中国との領土問題も、硬直化しする趨勢の日本と民主化する両国のすう勢の軋轢と云う側面がある。日本人は経済な力の縮小面も含めて、必要以上にいら立っているのである。
またそれが支配層によって、内外の支配のために構造化している。
 
 個人の生活、思考を没我して、日本国家民族の在り方に即時的に塗り込めれば、こういう手間のかかる問いかけは必要でない。
 
 彼らの日本国家と民族主義に己を塗りこめ、没我する事が出来なかった人間的内発的希求は次の言葉に象徴されている。
「しかし、コレらの事実の承認は我等の生活にたして果たして<いかなる規範を与えるのか>-この問題は<事実の承認の彼方に横たわる問題である。」
 
 
>>が、この様な次元の普遍的課題が強く意識されない時代がある。
 
 日本で云えば、1950年代後半から、1985年プラザ合意ー1990年初頭のバブル崩壊までの経済発展を基盤とし、内外の政治体制の長期安定時期である。
 
 30年有余、一世代に渡って、政治的経済的安定時期が継続してきた。冷戦体制崩壊故に、各国の利害むき出しの争闘、押さえこまれていた民族対立の噴出が我々の目の前にあり、その傾向は静まるどころか、過激化の様相を呈している。
 
 世界の経済的秩序が真っ先に不安定化しており、コレを起点に政治的軍事的紛争が激発する傾向にある。
 
 単純類推すれば、1950年代後半から1990年代初頭までの日本は大正デモクラシーの時代風潮が30年余りも継続していたかに見える。
 
丁度、1923年には関東大震災が発生している。
それは2011年1月19日の東日本大震災福島原発事故二重写しできる。
 
大正デモクラシーの時代に政党政治議会の力が比重を増し、普通選挙制が治安維持法と抱き合わせで企画され、1925年治安維持法が先行して実施され、1927年第一回の普通選挙が実施された。
 
 しかし、丁度この時期は第二次大戦後の世界的好景気が長期不況局面に転じており、コレを基底要因として政党政治の奥底では軍部の台頭が進行していた。
 
 >1929年の世界の工業指数の44%を占めていた米国大恐慌を受けての日本の労働力市場の現状は以下の様になった。
 
「戦前のわが国農村が過剰労働力の貯水池を形成していたことはよく知られている。内務省社会局の解雇工場労働者帰趨調べによってみても、一九三〇(昭和五)年五六万九千人の解雇労働者中二二万二千人が帰農しており、総数に対するその割合は三九・〇%を占めていた」
 
「一九三一年には二八万四千人(四三・三%)、一九四二年には二一万六千人(四四・六%)の帰農者を出していたのである。にもかかわらずその間のわが国農家戸数は五六〇万戸前後とほとんど変化を示さなかった。帰農者は既存の農業経営単位にはいりこんで、潜在化したのである」
 
「それらの余剰労働力が不況からの立直りをまって産業界に復帰する予備軍を形成していたことはいうまでもない。加えて、農村における自然増加人口は多数にのぼり、それは青年労働力のたくましい供給源でもあった。新たに農家戸数を増加する余裕がないのだから、二男以下の農業以外に職を求めざるをえない増加人口は、年々およそ三〇万ないし四〇万人と推定された。この大きな新労働予備軍をいかに消化するかが、かつてはわが国識者間での大問題であった。一九三二~三三年当時為替安の波に乗って海外市場を席捲した輸出産業の盛行もこの農村余剰労働力を基礎とする低賃金に根をおいていたといえる。」(法政大学研究所資料より)
 
 雇用調整の巨大なプールとなるはずの日本農村は産業不況で投げ出された過剰労働人口の貯水池になるには大きな限界があり、(寄生地主制による収奪の影響も大きい)、加えて農村の自然人口増加もあった。
農村の自然人口増の状況は次の統計からも明らかである。
 
 合計特殊出生率1930年4、72。それ以前の統計資料はないが、乳児死亡率の高さなどから類推すると、戦前の日本の人口自然増加のピークは1890年頃から1950年までと云う事ができる。(1950年3,65。1960年2、0~2004年1,29)。
 
 戦前の日本の労働力市場に置いては基本的に毎年、30万人~40万人の追加労働力人口増の圧力がかかっていた。
 
 農村の寄生地主制度、民間需要を蔑にした軍需特化、貴族層の存在、社会的自由の抑圧の経済政治体制に置いては、膨大な毎年生まれる過剰労働力人口は、「農村の過剰労働力を基礎とした低賃金に根にした海外市場を席巻した輸出産業の盛行」にはけ口を見つけるしかなかった。
コレは典型的な飢餓輸出であり、結果的に最悪のブーメラン効果の世界市場の争闘戦激化となって、日本に跳ね返ってきて、日本政治の選択肢を狭めた。
 
 繰り返し、ブログ記事で戦前の日本の経済政治状態を語る場合、何時も引き合いに出す基本数値。 
1920年代のワシントン軍縮会議軍艦保有制限割り当て、米5英5。日本3。仏1、75。
ところが工業生産指数はイタリア以下の列強最低の2、4ポイントしかない。
 
 >従って、経済的必然として以下の事態が要請される。
「ところが、一九三一年九月の満州事変を契機とする軍需産業の徐徐なる拡張とそれに伴う産業界の繁忙は、その後における帰農者を減退せしめる一方、新たなる労働力を農村から吸収しはじめた。と同時に労働力に対する需要は一般未経験工から経験工または熟練工に移行集中し、その不足がようやく目だってくるようになったのである」
 
 1931年の満州国樹立、32年国際連盟からの事実上の追放、満蒙開拓はこうした動機に基ずくモノであり、軍部の独走に全部集約するのは、歴史総括として表面を撫でただけだ。
 
その後、この道をまっしぐらに進んで、帝国主義世界戦争色も濃厚になった時点での日米交渉に置いて日本はアメリカの要求に譲れない。
 
 だからその検証の意味を込めて、岸信介の60年安保改定の底になる政治軍事スタンスを執拗に問いかける。
それが自民党の基本スタンスであり、一定の内外条件の中で岸信介路線は踏襲されるのである。
自民党新綱領はそれをキチンとなぞっている。
 
 >>高度成長経済時代からバブル崩壊までは経済成長の陰で彼らが静まっていた時期である。
 
この時代は人口論の立場から見て、「都市、農村、階層の違いによらず、<皆結婚、子供二人前後>と云う特殊な状況が実現した1950年代~1970年代はむしろ特殊な時代だった。」(歴史的に見た日本の人口と家族より)。
この内外の特殊、恵まれた平穏な条件の下で岸信介60年安保政治スタンスは静まることができたのである。
 
 ところが、今後の日本の人口推移は皆婚を前提とした人口維持が皆婚状態の特殊な時代の終わりと共に人口減少に転じる社会の出現である。
 
「直系家族を出発点とする日本の家族規範は意外なほど強固であり、或る程度収入を持ち新たな直系家族を形成できるものと、経済的見通しや価値観の変化から実家に留まり続け生涯未婚のモノとの分化が生じている。未婚率の上昇の原因は若年男性層の不安定な経済基盤であると云う。又、晩婚化の進行、既婚者の出生力も低下しつつある。」
 
 だから敢えて、以前この報告書の次の箇所を題して現代日本に蘇る江戸」と称して引用した。
 
「江戸時代に置いては、経済力の弱い小農や小作人は充分に子供を産めず、絶家に至る例が多かったし、都市の庶民は生涯未婚者が多かった。乳児の死亡率の極めて高かった時代にそれでも人口が維持できたのは地主や比較的大きな自作農に、子供が生産力を形成すると云う側面もあって、旺盛な出産力があったからである。」
が、子供が消費財化している現在ではそれも期待できない。
 
>幕末江戸1865年有配偶率。
麹町12丁目。
男ー47、3
女ー71、8
渋谷宮益町。
男ー46、5
女ー36、7
 
平成12年2000年東京都有配偶率。
男ー45、2
女ー44、5
 
 今から将来の日本政治の基調方向がこういった人口、家族、社会環境という基本構造をより良い方向にほんの少しずつでも云いから転換していくとは想えない。
 
 政治過程は必要以上にいら立って、経済的実態から遊離して、悪い方向に独り歩きしている。
政局が政局を生んでいるのである。
その様な政治過程で選抜される政治家は大衆をひきつける劇的な言説言動のできるモノである。
 
 何事も中身は問わず、力強く断定しなければならない。先延ばしにしない政治、決める政治。
こんなキャッチフレーズはワイマール共和国の状況の中で謳い文句となっていた。
 
 翻って現在の日本はどうか?
同質性が過剰なほどであり、対立も丹念に見ると大した違いがないのに政治家同士が政治過程の成り行きで必要以上に対立点を深めあっていると感じる。
コレは、政治的後進性のある地域、国に良く見られる現象である。
先日イラクの現状を調べて見ると、あそこまでいい様にされて、今更、なにの対立かと正直思った。迷惑するのは一般民衆である。
 
 今の日本もイラクとは程度の差だと想う。
橋下、みん党は煎じつめると、自民党と変わらんだろう。
違いは同じ党内で権力を握って、切磋琢磨できる次元と考える。
昔の自民党はそうしてきた。なのに別党。
国民を迷わせているだけである。
 
 小沢さんところもイロイロ云うが究極の処、悪いが政策的に民主党と大した違いはないと考える。
 
 共産党社民党の違いも、解消でいる筋モノである。
 
 この記事と色川さんの自分史を辿る事と並行して、小沢一郎さんの「日本改造計画」も熟読している。
この本は保守陣営の現在に通じる基本理念や政治路線が1990年代初頭に先行的に集約されているものと考える。
 
 今の自民党等の政治理念、基本路線は小沢さんの「日本改造計画」の市場原理主義による一連の新自由主義政策、政治理念の方向性をより、グローバル資本制の都合に沿うように、大きく超えていると云わねばならない。
 
小沢氏「日本改造計画」は自民党の旧来の高度成長経済の政策を踏まえた延長線上の新自由主義改革であるが、今の自民党等は60年安保改定の岸信介政治理念路線の直接的実現と、米国市場原理主義の日本に移植を政治綱領としているとみなす事ができる。
 
 従って、小沢氏の「日本街道計画」の立場を踏まえた自民等への対立は不可避だったのである。
 
結局、日本社会経済の基底方向をしっかりと掴んで、国民を悪戯に扇動することのない安定志向の政治を敢えてやっていく事が肝心なのではないか。
価値判断は別として、静まっている頃の自民党政治がコレだった。
 
事態を必要以上に危機と過大視して、政治、軍事にいら立つのは明治維新以降の日本政治家に共通する悪いDNAである。だから足元をすくわれるのである。
 
日本経済力の後退は歴史的趨勢。
それに巧妙に適応し、国民生活を守る着実な政治を希望する。